「イエスの仲間」
●聖書 マタイによる福音書10章32~33
「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」と主はおっしゃいました。
単に自分の心の中でイエスさまを信じているというだけではなく、人々の前で、イエスさまを信じていることを明らかにする。それが「イエスさまの仲間であると言い表す」ことです。そしてその人のことをイエスさまは、天の父なる神さまの前で、その人を自分の仲間であると言い表すとおっしゃいます。
迫害の時に主イエスを信じると告白する
イエスさまの仲間であることを表明するということは、そんなに難しいことには思えるときもあります。私自身のことを思い出します。高校生の頃、日曜日の朝どこに行っているのか、と友人に聞かれて、「教会に行っている」と言うことは、なるほど照れくさいことではありました。なぜ照れくさいかと言えば、私が教会に行っている、ということを言うと、「おお」というような、なんというか、ほめているのか馬鹿にしているのか分からないような反応が返ってくるからです。また中には、その後いろいろ尋ねてくる奴もいる。そういうことが面倒くさくて、「日曜日なにしている?」と聞かれて、「ちょっとね」と答えたこともあったように思います。しかしそれでも、もしこれが、「お前は、キリストの仲間か?」と聞かれたとしたら、「イヤ違う」とは答えなかったでしょう。その理由は、もちろんウソをつくことはいけないことだということもあるのですが、頭のどこかにきょうの御言葉があるからだと思います。‥‥「もし、自分がイエスさまの仲間ではないと言ったら、イエスさまも自分を知らないと言われる。そんなのはいやだ」‥‥そんな思いが、どこかにあるからだと思うのです。
もちろん、イエスさまの仲間であることを告白するということは、平時ならば、多少の照れくささ等があったとしても、何でもないことでしょう。しかし、これがもし、迫害の時代であったとしたらどうでしょうか? イエスを信じていることを告白することが、即迫害されることを意味する時代が現実にあったのです。そしてきょうの御言葉は、そういうことを想定して、言われている言葉なのです。
迫害というたいへん緊張した状態の中で、平時と同じように、やはり自分はイエスの仲間であることを言い表すことができるのか、ということです。やがて、ローマ帝国では、皇帝ネロや皇帝ドミティアヌス、あるいはディオクレティアヌスらがキリスト教会を迫害しました。その時、イエスさまを信じている、イエスさまの仲間であることを言い表すことによって、公職を追放されたり、だれも物を売ってくれなくなるという村八分にされたり、投獄されたり、あるいは見せしめとして競技場で猛獣によって食い殺されたり、首をはねられたりしました。すなわち、イエスの仲間であることを告白することが、死を意味する時代があったのです。そのような時にも、私たちは同じように主の仲間であることを言い表すことができるだろうか、あるいは、「イエスの仲間であるか?」と問われて、「そうです」と肯定することができるだろうか、ということです。
高山右近の答え
日本でも同じような時代がありました。戦国時代にキリスト教は急速に布教しましたが、秀吉が天下をほぼ手中に収めた時代になると、雲行きが怪しくなってきました。作家の浅田晃彦(あきひこ)さんの小説「高山右近」によると、秀吉はキリスト教そのものに危険を感じたと言うよりも、九州博多の地で、ポルトガルの船の大砲などの装備を見て、危機感を抱き、バテレン(宣教師)追放令を出します。宣教師は国外退去し、教会は破壊され、信徒は改宗を迫られることとなった。その時、秀吉に従って九州征伐(せいばつ)に同行していた、キリシタン大名高山右近も、キリスト教信仰を捨てることを迫られます。浅田晃彦さんによれば、右近への使者としてそれを伝えに来たのが、千利休でした。利休は秀吉からの伝言として、右近の領地没収と追放を伝えます。ただし、右近が改宗するならば、武士としての身分は保証し、佐々(ささ)成(なり)政(まさ)に仕えることを許すというものでした。
このとき高山右近は、利休に対してこのように答えたとあります。「そんな予感もしておりましたので、わたくしの回答は決まっております。キリシタンを邪教とは思っておりませんので、改宗のつもりはありませぬ。謹んで追放令をお受けいたします。」
こうして右近は、明石の領地を没収され、追放されます。そしてのちに、茶の湯の仲間であった、前田利家(としいえ)に迎えられることとなります。しかしその後、徳川家康の時代になってキリシタンたちは、さらに厳しい冬の時代を迎えることとなりました。その時には、ただキリシタンであるというだけで、死を強制されることになったのです。
弱い私たち
私たちが考えるのは、そのような時代になったとしても、同じように「イエスの仲間であるか?」と問われて、「はい、そうです」と答えることができるのかどうか、ということです。とても自信があるとは言えないのではないでしょうか。
そういうことが起こりうるということを前提にして、きょうのイエスさまの御言葉を読むと、これはまた何という厳しいお言葉なのだろうか、と思われます。思わず、「主よ」と叫びたくなってしまいます。「もしかしたら、自分のような弱い人間は、とても耐えられないかもしれない。主イエスを否認してしまうかもしれない‥‥」そんなことを考えざるを得ません。
イエスさまの弟子たちも弱かった
さて実は、私たちは聖書の中に、他にも弱い人々を見つけることができます。それは他でもない、このイエスさまのお話を目の前で聞いていた弟子たちです。そして、まさにこのときおっしゃったイエスさまの言葉のように、イエスの弟子でありながら、イエスさまのことを知らないと言った人がいるのです。それこそ、使徒ペトロです。
きょうの聖書の御言葉をペトロは確かに聞いておりました。しかし、やがて目の前で主イエスが逮捕され、「あなたもイエスの仲間だ」と問われたとき、「そんな人は知らない」と誓ったのです。ニワトリの鳴き声を聞いて、外に出て激しく泣いたのは、ペトロの自責の念からでしょう。自分の弱さに泣いたのです。
弱い者に教会を託された主
しかるにその後イエスさまは、十字架につけられ、墓の中に葬られ、そして三日目によみがえられましたが、その時イエスさまはどうなされたでしょうか?‥‥ペトロについて、「お前のような奴は知らん」と冷たくおっしゃったでしょうか? そう言われて当然です。ペトロには何の言い訳もできません。
ところが聖書を読むと、イエスさまがよみがえられた時、その復活のお姿を弟子たちの前に現されたのです。そしてヨハネ福音書20:19によれば、復活して弟子たちの前に姿を現された主イエスは、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのです。続けて、「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」とおっしゃいました。つまり、ご自分を見捨て、否認した弟子たちを、「お前たちのことを知らない」と言われたのではなく、反対に、この弱い弟子たちを福音宣教のため、イエスさまの代わりとして遣わすとおっしゃった。赦されたのです。そして、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」とおっしゃった。さらに、あのペトロに対しては、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃって、教会を託したのです。
あれだけ誓いながら、イエスのことを知らないと3度も人々の前で言ったペトロ。まさにきょうの聖書の個所で言えば、天の父の前で、イエスさまから「あなたなど知らない」と言われて当然なはずです。しかし主イエスは、ペトロの罪を赦したまいました。
意志の強い者が主イエスの弟子となっているのではない。意志も心も弱いが、赦されることのすばらしさを知っている者がイエスさまの弟子となっているのです。そして聖霊を受けているのです。19節に戻りますが、イエスさまのために総督や王たちの前に立たされたとき、何をどう言おうかと心配してはならないと主はおっしゃいます。その時、語るのはわたしたち自身ではなくて、私たちの中で語って下さる聖霊なのだと。
私たちは、赦されざる罪を赦してくださるイエスさま、そのイエスさまの愛を感謝します。そして、主の下さる聖霊にゆだねて、今日も明日も歩んでいくのです。
命を大切にすればこそ神を恐れる
主イエスは決して、「命を粗末にする」ことを教えておられるのではありません。キリストの福音のために命を率先して捨てなさい、とおっしゃっているのではない。むしろ、命を大切にするべきことを教えておられるのです。命を大切にしなければらないからこそ、神を恐れなさい、と述べておられるのです。神が命を与え、また命である魂を地獄で滅ぼすことのできる方だからだと。命を本当に大切にするからこそ、命を与えた神を恐れよ、とおっしゃるのです。
ところが神様は、ちゃんと知っておられる。それどころか、神様の許可がなければ、雀が地に落ちることもないというのです。世界中にいったいどれだけの数の雀がいるのでしょうか。その1羽1羽の雀を、神様は見守っておられ、助けておられるのです。驚くべきことです。何というすばらしい知恵でしょうか。しかも神様は、私たちの髪の毛も数まで知っておられる。私たちは自分の髪の毛の数を知っているでしょうか? 知らないと思います。これもすごいことです。
主イエスは決して、「命を粗末にする」ことを教えておられるのではありません。キリストの福音のために命を率先して捨てなさい、とおっしゃっているのではない。むしろ、命を大切にするべきことを教えておられるのです。命を大切にしなければらないからこそ、神を恐れなさい、と述べておられるのです。神が命を与え、また命である魂を地獄で滅ぼすことのできる方だからだと。命を本当に大切にするからこそ、命を与えた神を恐れよ、とおっしゃるのです。
ところが神様は、ちゃんと知っておられる。それどころか、神様の許可がなければ、雀が地に落ちることもないというのです。世界中にいったいどれだけの数の雀がいるのでしょうか。その1羽1羽の雀を、神様は見守っておられ、助けておられるのです。驚くべきことです。何というすばらしい知恵でしょうか。しかも神様は、私たちの髪の毛も数まで知っておられる。私たちは自分の髪の毛の数を知っているでしょうか? 知らないと思います。これもすごいことです。
主は私たちの弱さをご存じです。私たちの罪をご存じです。私たちの愚かさをご存じです。私たちが、主の十字架の愛に値しない人間であることをご存じです。しかしそれにもかかわらず、主はおっしゃるのです。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。そうおっしゃった主イエスは、そのお言葉の真実をあかしするために、私たちのために十字架へと上られ、私たちの命がいかに尊いものであるかを証明してくださったのです。感謝と言うより他にありません。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
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