Saturday, January 11, 2014

16 per annum A

年間16主日 Α

【マタ13:24-43「毒麦」のたとえ】


年間 第十六土曜日
「両方とも育つままにしておきなさい」
マタイ13・24-30
 親たちは子供に、「我慢しなさい。」とよく言うが、子供はそれを聞く度にむしろいやになってしまうだろう。その気持ちは理解できる。我慢とはあまりいい言葉ではないと思う。我慢する人は、いつも損をしているからである。我慢することとは結局、「仕方がないから、諦めよう。」といった、消極的な態度の現れだからである。忍耐は、これとは全く違うものである。忍耐は希望を生み出す。忍耐はとてもいい言葉だと思う。忍耐強い者は、試練を耐え忍び、強い者になる。忍耐強い者は常に期待している。人に欠けているところを見つけても落胆せず、むしろよくなる可能性を考え、許し、助ける優しい心を持っているのである。これが寛容であり、慈悲深い者の性質である。妥協とは根本的に違います。(ジラール)
パウロの言うように、「私たちは、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・3-5)。神は、「善い者の上にも、悪いものの上にも雨を降らせ、太陽を昇らせる」ではありませんか。

Posted by  Andrea Bonazzi     at  Monday, November 14, 2011     No comments:    
年間 17月
マタイによる福音(13:31-35) 
  からし種とパン種のたとえが天の国の不思議さを見せてくれます。自分を振り返ったとき、神の光にふさわしくない自分を感じ、力を失うこともあるでしょう。しかし、天の国が育つためには、ほんの小さな一歩でよいのです。その小さな種も神が与えてくださっています。主のもとに立ち返り、みこころのままに愛を注いでいただきましょう。私のうちにも小さな愛の思い・言葉・行いが動き出すでしょう。種は大きく成長します。想像をはるかに超えて葉は茂り、実がたわわに結ばれ、そこに集う者は憩い、豊かに養われます。
 愛こそがわたしたちを養います。主のみ前に進み出て、わたしのすべてをさしだし、主の愛の中で育てていただきましょう。

年間 17火
マタイによる福音(13:36-43)
イエスをとりまく人々の群れには、イエスのメッセージの真実を見抜いた魂もあれば、イエスの求める心とはほど遠い魂もあったでしょう。人間的な打算、一時的な好奇心、地上的な成功を求める心などが、外側からは確かめられなくとも、その内側に隠されながら生きていたはずです。
イエスに従い、イエスの名を語る群れであっても、そこには本物と偽物、まことの信仰と偽りの信仰、持続する情熱と底の浅い群集心理、永遠への渇きと地上的な充足を求める心などが、互いに入り混じっているのです。しかし外見からその真偽を区別するのは無理なことです。
もしそこで弟子のだれかが、熱心の名のもとに自分の目で判断した毒麦を抜こうとすれば、よい麦をとりのぞいてしまう危険性もあります。自信のある人は、どうしても他人の信仰のあり方を、自分の枠組み、自分のはかりで量り、その行動を批判しがちです。それはいつのまにか狭く堅苦しい教会(共同体)にしてしまうことになりますし、枠組みに入らない人々は、教会に来にくくなってしまうことにもなります。
イエスは、人を裁くことの危険性を指摘したかったのだと思います。人間は心に中まで見分けることができないのです。それは神の領域のことです。口先だけの信仰か本物の信仰か、それを知る人は、ただキリストだけであり、それがあらわになるのは、終わりの時なのです。今、終わりではないのに、終わりだと思うには大きな過ちがある。
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 人の子と悪魔が、私たちの世界に種を蒔いているようです。わたしの心に蒔かれた種はどんな芽を出しているでしょうか。人の子が蒔いた良い種は神の子にふさわしい愛に満ちた芽を生じさせているでしょう。毒麦は愛に反する思いや行いです。今、ここで、わたしの心の毒麦の芽を摘み取り、主のもとに立ち帰りましょう。主は今、ここで導いておられます。主はすべてにおいて優る方です。
 罪を犯した者に対して、その悔い改めを待ち、決して見捨てることなく養ってくださいます。主は、わたしたちがこの世においても太陽のように輝くことを望み、導いておられます。主よ、私に透明な目をお与えください。勇気を持って悪の芽を捨て、良い麦を根付かせ、育てたいのです。どうぞわたしを憐れみ、きよめてください。世の終わりにあなたの光を受け、太陽のように輝くことができますように。

年間第16主日 (2014/7/20 マタイ13章24-43節)教会暦と聖書の流れ

似ていること
http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/kiyofu/kiyofu58dokumugi.htm
 似ているというのは怖いことです。ガン細胞は健康な細胞とそっくりです。偽札とほんものの札を見分けるのは難しいです。圧制者や暴君は、始めは慈悲深い為政者の姿をまといます。野心家も謙虚な衣をまとって登場します。人を傷つけ幸せを奪う「愛」があり、人を救う愛があります。これらの例で共通するのは、似ていることは「同じ」ではなく、ちょうど正反対の性質を持っている場合があることです。これが「偽りと真理を見分ける」という大事な問題を呼び起こすのです。
 ジョン・ミルトンというイギリスの詩人が「善と悪とは双子のように似て生まれてくる」と言っています。人の心には、善と悪とが絡み合って宿っていて、見分けることができないからです。人が何か「良いこと」をしようとする時には、それに反対する思いが必ず湧いてくるのはこのためです。はたしてそれがほんとうに「良い」のか? 自分にとって益となるのか? 疑問が生じてくるのはこのためです。何が正しくて、何が正しくないのか? 何が善で、何が悪なのか? 何が自分と人を益するのか? あるいは害するのか? これを見分けるのは必ずしも容易ではありません。特に、将来のことについて考える場合には、その真偽が判断できないからです。信仰者にとって最大の試練は、困難や苦しみではなく、何が正しくて何が間違っているのかが分からなくなることだ。こう言ったのは、確かキェルケゴールだったと思います。

http://www.uccjg.or.jp/index.php?%E6%AF%92%E9%BA%A6%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88
良い種を蒔いた畑に毒麦が生えたように、この世界は神様が「良いもの」として造られたにもかかわらず、世界には様々な悪が、雑草のようにはびこっています。
 「なぜ神様は、この世の悪を野放しにしているのか」と文句を言いたくなります。この世に悪がある。それは教会も同じです。マタイ福音書が書かれたのは、教会への迫害が盛んな時です。そのため教会には信仰を全うする者ばかりではなく、信仰を捨てる者や裏切る者も出てきて、例え話
の麦畑のように、教会の中に次々と毒麦が現われました。
 良い種が蒔かれたのに、毒麦が現われる。これはマタイ福音書が書かれた時代に限ったことではありません。イエス様は12人の弟子をお選びになりました。しかし12弟子の中から、イエス様を裏切るユダが出てきました。ユダだけでなくペトロも、イザとなるとイエス様のことを「知らない」と言って逃げます。神様はイスラエルを神の民としてお選びになりましたが、イエス様を十字架につけたのは、他でもない神の民イスラエルです。
  たとえ良い種として蒔かれ、良いものとして造られても、この世では常にサタン の誘惑に遭います。そして良いものの中からでも、悪いものが出てくる現実があり ます。その意味でこの世も教会も、例え話のように「良い麦と毒麦が共に育つ畑」だ と言えます。しかし畑の主人は、良い麦と毒麦が共に育っていることを知っており、その上で、「刈取りの時まで、そのまま一緒に育ててなさい」と命じていました。
  これは、神様が悪を退治するのをヤメタと言うことではありません。畑の主人が毒麦を抜く時、他の麦も一緒に抜いてダメにすることよりも、刈入れの時まで麦を大切に育てることを選んだように、神様も今、悪を根こそぎ退治することよりも、 私達一人一人を天の国を受け継ぐ者として、終わりの日まで大切に育てていく ことを選んでくださったのです。
  「終わりの日まで待つなんて、神様のやり方は手ぬるい」と思われるかもしれま せん。でもそれは「自分が毒麦ではない」と思っているからではないでしょうか。
マタイ福音書が、教会における毒麦と言っているのは、イエス様を受け入れようと しない不信仰な者たち、教会を破壊する反キリストのことです。しかし麦と毒麦の見分け方が難しいように、人の信仰が良いか悪いか、私達には判断ができません。 自分の信仰が神様の御心に適っているのかどうかさえ、私達には判断できません。パウロが教会を迫害していたように、自分の信仰は正しいと思っていても、それが本当に正しいかどうか定かでありません。第一、私達の中には良いものもあれば、 悪いものもあります。自分の中にキッチリ線引きして、「こっちは悪だから」と切り
捨てたら、恐らく私達は、自分のほとんどを失うことになるでしょう。
  自分の信仰の正しさが、徹底的に打ち砕かれる体験をしたパウロは、「正しい者は いない。1人もいない」(ローマ3:10)と告白しています。イエス様が命じた唯一つの掟「互いに愛し合いなさい」、これにも従えない私達は皆、引き抜かれても仕方ない毒麦です。例え話では麦畑に毒麦が混ざっていましたが、実は畑一面、怪しい毒麦ばかりなのです。こんな状態で、どれを引き抜くと言うのでしょう。
  どれが毒麦でどれが良い麦か、それを判断して刈取るのは、私達の仕事では なく、メシヤが遣わした天使の仕事です。私達の信仰を最後に判断して、善悪を見極めるのは、神様がなさることです。神様の領域を人間が犯してはなりません。
それゆえパウロは「主が来られる時までは、先走って何も裁いてはいけません」と警告してします(1コリント4:5)。教会は終わりの日に、すべてを見極めて、正しく審判を下される神様に固く信頼します。終わりの日の神様の審きに信頼します。
  では、教会で何が起きても、ただ終わりの日を待つことしか出来ないのか。そう ではありません。先程も言ったように、世にある教会は、常にサタンの誘惑にさら されていますが、教会にいるのは、神様から呼び集められた大切な一人一人です。
 「これらの小さな者が1人でも滅ぶことは、あなたがたの天の父の御心ではない」とイエス様は断言し、続く箇所で「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけの所で忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言っています(マタイ18:14-15)。
 教会の誰もが、神様にとって失われてはならない大切な宝物です。たとえ信仰の道を誤った人や、意見が合わない人がいたとしても、教会がすべきことは、彼らを早々と毒麦として取り除くことではありません。終わりの日の神様の審判、天使の刈入れに信頼する教会がすべきことは、裁くことではなくて、1人でも多くの人が悔い改めて、神様に立ち帰れるよう、とりなして祈ることです。
パウロは教会のことで労苦していましたが、復活の主が終わりの日に、すべてを正してくださる希望に立って、同じように労苦していたテモテに命じています。
 「御言を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、 励ましなさい。忍耐強く充分に教えるのです」(2テモテ4:2)。
 終わりの日が来るまで、絶えずとりなして祈ること。そして絶えず御言を語り、 忍耐強く教えることによって、教会は迷っている人たちを主にある兄弟姉妹として迎え入れることができます。教会にそんな力があるのかと侮ってはなりません。
 教会は主イエス・キリストの体です。私達がガンコな毒麦だと百も承知の上で、それでも私達を愛して、私達を天の国の住まわせるために、命を献げてくださった イエス様が生きて教会におられます。イエス様こそ、神様の喜ばれる良い麦です。
イエス様は、毒麦ばかりのこの世界に、奇跡的に生まれた唯一つの良い麦です。
 教会には、本物の良い麦、イエス様が生きて働いておられます。終わりの日まで休むことなく、イエス様は働き続けておられます。私達の罪の毒気をご自分の血で洗い清めて、私達を包みこみ、私達と1つになるためです。そして終わりの日に、 私達を毒麦ではなく良い麦として、神様の前に立たせてくださるためです。 「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」
(ローマ8:1)
 死を復活の希望に変えたように、イエス様には、毒麦を良い麦に変える力があり ます。ご自分の中に留まる者たちを、終わりの日の審きから守る力があります。
だから今日もイエス様は、1人でも多くの人がイエス様につながって、良い麦に育つのを忍耐強く待っていてくださいます。刈入れはまだですが、刈入れに向けて、 着々と天の国では準備が進んでいます。終わりの日に、私達を失うまいと、神様はこの世界に良い麦イエス様を植えてくださいました。そのイエス様がおられる教会に招かれ、イエス様が私達の成長を待っていてくださる幸いに感謝しましょう。

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