年間第2主日 C
【ヨハ2:1-11 カナでの婚礼】
最初のしるし
「しるし」‥‥それは奇跡のことです。「しるし」というのは、何かの目印であるということです。何かを指し示すものであるということです。すなわちイエスさまがしるしをなさったということは、単に何かイエスさまが不思議なことをなさった、「あー、すごいね!」で終わらないということです。すごいにはすごいに違いないのですが、そこに意味があるということです。その不思議な奇跡が、何かを指し示しているのです。
宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのは大ピンチです。イエスが水をぶどう酒に変えてそのピンチを切り抜けたという話ですが、ヨハネ福音書はこの出来事を、新しい救いの時代の始まりを象徴的に表す出来事として見ているのです。婚礼のイメージは「神と人とが一つに結ばれる救いのイメージ」でもあります。
奇跡です。イエスさまが大量の水をぶどう酒に変えられたのです。‥‥私たちはここで起こったこの奇跡の現象に目が行ってしまいます。「こんなことがあり得るのだろうか」と思われる人もいることでしょう。
古代の教父(使徒たちの後の時代の教会の指導者で尊敬される人)にアウグスティヌスという人がいます。今から1600年も前の人で、北アフリカの司教です。古代で最も今日に影響を及ぼした教父と言って良いでしょう。このアウグスティヌスが、ここのところの説教で次のように述べています。
「召使いたちが水瓶に注いだものがぶどう酒に変わったのは主のわざであるが、同様に雲が降らせたものがぶどう酒に変わったのも同じ主のわざである。このことは毎年起こるので、私達は驚かない。それは規則的に起こるので、驚嘆の念を失わせる。けれどもそれは、この水瓶の中で起こったこと以上に熟慮されるべきものである。」
なるほどその通りです。カナの婚礼の時は、水が、すぐにぶどう酒に変わった。だから驚嘆します。しかし考えてみれば、ぶどうの木は、天から降った雨水によって甘いぶどうの実を結ぶ。そしてそのぶどうの実が発酵してぶどう酒ができる。‥‥これもまた水がぶどう酒に変わったのです。考えてみれば不思議なことです。しかしこちらのほうは、いつもそのようになっているので誰も驚かない。しかし「奇跡」ということが、神さまのなさる業だと考えますと、雨が降ってぶどうの木が実を結び、そして発酵してぶどう酒ができるというのもまた奇跡であると言えましょう。すると、神の奇跡は毎日私たちの間で起こっていることなのです。そのことに気がつきなさいと、アウグスティヌスは述べています。
そして、婚宴の世話役も、おそらくは新郎新婦も気がつかないところでその奇跡をなされた。私たちの毎日も、実は私たちの気がつかないところで、主が支えてくださっているのです。助けてくださっているのです。奇跡を行っていてくださるのです。そのことに目が開かれたいと思います。
私たちの人生、長く生きてまいりますと、「こんなものだ」とあきらめるようになる。先が見えてきて、つまらない毎日のように見えてくる。しかしイエス様によれば、後の方から出てきたものが「良いぶどう酒であった」ということが起きるのです。
実はヨハネ福音書の語るこのエピソードは、非常に内容豊かなメッセージを含んでいます。
その中に、人間の喜びは天から恵につつまれるのでなければ、もろく、はかなく、崩れやすいものです、というのもあります。事実、喜びの婚宴の最中にぶどう酒がなくなります。ぶどう酒は宴席には欠かすことのできないものです。喜びはささいなことから崩れていくものです。とるにたりないような小さなことがらが喜びをむしばんでいきます。ささいなことであっても注意しないと、それが、心の奥底までつきささってしまうなら、人生のすべての喜びをとざしてしまうこともあります。
マリアはぶどう酒がなくなったという、小さな、ごく日常的な現象をイエスの前にもちだします。永遠の神の目で見たら、ごくごく小さな、とるに足りないことです。しかしマリアは、それをすなおにイエスの前に置きます。ここから一つ重大なことを学ぶことがだきます。イエスの前に、どんなことでももちょだしてかまわないということです。この問題なら願ってもいい、その問題は願ってはならないという判断を、人間はしなくてもいいのです。祈りの内容の是非についての最終的判断は、祈る本人の仕事ではないということです。その理は簡単です。人間の営みのすべてが、神とかかわっているということです。受肉されたイエスは、人間の生の営みのすべてを背負われたからです。人間となられたイエスの心には、喜びも悲しみも、真の意味で人間的といえるものすべてがひびいていくからです。
「それが、あなたと私になんのかかわりがあるのですか。私の時はまだきていません」
これは、マリアに対する拒絶のことばでもなく、イエスが人間の営みとのかかわりを拒絶したものでもありません。イエスのかかわり方が、人間の営みの次元をこえるものであることを示すことばです。人間の営みを恩恵の営みに引き上げようとすることばです。
「イエスの時」がヨハネ福音書では重要な意味をもちます。それは、救いの時、恵の世界がひらかれる時です。
信頼のうちにイエスにゆだねられるなら、イエスはそれを恩恵の次元に高め、つつんでくださるのです。水がぶどう酒に変わるのです。そして、いちばんよいぶどう酒が与えられます。それが「どこから」きたのかと人々は問います。「どこから」つまり天から、上からです。カナの婚宴のエピソードは、どんなささいな人間の営みであっても、天からこられたイエスの力にいだかれ、愛につつまれる時、真の喜びが与えられることを明らかにしたのです。
ある人の話です。その人は5歳の頃、自転車がほしくてたまらなかったそうです。ところが親は危ないからとどうしても買ってくれません。その子は親を恨みます。そうこうするうちやがて自転車への関心もなくなり、小学校高学年になった頃、引越しすることになりその地を離れます。
そうして20年以上経ち、小学校の同窓会が開かれることになりました。5歳だった少年も、もう30歳の父親。同窓会に参加し、なつかしく昔自分が住んでいた家を探し当てたとき、その男は分かったのです。家の周りは、急な坂ばかりの狭い道。しかも大きな道路の抜け道となっていて、車がとにかく多い。そういえば、と思い出します。幼稚園の頃、家の前で車を見るのが好きで、それだけで1日過ごすことが多かった。 その時、自分がずっと親を恨んでいたこと、それがその自転車を買ってもらえないことに原因があったこと。しかしそれは本当は感謝すべきことだった。子供の願いを拒絶するのも親の愛であった。それらすべてのことを思い出し、理解したのです。
同じように、小さい子が注射が嫌いで、注射をしないですむようにと祈ることもあるかもしれません。しかし親は必要があれば、注射を打たせるでしょう。それが親の愛なのです。
マリア様に願いを取り次いでもらう。それはいいことです。ただそのこととすべて願いがかなうこととは別のこと、ということはあり得るのです。それは人間の考える以上の大きな愛と計画が潜んでいるからです。
自分の願う祈りがすべてかなわないからといって、神様への感謝や賛美、また自分への悔い改めの祈りを失うことがないようにしたいと思います。よく考えてみれば、なんだかんだと言いつつも当たり前に日常を送っている。実はそれだけで、とてつもない神様の大きな恵みの結果なのです。ところがうまくいかなくなると、突然、神様、どうしてと思ってしまう。そうでなく、当たり前の日々を送りながら、感謝もせずにいる自分。そういう自分を反省し、感謝と賛美、また自分への反省の気持ちを忘れず過ごしていきましょう。
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こうしてイエス様の最初の奇跡、神様と共にいることのしるしが行われます。イエス様の最初の奇跡が、別に深い信仰を持っていた病人を癒したのでも、死からよみがえらせたことでもなく、ただ婚礼の場でぶどう酒が足りなくなったので、水をぶどう酒に変えただけ、というのはちょっと意外です。イエス様は石をパンに変える試みにあって、それを拒否したばかりでした。あまりにこの世的で、もしこんな奇跡を繰り返したなら、ぶどう酒業者として、裕福に暮らせ、またそのお金で貧しい人を救えたとも思ってしまいますが、もちろんそんな形跡はありません。訳の分からない奇跡です。
この箇所で言いたいのは、神の子イエス様を動かしたのは、マリア様である。それ以外に説明のできない箇所だと思います。確かにマリア様がいたからこそ、イエス様は地上に降りてくることができた。このマリア様に30年も仕えてイエス様は生活してきた。そのマリア様に頼まれたからこそ、こんなの神の独り子のすべきことではないと思いながらも、つい奇跡を行ってしまったイエス様。そうとらえるのがどうも自然のようです。マリア様は、たとえどんな願いであっても、それをイエス様に取り次いでくださる方である。またイエス様の心をさえ動かす力を持っている、奇跡を生み出す鍵であることが分かります。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」とはヤコブ書にかかれたことばですが、これはマリア様についてよく当てはまることばです。マリア様に取り次いでもらうよう、よく祈ることが勧められます。すべての恵みの泉であるイエス様を産んだと言う点で、すべての恵みの仲介者とマリア様は言うことができるのですから。
ところで祈りには、神様への讃美、感謝、お願い、悔い改めなどがあります。人間はこのお願いの祈りをすることが多く、しかしそれは叶わないことが多い。そのために祈り自体をやめてしまうことが多いのです。しかしそれは本当でしょうか。
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