Monday, December 17, 2012

Christmas Vigil


主の降誕(夜半のミサ)C
【ルカ2:1ー14】 

宿屋には彼らのために泊まる場所がなかったからである。
ルカ2・7参照

母マリアは、生まれたばかりの赤ちゃんを飼い葉おけに寝かせたと書いてあります。なぜなら、宿屋には彼らのいる場所がなかったからです。ということは、人々の心に場所がなかったということでしょう。私たちの心は自分のことで一杯で、人のことを考える余裕はありません。とくに自分の苦しみの時はそうです。
二千年まえのこの時も、皆それぞれ自分のことに忙しくて、この貧しいヨセフとマリアに、
かまっているひまはなかったのです。私たちはまず、自分のことを最優先します。それから、
自分に関係の深い物事に関心がいき、もし時間があれば神のことも考えるのです。つまり、神
の場所はいちばん後回しになりやすいのです。神は、文句を言いませんから。
ところで、私たちが生きるために、物理的な場所と同時に心理的、精神的な心の場所も必要
です。赤ちゃんでさえ、母親のおなかに物理的に存在したにもかかわらず、母の心に自分の場所がない時に、大きなショツクを受けるといいます。私たちも周りの人々の心の中に場所がないと
感じる時、大変つらくなります。いじめというのは、その人の心の場所を奪うことでしょう。
イエス様が人間としてこの世に入られる時、受胎することをマリアが承知しました。つまり神の子のために、物理的な胎内という場所のまえに、マリアの心に場所があったということでしょう。次にイエス様はヨセフの心に場所を見いだし、馬小屋の中でこの世に物理的な場所を持たれ、次いで羊飼いたちの心、三人の博士たちの心にも場所を広げられました。

私たちの心が自分のことで一杯で、他人の場所がない時、他の人の心にも自分の場所がない
ことを表します。他の人だって、自分のことで一杯なのですから。自分の心に他の人の場所を
つくらないで、人にだけ私の場所をつくれとは無理な相談です。私がまず、私の心に人の場所
をつくる時、人も私の場所をつくってくれる可能性が生まれます。心に人の場所をつくれるということは、その人の心の広さを表し、その人の人格のすばらしさを示すのです。逆に自分で一杯ということは、その人の心の狭さを示します。

いちばん簡単でよい方法は、人を愛することでしょう。自分のために人を愛するのではなく、その人のために愛する時、いつの間にか私の心をその人が占領します。しかも私は少しも損だとは思いません。愛していない時に自分の時間、場所を少しでも犯されると腹が立ち、損をしたと思ってしまいます。

では神の場所は、どうでしょう。ついつい神の場所は後回しになって、困った時や苦しい時ぐらいしか、神を思い出さないこともあります。私たちが神を忘れても、神は私たちを忘れませんけれど。私たちが神の場所を設けなくても、神の中の私たちの場所がなくなることはないでしょう。しかし私たちが物理的、時間的に私たちの心に神の場所を設けないなら、神の中の私たちの場所を、自分で閉ざしているのです。

親の心には子どもの場所がいつもあります。しかし子どもが親のことを無視していれば、そこにある自分の場所をも無視していることになりますし、場所があることに気づかなくなるのです。子どもが心から親を敬う時、親の心の中にある自分の場所を、いちばん大切にしていることになります。
ですから神のために、一日のうち五分でも十分でも、場所をあける必要があります。しかし
それはこの五分間に、神を閉じこめることではありません。私の狭い場所に神をおしこめて、
私の願いを聞いてもらおうとすることではありません。神は私の召し使いではないのです。神
は私の一部分をほしいのではなく、私全部をほしいのです。つまり私の場をご自分の場にした
いのです。
神を私の場に閉じこめることではなく、私の場が、神の場の中に開かれることを望むのです。
私の心を神にあけ渡す時、神が私の場となられるのです。そのことを表現する手段として、物
理的に時間的に一日のうちの五分を神にあけ渡すのです。神こそ私の全部の場なのだ、という
ことを忘れないために、五分をささげるのです。
神の国は物理的でも心理的精神的な場(スペース)でもありません。まったく霊的な場を持つ国なのです。ただ私たち人間は、それを物理的時間的に表現する必要があるのです。神の国は武器の力によって獲得する国とは違い、愛の力によってのみ成立する国です。私たちが神を愛する時、
その国の愛の支配の中に入るのです。心に神の場所を設けるということは、その人の心がとてつもなく広いということを表します。他人のことを考えられる人は、すばらしい人です。だったら神のことを考えられる人は、何とすばらしい人てしょう。

このクリスマスにあたって、私たちの心に幼子イエス様の場所を作りたいと思います。それはイエス様の場の中で私たちが生きるためです。私たちが狭苦しい場から、イエス様の広い場へ移るとき、私たちは本当に自由になるでしょう。狭い自分の広場から飛び出て、広大な神様広場、イエス様広場、愛の広場に開かれるとき、私は私から自由になって、お互いにこころから兄弟姉妹を愛せるでしょう。神様広場、イエス様広場では、すべての人間がまったく平等なのですから。

今晩、世界中の人々と心をあわせて、幼子キリストの誕生をともに心から祝いたいと思います。クリスマスおめでとうございます。(静)

世界中の国では、クリスマスとなると、(ちょうど日本のお盆の時のように)、なにをおいても、このときばかりはと、それぞれ家族のもとに帰り、一家団欒(いっかだんらん)の大切なひとときを、ともにするのが慣わしです。家族や肉親が久しぶりに再会し、ともども主の降誕を祝い、感謝し、親子・兄弟の絆を強めるとともに、そのような善意と平和が、くまなく全世界に広まっていくことをキリスト教徒たちは祈り願っています。日本では、年の瀬、大晦日に除夜の鐘とともに、しんみりと、この一年を、あるいは、これまでの自分の人生を回想し追憶します。そこに、至らぬ自分、あるいは逆に、満ち足りた自分の姿を見るのかもしれません。いずれにせよ、このシーズン、感謝と希望のうちに一人でも多くの人々が、古い自己を脱却し、遠大な思想にたち帰り、「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平安」という聖書のこの言葉が一人一人の心に響きわたりますように。

「あなたは夜に来ます
私たちの心のうちはいつも夜です。
ですから、主よ、いつも来てください。

あなたは静かに来ます
私たちはお互いに何を言えばいいのか分からなくなった。
ですから、主よ、いつも来てください。

あなたは寂しいところに来ます。
私たち一人一人はますます寂しく感じます。
ですから、主よ、いつも来てください。

来てください、平和の子よ。
私たちは平和とは何か知らないのです。
ですから、主よ、いつも来てください。

私たちに自由を与えに来てください。
私たちはますます奴隷になっています。
ですから、主よ、いつも来てください。

私たちを慰めに来てください。
私たちはますます悲しくなっています。
ですから、主よ、いつも来てください。

私たちを探しに来てください。
私たちはますます迷子になっています。
ですから、主よ、いつも来てください。

私たちを愛するあなた、来てください。
まずあなたと一緒でなければ、
誰も兄弟姉妹と交わることはできない。

私たちは遠くに行ってしまって、迷い込んでいます。
何をしたいのか、私たちは誰であるのか分からなくなった。
主よ、来てください!
主よ、いつも来てください。

(D・M・トゥロルド)

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神様とは全能の、宇宙の作り主、時と場所を越えて存在する方です。それに対し人間とは、有限の、時と場所に縛られる小さな存在に過ぎないものです。このクリスマスとは、その全能の神様が有限な人間になったことをお祝いする日です。それにしても「神が人間になった」、これはいったい何を意味するのでしょう。

こう考えると「水戸黄(こう)門」(江戸時代前期)を思い出します。
 水戸黄門は、ご承知のように徳川光圀(みつくに)の別名で、「先(さき)の副将軍」(権力者)であるのですが、その身分のままでは気ままな旅ができないので、「越後のちりめん問屋の隠居(いんきょ)・三右衛門(さんえもん)」と名を変え姿を変えてお忍びで、格さん助さん(家来)を従えて旅をします。そして肝心な時には、いよいよその本来の身分をあらわして、葵の紋(あおいもん・みつばあおい)をかざして「頭(ず)が高いぞ!()無礼者、あたまの下げ方足りない)」とやるわけです。「ザ・権力」です。
 この場合は、あくまでも「町人の振り」をしているまでです。本当に町人になったのではない。見せかけです。

 ダミアン神父(1840-1889年、1995年列福)。彼は33歳の時、ベルギーからハワイ諸島のハンセン病患者が追いやられていたモロカイ島に志願して渡り、600人もの患者と共に生活した宣教師です。彼は自分も病気に感染しますが、そのとき、こう喜んで言いました。「私自身がハンセン病になった。これまで以上に人々に近づき、絆をもっと深めることができる」。彼はやっとこれで本当に自分は患者と兄弟になれたと思ったのです。「あなたたち」が「私たち」に代わったからです。こうして49歳で亡くなるまで、彼はハンセン病患者の司祭として働きました。
 実は神様も同じでした。神様は人間のことをとても心に掛けていました。自分に似せて作った人間、でも神から背いてしまった人間をなんとかして救いたいと思っていました。そこでイスラエルの歴史の中で、繰り返し夢に現れたり、預言者という人間の口を借りながら、それとなく介入しては、自分の考えを伝え、なんとか人間との関わりを持とうとしてきました。しかし人間の不満はいつも同じでした。
 「私たちには食べ物が必要だ。すぐに疲れれば、痛みも感じる。寝るところが必要だし、お金のために働かなければならない。雲の上の、霊的な話ばかりしてもらっても困る」
 かくしてイスラエルの歴史は、人間の神への拒絶と、また神への立ち戻りの繰り返しでした。
 それでも神様は御自分が大切に作った人間を、単なる奴隷でも慰めでもなく、本当に大切に造った人間、だからこそ自分に逆らうことも許した人間を救いたいと思ったし、どんなに人間を大切に思い、愛しているか示したかったのです。
 そこで神様は決断しました。神様自身が人間となって、人間の肉体の弱さもそっくり抱えたままで、それでも神様に従うことができる、その見本を、本当に示そうと。そこでこの世に現れたのが、神様の独り子イエス様でした。
 私たちは同じ者には心を開き、その声を聴くことがたやすくできます。そこでさまざまな自助組織ができています。アルコール依存になったものが同じ苦しむ人を救う会、犯罪被害者になったものが犯罪被害者を助ける会などの活動を見れば、分かります。彼らの援助には、同じ苦しみを負ったものとして、すぐれたカウンセラー以上のものを期待できるのです。
 ところで、神様が人間になること。このことは神の独り子にとっても、大変な犠牲だったのです。すべて見通せていたものが肉体に閉じ込められるものになり、死なないものが死に縛られるようになる。カフカは短編「変身」(1915)の中で、ある朝、目をさますと、自分が巨大な虫に変身したセールスマンの孤独を描きました。神が人間になるとは、このように人間が、自分の頭脳をそのまま持ちながら動物になる、そんなことよりも、もっと大きな犠牲と勇気が必要でした。神の子はさらにまったく無力な赤ちゃんになりました。人間に任せきりになって、人間に自分の命をそっくり任せたのです。そしてそんな大きな犠牲を払って生まれてきた神の子イエス様だからこそ、人間の間違った裁きにさえ従って、十字架の死を最期に身に受けることができたのです。
 神様が人間という目に見える姿をとって、人間の歴史に直接入り込んで下さった。神様の考えをはっきりと知ることができるようになった。かつて人間の祖先が背いて以来、溝ができた神様との関係をすっかりもとに戻すこと。それらが神様の子・イエス様の誕生によってできるようになったのです。そこまでして神様は人間を救おうとしてくださった。だからこそ教会はこのことを感謝し、最大のクリスマスのお祝いをするのです。
 しかしこのような人間になった神という考えは、ユダヤ教の伝統やイスラム教などから見れば、とんでもない過ちということになるでしょう。全能無限の神が、限られた人間になることはありえない。神は絶対的、超越的なものであるとユダヤ教などは考えるからです。しかしキリスト教は、そこまで人間の間に入り込んでくださり、私たちと同じになってくださっても、深い人間への愛を示してくださった神様の業を何より大切にするのです。
 そしてまた私たちはイエス様の生き方によって、希望を持ちます。なぜなら人間となった神の独り子イエス様は、誘惑にあい、痛み、泣き、苦しみ、神の子が神に見捨てられた感覚をも持ちながらも、それでも神様に従って、神の御心にかなう生活をすることができた。そのことで私たち人間も、神様のように生活していくことができる、その希望が与えられているからです。
 人間になったイエス様が、神の子としての使命を立派に果たしていった、その希望に支えられながら、その神様の愛に応えるために、私たち一人ひとりも、自分中心の立場から、人の立場に立って、同じ身になって思いやりながら生きていく、そういうものに変わっていくのです。Moseos

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