Thursday, December 27, 2012

3 per annum C


年間第3主日C
ルカ1・1-4;4・16-21

異国に囚われていたイスラエルの民が、解放され、エルサレムに戻る。そんな中、イスラエルの民を力づけるために、聖書が読まれ、その言葉に心打たれ、涙を流す。そんな場面が第一朗読で読まれました(ネヘ8)。また福音書では囚われている人を解放するために、イエス様が来て下さった。そのことは、聖書の言を耳にしたとき、すでに実現したのだと、イエス様は宣言なさいました(ルカ4:21)。
 人間はさまざまの囚われをもっています。ある人は人との関係のしこりをいつまでも持ち続けます。またある人は自分の欠点や自信のなさへの囚われを持ち続けます。また自分の犯した過ち、失敗、あるいは自分の悪い習慣。あるいは金や、あるいはセックスに囚われたままの人もいます。そうした囚われは、決して人を幸福にはしません。そう分かっていても、なかなか手放せません。こうしていつまでも囚われたまま、一生終えてしまう人もいます。しかしイエス様は囚われている人に解放を宣言します。それももう実現したのだと。しかしそれは、どうしたら本当に実現するのでしょう。moseos

イザヤ書で預言されている「主のめぐみの年」には、まず「貧しい者に福音が宣べ伝えられる」ということだと宣言されます。貧しい人がただちに金持ちになることではないのです。福音が宣べ伝える、福音とはなによりも、貧しい者が抱えている借金がもう棒引き(ぼうびき)にされる、もう借金を返さなくてもいいということです。いきなり貧しい者が金持ちになるのではないのです。なによりも借金が取り消されること、赦されることなのです(ヨベルの年)。
 
 ゼロから出発することが許される、こんなうれしいことはないのです。それはいきなり金持ちになることよりも人間としてもっと喜ばしいことなのではないか。もっと張り切れること、生き甲斐が与えられることではないでしょうか。ここで言われている「貧しい者」とはただ経済的な意味のことだけではないでしょう。ここで言われていることは、やはりわれわれの弱さ(罪)が何よりも言われていることだと思います。

 われわれは何かに弱みを握られて生きているようなものです。罪に苦しんでいるものにとってなによりもの福音は、罪が赦されることです。それはわれわれがいきなり聖人にされてしまうということではないのです。けれども、やはりうれしいことなのです。自分の罪を知っているもの、そうしてそれに苦しんでいる者にとってなによりもうれしいのは、もう自分の罪で思い悩まなくてもいい、神様から「わたしは罪のあるお前をそのまま受け入れてあげる、お前の罪を赦す」と言われることなのではないかと思います。それはいきなりわれわれが完璧になることではないのです。自分を見つめればちっとも清くなんかなっていない、それはよくわかっている、それでもいい、と言われることくらいわれわれにとって福音はないと思います。「完璧にされたい」、これは傲慢な思いからくるkかもしれません。赦されて、そこからわれわれは立ち上がることができるのです。清さに向かって一歩一歩自分の足で、自分のペースで歩み出せるのではないでしょうか。
 
 お前なんかだめな人間だ、役に立たない、そういって圧迫されている、そしてそういう圧迫に対してわれわれはそれに反論し、反発する気力もなく、本当にそうだと思ってしまうことはあるのではないでしょうか。そのためにわれわれは打ちひしがれているのではないでしょうか。自分の可能性をフルに生かせないことになります。キリストの与える自由を受け入れると、人生がすぐに変わります。人との関係も変わります。本当の幸せを見つけることになります。「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。

 私も遣わされた!

 ルカ福音は、なぜイエスがこの世に来られたかを、イエスご自身の口を通して荘厳に私たちに語ります。私たちも自分に問い掛けます。「私は何のために生まれたのか?」と。

 なぜ生まれたのか、生きている意味は何か、本当の幸福を得るためにどうすればいいのかといったことについて考えるのは、哲学的な思想のようにも聞こえますが、今の社会を見渡すと、実は、自分さえ幸せになればいいという自分中心主義で、しかも仕事も恋愛もうまくいき、お金もうけをして何が悪いといったような人は圧倒的に多いという感じがします。関心があるのは自分がより快適に暮らすための自分の幸運、仕事、健康だけで、他人がそのためにどうなるのかは眼中にないようです。最近、恐ろしい殺人事件も増えているのも関係がありそうな気がします。生きる意味は、自分自身へのみ向かう内向き的な考えに呑まれていくばかりです。

 主が私をお遣わしになったのは具体的に何のためなのか、考えるように促されているのです。私たちはイエスを救い主と信じるので、イエスは「捕らわれている人に解放を告げるために」来られたのです。洗礼を受け聖霊をいただく私たちがまずこの解放に目覚めることが大切です。自分のことだけで頭が一杯で、他人に目を向けるゆとりも関心もない自己中心に陥っている私たち、そして自分をむしばむ生き方に縛られている私たちが、イエスの宣言された真の解放と自由を実感し、それをさらに証ししなければならないということが教えられているのです。そのために私は生まれ、遣わされているのです。私の本当の幸せはどこにあるのか。(大塚喜直=京都教区司教=カトリック新聞))

私たちは神に使え、神にささげ物をしたり、香をたいて神に喜ばれるようなことをするのが宗教である、信仰生活であると思いやすい。しかし、ここではイエス・キリストとは、旧約聖書の預言が成就された出来事であると言われている。神のために人間が何かしていくと思っていたのに、神のほうから近づいてこられた。神が私たち人間の世界に働きかけられたというのは、驚くべきことである。聖書が私たちに訴えていることはそれである。そこに他の宗教とキリスト教の違うがある。どうして神を喜ばせていくか、あるいはなだめていくかということではなくて、神が私たちのほうへどのようにして近づかれ、何をされたかに目をとめていくのがキリスト教である。(榎)

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 「冬天(とうてん)に暖景(だんけい)なくば、梅麦(ばいばく)なにをもってか花を生ぜん」。

これは弘法大師(空海)が奈良の元興寺の僧、中璟(ちゅうけい)の罪を赦しを乞い、朝廷に提出し
た文の一節です。
 
冬の厳しい寒さの中でも、わずかに暖かい光が差し掛けるからこそ、春になれば美しい花も咲くのです。

今日の福音書にぴったりのことば、神のことばこそ冷たいこの世に語られ、温かい光となって、たえず新しい命を生み出します。

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ヘブライ4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
 4:16 だから、(私たちは)憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

不安を取り除くために活用される方法にグループ・サイコセラピーがあります。これは、集団によるカウンセリングで、人生の問題を抱えている人たちの交流をとおして療法をすすめていきます。問題を持っている人にとって、人生の荒波を耐えてきた人が他にもいるということに気づくことは、大きな助けとなりますし、互いに理解し、気にかけ合います。
イエス様は私たち一人一人のことを理解し、気にかけてくださいます。私たちの弱さや誘惑されやすい性質を理解してくださいます。だから、思い悩むときに、「私のところに近づいてきなさい」、「休ませてあげよう」と勧めておられるのです。必要なときに恵みをもって助けるために、私たちを招いて下さっているのです。イエス様とあなた自身とを結びつけて考えてみてください。あなたが、今、経験しているその悩み、痛みをイエス様はご自分の身に感じておられます。イエス様は、私たちのために、誘惑や心の痛み、弱さや拒絶を経験されたのですから。(「平安を得るためのヒント100」、いのちのことば社)

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