Thursday, December 27, 2012
4 per annum C
年間第4主日C
【エレ1:4f,17-19 エレミヤの召命】
ルカ4章21-30節)
ルカ福音書ではイエスの活動はまだ始まったばかりです。先週の福音(ルカ1章1-4節、4章14-21節)は、イエスがナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言したところで結ばれていました。その結びの部分から始まるのがきょうの箇所です。なお、今回の写真は告知教会から見た現代のナザレの町です。
福音のヒント
(1) 多くの人はこの話を読んで、話の展開に少し無理があるように感じるのではないでしょうか。22節の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」という箇所と、28-29節の「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」の間には、確かに大きなギャップがあります。ただ一回のナザレでの出来事と見るには無理があると考えて、ナザレでのイエスの活動を伝えるいくつかの伝承が組み合わされているという見方もあります(確かにイエスはガリラヤでの活動中、何度かナザレに行ったことがあったでしょう)。とにかくルカはここで、ナザレでのある一日の出来事というよりも、イエスのこれからの活動全体を表そうとしているようです。
(2) 22節の「この人はヨセフの子ではないか」という言葉は、人々のイエスに対する好意的な反応を表すものでしょうか。「ヨセフの子でありながら、こんなに素晴らしいことを語っている!」というような…。だとすると、この後、イエスのほうからケンカを吹っかけるような言葉が続くのは、不自然に感じられるかもしれません。
むしろ、これは非難めいた言葉でしょうか。つまり、「ヨセフの子にすぎないのに、こんな大胆なことを語るのはおかしい」という意味です。マルコ6章2-3節では、故郷での話の中にこういう言葉があります。「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」。故郷の人々は、人間的なレベルでしかイエスを見ようとしないので、イエスを受け入れられなかった、ということになるでしょう。ルカ福音書の「ヨセフの子」も同様に考えてよいのではないでしょうか。
なお、22節で「ほめ」と訳された言葉は「弾劾し」というまったく正反対の意味にもとれる言葉です。こうとったほうが、後の展開には合うかもしれませんが、ここまでの展開からすれば「皆がイエスをほめ」と受け取るほうが自然でしょう。
(3) エリヤとエリシャはともに紀元前9世紀、北イスラエル王国で活動した預言者です。それぞれの物語は、列王記上17章、列王記下5章に伝えられた有名な話です。「シドン」「サレプタ」はイスラエルの北方、地中海に面した位置にあります。「シリア」はイスラエルの北にある国ですが、その国のアラム人の王の軍司令官がナアマンでした。ともに異邦人に神の救いがもたらされた話です。
預言者の活動は、狭い民族的な利害に基づくものではなく、神の大きな救いの意思に基づくものでした。イエスもまたそのような預言者として活動しているのです。
(4) 問題はナザレの人々の狭さでした。彼らは同郷のイエスに期待しますが、それはあくまで地縁血縁に基づく利益が与えられることに対する期待だったようです。そんな彼らにとっては同じガリラヤ地方のカファルナウムでさえ「外の世界」になるのです。この姿勢には、後になってイエスを十字架に追いやっていくユダヤ人指導者たちと共通するものがあります。ルカ20章でぶどう園の農夫のたとえ話が語られています。主人からぶどう園を借りていた農夫たちが、収穫を受け取りに来る主人の「愛する息子」を殺害してしまうというたとえ話です。これに対する人々の反応をルカはこう伝えています。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」(20章19節)。つまり、ユダヤ人指導層はイエスを自分たちの特権的な利益を脅かす存在として抹殺することになるわけです。このような狭い意識がわたしたちの心のどこかにないとは言えないでしょう。
(5) 「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」というのは極端すぎる反応でしょうか。もちろん大きな期待があったからこそ、その期待を裏切られたときにそれが憎しみに変わるということはあるかもしれません。しかし、それだけでなく、将来起こるイエスの受難と十字架の死を予告するような出来事として、ルカはこのことを伝えているようです。この話は「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)と結ばれています。これはもちろんまだ、十字架の「時」(4章13節参照)ではないからですが、同時にイエスが最終的に「天に立ち去られた」ということを暗示しているようでもあります。
先週と今週のナザレでの出来事の中に、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4章18節)イエスの姿と、それを受け入れることのできなかった人々の姿がはっきりと表されています。それは福音書全体の縮図とも言えるでしょう。わたしたちにも、このイエスの福音に心を開けるかどうかが問われています。
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故郷で敬われないイエス様ご自身、そして数多くの預言者たちのことが今日の福音(ルカ4:21-30)で読まれました。第1朗読で読まれたエレミヤも同じです。エレミヤはバビロン捕囚の直前からユダで活動を始めた預言者です。エレミヤは、自分の国にバビロンへの服従を説いて回りました。エジプトと同盟しバビロンに対抗し、戦おうとする愛国者たちに反対しました。そうしなければ、本当に国がなくなってしまうと、エレミヤは神様から知らされていたのです。実際そのとおりになりました。しかしバビロンに屈服しようとする態度は、愛国者から見れば、国家に反逆するものでしかありません。
さらにエレミヤの悲劇は、エレミヤが地方都市・アナトトの祭司の家系の人であることです。エレミヤは異教的な要素がある地方神殿を封鎖し、エルサレム神殿に礼拝を集中させようとする改革に協力します。そのため、地方神殿で生活している故郷の祭司たちからも恨まれ、殺害を計画されます。国の人からも、故郷からも恨まれるばかり。
エレミヤは悩みます。自分は本当に神の言葉を伝えているのだろうか。神様の意思に従って生きたって、いいことなんかない。生まれなければよかった。こんな預言者の生活なんてこりごり。結婚して平凡に暮らそう。そして叫びます「私を産んだ胎は呪われよ」。
そんな正直なエレミヤに神様は語りかけます。「私を生んだ胎は呪われよだと。とんでもない。私はあなたを、母の胎内に造る前から、知っていた。おののくな。私はあなたと共にいる」。 エレミヤ自身も、やめたくても神様の言葉を告げざるを得ません。やめたくてもやめられない。迫害されると分かりながら。エレミヤは思わず言います。「私の負けです」。
エレミヤは苦しみが来るとわかっていながら、どうして神の言葉を告げざるを得ないのでしょう。生きていくには様々な苦しみがつきものです。それは取り去られることはありません。そしてその苦しみは、自分だけが抱えていると思った時、いっそう、重く、つらいものになります。しかし神様は言います。「あなたのすべてを知っている。この世の苦しみも悲しみも」。--私の苦しみを知っている人がいる。共にいてくれる人がいる。大きな喜びです。その相手が神様だったら、なおいっそうのことでしょう。でも、知っているならどうして何もしれてくれないのか、苦しみはなくならないのでしょうか。
神様は自己満足の幸福、この世的な幸福を約束してくれません。お金がたくさんあって、皆から尊ばれ、名前が永久に残り、病気にならず、事故にも遭わず、良い配偶者と子供に恵まれ……。そういう生活は、残念ながら神様ははっきりと約束してくれません。もちろんキリストの掟に従って誠実に行動する中で、多くの信頼を得て、結果的に成功を与えられている人がたくさんいることも事実ですが。
キリスト教が、この世での幸福や成功を約束しないなら、信じても何の得にもならない、役に立たない宗教なのでしょうか。
しかしそれでは、多くの人が囚われるお金がたくさんあるという生活が、幸福を保障するのでしょうか。お金があっても、人間の思い、特に家族は、自分の思うとおりにはなりません。 人を思い通りに動かそうと金や力を使ったとしても、金も力もなくなれば、皆離れてしまう。もしそれだけの関係ならむなしいだけです。 愛する人とのつらい別れ・死別も避けることはできません。いくら死をないもののように生きようとしても、結局はごまかしに過ぎません。 物、自己満足の幸福にとらえられているとき、逆に、いつそれらが取り去られるかと、戦々恐々とする生き方になります。
キリスト教は、あまりにこの世的な幸福に囚われることから解放し、貧しさ、病いや苦しみの中でも、喜びをもって生きられると、人生観、ものの見方の根本的な変化を約束するのです。永遠の命と報いへの希望です。
しかもただ指し示しただけではありません。イエス様の生き方、またイエス様をそう生きさせ、死なせた神様自体のあり方によって、すでに神様自身が身をもって証しているのです。神様はもう実際に、同じ苦しみを負ってくださった。そういう点でも、共にいてくださるのです。
それからキリスト教は、それなら貧しさ、病いの中でも、いつも満足して生きればいいと、現状維持、自己満足を説いているのでもありません。かえって貧しさを減らし、病いをなくし、平和のため、愛のために働く使命を持ちます。しかしそのためには、自らが病気になり、貧しくなり、迫害されても、そこにも喜びがあるというのです。
それをイエス様に倣って実践した人。エレミヤ、フランシスコ、マザーテレサ、ハンセン病のため働いたダミアン神父。いくらでも挙げることができます。幸福は自分が感じるもの。この世的なものがすべてそろっていても、不幸な人はたくさんいます。なのにそれらに無縁だった彼らは、輝くほどの幸せを持って生きたのです。こうした人たちを前にして、金や家族の幸せに囚われている人は言うしかないのです。「私は負けだ」。エレミヤはこうして神様に負け、神様に従う道を生きます。
私も深い闇にいたことがあります。多くの弱さを抱えた人間に過ぎません。そういう者でも司祭になることがある。その神様のいたずらを、エレミヤと同じ様に、文句を言いたい時、たくさんあります。確かに、この世には苦しみはつきものです。神に従って生きても、この世の苦しみはなくならないかもしれません。しかし神と人への愛のために生きたという喜びと充実感を感じ、満足したときに、これでよかったと人生を振り返ることができるのです。
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大阪市立桜ノ宮高校バスケットボール部の体罰問題を受けて、マスコミにたくさんの意見が出されました。その中にある新聞には、こういう記事がありました。「体罰を受けても、部活はなかなかやめられない。日本はムラ社会の原理が強く、共同体が生きるすべて(である)。その性格は年功序列(ねんこうじょれつ)、終身雇用など企業に応用されてきた。部活も共同体。スポーツ部の学生の就職が有利とされるのも、部と企業の原理が同じだからだ。つまり退部(たいぶ)は共同体からはずれ、一生の問題となる。また、退部は共同体で生きられなかったことになり、敗者(負け組)ともなる。他人はできても自分はできなかったと。組織が間違っているかもしれないのに、そんな意識が働かない。体罰をなくすには監督崇拝を問い直すことだ。監督がいることはかえってマイナスという考え方をした方がいい。
今日の福音書は、ナザレの村人たちが、イエスを村の外へ追い出し、丘の上から突き落とそうとしたというエピソードを語っています。イエスを拒む村人たち、村というつながりの中に受け入れられないイエス。ここに、村の人々とイエスとの間に異質的なものがあったことを推測できます。きょうは、ここでイエスを受け入れるということがどういうことなのかを考えてみたいと思います。
さて、常識から考えると、話の展開に少し無理があるように感じるのではないでしょうか。22節の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」という箇所と、28-29節の「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」の間には、確かに大きなギャップがあります。ただ一回のナザレでの出来事と見るには無理があると考えて、ナザレでのイエスの活動を伝えるいくつかの伝承が組み合わされているという見方もあります(確かにイエスはガリラヤでの活動中、何度かナザレに行ったことがあったでしょう)。とにかくルカはここで、ナザレでのある一日の出来事というよりも、イエスのこれからの活動全体を表そうとしているようです。
22節の「この人はヨセフの子ではないか」という言葉は、「ヨセフの子にすぎないのに、こんな大胆なことを語るのはおかしい」という意味でしょう。つまり、村人たちはイエスという人物の中に、自分たちがいままで生きてきた世界とは異質なものを嗅ぎ取ります。平和でのどかな村のそれまでのつながりを、ゆるがせてしまうような、何かをかぎとったのです。
私たち人間が一緒になって、仲間として互いに助け合って生きていこうとする意識が生まれる土台は、ある場所(空間、土地)を共有することです。同じ国、同じ町、同じ村、同じ地域、同じマンション、同じ学校、などに住むということから、ともにいる、お互いに助け合わなければ、という連帯意識が生まれます。それは、人間の心に自然に生じてくる自覚です。それが、村という狭い世界では、地縁・血縁(ちえん・けつえん)が加わって、さらに強くかたいものになります。先祖代々(だいだい)から受け継いできた習慣や考え方の中で、村人たちは互いに安心し、平凡に暮らします。のどかな平和とつながりを楽しみます。しかし、それはともすれば、保守的で排他的になります。新しい考え方を拒みます。新しい考え方は、変化を促しますので、心に緊張を与えるだけではなく、お互いの中に対立を生み出すことになります。のどかな平和な世界がゆさぶられます。つまり村のつながりの中では、地縁・血縁の理念が先に立ち、なれあいが生まれ、個人の良心的な生き方はきらわれるのです。
イエスと村人たちの食い違いは、ここにあったような気がします。イエスは、人々の良心に呼びかけます。のどかに生きてきた人々の心をゆさぶるような呼びかけをします。人間中心の秩序とつながりの中に、神様中心の秩序とつながりを生みだす必要を訴えたのです。イエスのメッセージの中に、人間中心のつながりを超えて、生きなければならない価値の世界があるという告知です。
これは、「人権」という考え方の始まりです。
イエスは、故郷にもどりましたが、故郷の世界にどっぷりひたってしまうことを拒んだのです。神の世界への自覚を促して、神の世界から新たに人々を包んで、人々のつながりを見直すように求めたのです。神とのつながりですべての人が兄弟であるという大きな転換が、もっと大きな愛に広がることを呼びかけるのです。
地縁・血縁、あるいは同じクラブ活動で固くつながっている世界に、新しい自覚を呼びかけることは、反発を呼び起こします。村八分にされることを覚悟しなければなりません。こうして十字架への歩みが始まります。「山の崖」からおとされそうになったイエス、それはイエスの十字架への歩みが始まっていることを示すものです。人間のエゴイズムを指摘し、神への悔い改めを求めるイエスは、人類と世界から反発を受け、拒まれる必然性があったのです。
キリスト者としてのわたしたちも現代社会の中で反発を受ける覚悟しながら、どうやってイエスの歩みについていくという課題は残ると言えるでしょう。
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村八部
地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話(死体を放置すると腐臭が漂う、また伝染病の原因となるため。また死ねば全てを許されると言う思想の現れとも)と火事の消火活動(延焼を防ぐため)という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つこと(残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行)。また、「八分」は「はじく」(爪弾きにする)の訛ったもので、十分のうち二分を除いたものというのは後世の附会であるとの説もある。
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カトリック教会には修道会が生まれたのは、まさにこの村八分に耐えるためです。
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