主の洗礼 B年 (2009/1/11 マルコ1:7-11)
降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してから30年もたった後の出来事ですが、ここには「イエスの神の子としての現れ」という降誕節のテーマが続いているのです。 同時にこの出来事はイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の翌日から「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが始まります。
それにしても、イエス様がどうしてヨハネに清めと悔い改めの洗礼を求めたかは理解しにくいかもしれません。本当の効果的な洗礼を定めたイエスは清めも、許しもいらなかったのに、"今はそうさせてほしい"、とヨハネに頼みました。そしてその洗礼を受けてからイエスは御父によって御自分の愛する子として紹介されて、聖霊がイエスの上に下ってきた、とあります。これからイエスは救いの御業を成し遂げることになるが、同時にかれは完全に私たちの仲間としてこの道を歩むことを聖書は強調していると思います。御父はイエスを人類に救い主として紹介したといえるような気がします。神様が送った救い主はこのようなものだよ、といわんばかりです。つまり、イエスは力ずくで救うのではなくて、スーパーマンのようにいいカッコしい救い主ではなく、私たちと同じように生活し、私たちのの弱さ、罪を背負っていく救い主です。自分は罪をおかさなかったが、罪の結果だけを背負って人間と同じように生活し、人間と徹底的に連帯する救い主です。その姿を御父が喜ばれる。私の愛する子といわれる。
トマス・アクィナス(1225?~1274)はとても理解しやすい説明をしています。清められるためではなく、水に清める力を与えるためイエスはその洗礼を受けたと。東方教会の、イエスの洗礼を大切にお祝いしてきた伝統はその意味を深く理解して、川を祝福する水の祝福式を大切にしてきました。物質も救いの世界に迎えられる前触れとして私たちはイエスの洗礼をみているわけです。大自然、被造物全体は救いの世界に迎えられるから、大自然と環境のことをもっと深く考える必要があるのではないでしょうかい。こういう、作られた世界のすべてを積極的に評価する理由や土台は主の洗礼にあるのではないでしょうか?
http://blogs.yahoo.co.jp/iriki_ch/53633241.html
福音のヒント
(2) 洗礼を受けた後に起こったことも大切です。 (a)天が裂け、(b)聖霊がイエスに降(くだ)り、(c)「わたしの愛する子」という声が聞こえた。
(a)の「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。イザヤ63章19節には「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名(みな)で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降(くだ)ってください。御前(みまえ)に山々が揺れ動くように」という言葉があります。今日の福音書はこうしたイザヤの叫びへの答えになります。
(b)の「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるイメージを表す表現です。 (b)と(c)の出来事について、マタイ、マルコ、ルカは微妙に表現が違います。マルコでは聖霊を体験するのはイエスご自身で(イエスが見た!)、声も「あなたは」とイエスに向かって語りかけています(マルコ1章10-11節)。ルカでは、聖霊が「目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と客観的な描写のようになっていますが、声のほうはマルコと同じく「あなたは」とイエスに向かって語りかけます(ルカ3章21-22節)。マタイでは、聖霊が降るのを見るのはイエスご自身ですが、声のほうは「これは」という三人称で周りの人にも聞こえたような印象があります。つまりこの出来事は、一方では、洗礼者ヨハネをはじめその場にいた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、もう一方ではイエスの内面的な体験と見ることもできるようなのだとも言えそうです。この出来事には、イエスが神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を特別に自覚したという面の両方があると考えたらよいかもしれません。
(3) 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉の背景には、イザヤ42章1節以下があると言われています。新共同訳ではこうなっています。「1見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。2彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。3傷ついた葦(あし)を折ることなく/暗くなってゆく灯心(とうしん)を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。4暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」 「主の僕(しもべ)の召命」と呼ばれる箇所です。この「僕」のギリシア語訳は「パイスpais」で「家の中の小さい人たち=子どもや僕」を意味する言葉です。福音書の「子」は「ヒュイオス(hyios)」で「息子」を意味する言葉ですが、イメージとしてはつながっています。つまり、この「愛する子」という言葉に、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始めることが示されているわけです。
(4) 「あなたはわたしの愛する子」この言葉は、ある意味でわたしたちすべてに向けて語られている言葉だと言えるでしょう。わたしたちの洗礼はわたしたちが「神の愛する子」とされることを表しています。この「イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」というつながりも大切ですが、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」というつながりも大切です。イエスの復活後50日目のペンテコステ(五旬祭)の日、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは福音を告げる活動を始めました(使徒言行録2章)。堅信の秘跡は、同じようにわたしたちが聖霊を受けて教会の使命に積極的に参加することを表すものです。聖書の多くの箇所で聖霊は「ミッション(派遣・使命)」と結びついています(新約聖書では、ルカ1章30-35節、ヨハネ20章21-22節などを参照)。弱い人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力である聖霊が与えられます。これこそが堅信の秘跡の中心テーマなのです。「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。どんなときにわたしたちはそう感じることができるでしょうか。
(5) 「洗礼」はギリシア語では「バプティスマbaptisma」で、元の意味は「水に沈めること、浸すこと」です。洗礼者ヨハネが行なっていた洗礼も、初代キリスト教会の洗礼も、人の全身を水の中に沈めるものでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い(罪の)自分に死んで、新しい(神の)いのちに生きることを意味しています。洗礼者ヨハネにとって、洗礼は何よりも回心(悔い改め)のしるしでした。イエスは罪なき方であったのに、他の人々とともにこの回心のしるしである洗礼を受けました。そこにイエスの、罪人である人間との深い連帯性を見ることもできます。人々とともに苦しみの水の中に沈み(マルコ10・38参照)、人々とともに神のいのちへと立ち上がる、この洗礼の出来事の中に、イエスの生き方全体を表す象徴的な意味を感じ取ることもできそうです。
http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/200811331317_9e87.html
ある人は自分の才能を伸ばし、政治家になって世の中を変えようと思いました。そうやって自分のキャリアを磨くことを追い求め一所懸命仕事をしていました。
そんな人があるとき、同じ会社で、床磨きだけをもう何10年もしてきた初老の男性のつぶやきをふと聞いてしまいました。「いつかこの仕事できなくなるかなぁ。天国に行ってもやっていたいなぁ」。誰に向かって語ったわけでもない、老人のひとり言。それに衝撃を受けました。
今まで何も気に留めず、むしろ内心ばかにしていた、単純な仕事を繰り返しているだけの男性。しかしこの人に比べて、はたして自分は、今やっている仕事を天国でも続けてやってみたいと思うだろうか?
この男性は、自分を磨き、才能を伸ばすことなどまったく無頓着だったでしょう。しかしただありのままに、自分のできること、自分のしたいことを黙々と、生きがいをもって、何10年もし続けている。それに比べて自分は。いつも背伸びし「自分を高めよう。競争に勝てるようになろう」。そんなことばかり考えている。人を見ればいつもライバルと思い、蹴落とすことばかり考え、自分が評価されなければ、頭にきてしまう。こんな毎日の仕事。とても天国でし続けたいことではない。この世の中で十分……。いったい自分のしてることは何なのか。
自分のありのままの姿。自分の置かれている場所。それをそのまま受け入れていくことに、幸いの一つがあります。
パスカルは「パンセ」という書物の中でこんなことを語っています。
「自分の惨めさを知らずに、神を知ることは、傲慢を産む」。イエス様が批判したファリサイ派や回心前のパウロのことを思い浮かべればいいのでしょうか。彼らはただ自分たちだけが神に従っている正しいと思い込みました。自分の惨めさを知りませんでした。そして罪を犯さざるを得ないもの、自分たちと違う考えをするものをばかにし、迫害し、牢に入れたのでした。
パスカルは述べます。「神を知らずに、自分の惨めさを知ることは、絶望を生む」。人間は誰でも、いつか自分の惨めさに気づくときがあります。たとえば自殺してしまったユダ。ユダの悲劇はゆるす神、愛の神を拒否したことから起こりました。そして自分のどうしようもない惨めさを知ったとき、ただ絶望し、自殺するしかないと思ってしまいました。一方ペトロは自分の惨めさ、イエス様を裏切るという自分の惨めさを知っても、ゆるす神、祈ってくれている神を知っていました。だから絶望することなく、回心し、イエス様に付き従っていくことができました。
神は、深く回心したものを必ず赦します。この憐れみ深い神を知らないで自分に絶望するもの。たとえば思い犯罪を犯した人間が再び同じ過ちを犯すことがあります。この理由の一つには「もう自分は誰からも愛されない、自分は地獄に行くしかない。それならばどうなってもいい」。そんな絶望からきます。
またパスカルは述べます。「自分が惨めであることを知るのは惨めなことだが、人間が惨めなことを知っているのは偉大である」。ペトロは裏切った後、初めて自分が本当に惨めな人間でしかないことを知りました。そして回心し、イエスの復活を宣べ伝えていくときに、たびたび自分の惨めさを思い出しては、後悔の涙を流したと言われます。しかしだからこそ、かつてのユダヤ教の宗教指導者のように傲慢になることなく、人を裁くだけにならず、そして自分の裏切りの場面も、そのまま聖書に記録することを、初代教皇として許し、むしろ勧めました。自分に続くキリスト信者が同じように傲慢から間違いを犯さないように。ここに自分の惨めさを知った人間の偉大さがあります。
自分を必要以上によく見せようと背伸びしてないでしょうか。そのためにただ自分を磨き続ける男性。それよりもありのままの自分を受け入れながら、どんなことも神が私に与えてくれたことと受け止める。そうしてたとえ些細なことであっても謙そんに忠実に仕上がるとき、神の国の一員としての役割を立派に果たすことになるのです。自分をよく見せるのでなく、ささいなこと、床を磨き上げ、きれいな床を見せることにも、立派な価値があります。
私たちも洗礼者ヨハネがそうであったように、自分のために、自分を人々に見せるのでなく、イエス様のために、自分の背後に働くイエス様を世界に見せるために、イエスさまの望むことを、謙そんに、一つ一つ、着実に、果たしていきましょう。
moseos
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