Thursday, December 27, 2012

5 per annum C


年間5主日C
ルカ5:1-11   イザヤ6・1-2a,3-8


ペテロたちは自分達は魚を取るということに関しては専門家なのです。イエスは大工の子なのです。シモンの答えにはそういうニュアンスがあったと思います。漁が不作であるなんてことは、漁師にとってはあるいは日常茶飯事のことではないかと思います。漁というものは、夜しかできないものだ、漁というのは、この場所でしかできないものだという自分たちの長い間 積み上げてきた経験というものがあった。しかしそれがいつのまにか固定観念になってしまっていた。
 そういう時にイエスから「沖へこぎ出して網をおろしてみよ」と言われた。どうもこの「沖へこぎだせ」と言う言葉は、深い意味が込められていると思います。自分の経験、人間の知識、それをもっと超えたところに、網をおろしてみなさい、そういうイエスの語りかけではないかと思います。2001年大聖年の終わりに前教皇ヨハネ・パウロ二世は、全世界の教会へ送った文書があります。そのタイトルはまさにこれでした「沖へこぎだせ」(Duc in altum)。2000年過ぎたら、キリスト教はもう知り尽くされている、もうわかった、それほどもう期待していない。ペトロたちの気持ちに極めて近い現代人には、教皇がもう一度、もう一度やりましょうよ、そういう励ましのことばだったと思います。私たちは、教会というものに馴れています。修道院という生活の要領は、もうわかったと、そんなに新しいことは期待できないのだと。そういう私たちに今日こういう言葉が言い渡されます。「沖へ漕ぎ出せ」と、なまぬるい生活に減ったっている場合じゃないと。もう一度チャレンジしなさいと。

専門馬鹿という言葉がありますけれど、専門家というのは、やはり自分たちの経験を絶対化しがちであります。しかし自分達の経験、知識というものがそれほど絶対的なものかということを考えなさいというわけです。
 
 シモン・ペテロは「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、沖へこぎ出して網をおろしてみたのであります。信仰にとって大事なことは、この「しかし」という接続詞だとある人がいっております。「しかし」「にも拘わらず」というという接続詞には大切な意味が込められていると思います。信仰というのは、神を信じるということですから、ある時には自分を信じることをけ飛ばして、あるいは人間の経験とか知識とか常識とか蹴飛ばして、飛躍して、「しかし、にも拘わらず」一歩沖へこぎ出す、そういう冒険をしてみる、「しかし」と言って飛び込んでみる、そうしないと信仰にはならないのだとよく言われたものであります。もちろん、なにも闇雲に飛び込むわけではないのです。「しかし、お言葉ですから」という、イエスの言葉、神の言葉、聖書の言葉に対する信頼があって、始めてこの「しかし」という言葉が生み出されるのだと思います。
自分の経験から、こうであるから、こうなる、という理詰め(りづめ)から信仰というものが生まれてくるわけではないのです。ある程度そうした理屈とか論理というのは必要です。われわれは迷信を信じるわけではないし、オカルトとかを警戒しなくてはならないと思います、人間の理性というものがどんなに大事かということはよく知っておかなくてはならないと思います。しかしどんなに人間の知識、経験を積み重ねていっても、信仰はうまれないのです。最後のところでは、自分の知識とか経験に逆らって、「しかし」「にもかかわらず、やってみます」という冒険を必要とするのです。石橋を叩いて渡るのは結構なことなのですが、しかしそれはともすれば、人生のことや人間関係においては石橋を叩いて、結局は渡らないということになりかねないのです。
この時シモン・ペテロがイエスの言葉、「お言葉ですから」というイエスの言葉にどれだけ信頼をもっていたかはわかりません。イエスと一緒の舟にいて、イエスがその舟の中から群衆に語りかける話をどれだけ聞いていたかはわかりませんが、しかし何かを感じ取っていたことは確かだろうと思います。そうでなければ、沖にこきだすこともなかったと思います。ここには、漁がない、それが何日も続いているという人間の行き詰まりと、信頼できるイエスの言葉、それがちょうどタイミングよくぶつかったということであるかもしれません。だから信仰の冒険ができたのかもしれません。われわれの人生にもそういう時というものがあるのではないかと思います。そういう時が与えられる時というのがあるのではないかと思います。最近、キリストの言葉がゆえに行動を起こしたことがあるのでしょうか。完全にわかっていないかもしれない。けれども純粋にキリストのお言葉だから人を赦したとか、今までやっていないことをやり始めたとか。人間的に考えれば納得いかないかもしれないが、いやな人を受け入れてみたとか。

シモン・ペテロがイエスの言葉を信じて、沖へこぎだし、網をおろしてみたら、魚がとれて、その重みのために舟が沈みそうになった。その時ペテロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」といって、イエスのひざもとにひれ伏した。「わたしから離れてください」というペテロの言葉はどういう思いでそういったのでしょうか。「わたしは汚れた罪深いものですから、これ以上あなたがわたしのそばにおられると、あなたの聖(とうと)さを汚すことになるから、わたしから離れてください」という意味なのでしょうか。「あなたの聖さをけがしたくない」という意味なのか。それとも、「もうこれ以上あなたのそばにいると、わたしが滅ぼされますから、わたしから離れてください」という意味なのか、どちらなのでしょうか。ペテロはとれた魚の多さで舟が沈みそうになって、「これを見て」そう言ったと記されておりますから、やはり、あなたの聖さでわたしを滅ぼされないために、わたしから離れてくださいという思いの言葉だったと考えたほうがよさそうです。
 預言者イザヤが神殿で聖なる神にお会いした時、そこでケルビムが飛び交い、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」という声を聞き、神殿の敷居がゆれ動く体験をした時に、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」と言うところがあります。そこでは聖なるものに出会った時に、わたしは滅ぼされるという思いをもったのであります。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と言ったのであります。この時もペテロは舟が沈みそうになるのを見て、自分が滅ぼされるという恐れをもって、「わたしから離れてください」と言ったのではないかと思います。自分の汚れで、神の聖さを汚すなんてことはあり得ないので、つまり人間の汚れで神の聖さが汚されるほど神の聖さはちゃちなものではないわけですから、あなたの聖さを汚しますから、わたしから離れてください、というのはおこがましい限りです。
 しかしもしそうしますと、このペテロの言葉は、あの汚れた霊がイエスを見た時に「ああ、ナザレのイエスよ、わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」という言葉と奇妙にも一致しているということになるのではないかと思います。
どこが違うのでしょうか。ペテロは「わたしから離れてください」と言ったあと、「わたしは罪深い者です」と告白しているのであります。預言者イザヤも「わたしは汚れたくちびるの者で、」と告白しているのであります。しかし汚れた霊は、逃げ出そうとしているだけなのです。そこが決定的違うところなのではないかと思います。神の聖さに出会った時に、自分の汚れを知るということ、自分の罪深さを知るということ、そしてそこからもう動けなくなる、ただひれ伏してしまうばかりであるということであります。この時ペテロは「主よ」と呼びかけている、前には「先生」と言っていたのに、もうこの時には「主よ」とよびかけているのであります。
 
 この時ペテロはなにかあやまちを犯したという罪の告白ではなく、聖なるもの(完全なもの)に出会って、自分自身の不完全さをしる、わたしは罪深い者です、と告白するのです。しかし、汚れた霊、悪霊にはその告白はないのです。彼らは確かにイエスのなかに聖なるものを敏感に感じ取ったかもしれない、そして自分の汚れを多少は知っているかもしれませんが、しかしそれを全面的に認めようとはしないのです。そういう悪霊から「あなたこそ神の子です」と告白されても、それは信仰の告白にはならないのです、それでイエスは彼らにものを言うことをお許しにならなかったのであります。

神の恵みはペテロを圧倒いたしました。そのおびただしい魚をみて、舟が沈みそうになるほどの恵だった。それを見てペテロは「ああよかった、こんな幸福なことはない」と、思うことはできなかったのであります。一匹もとれなかった魚がこんなにたくさんとれたというのですから、これは御利益を受けたということなのです。しかしペテロはこの御利益の幸福感にひたってはおれなかったのです。「わたしから離れてください、わたしは罪深い者です」と、告白せざるを得なかったのであります。神がイエス・キリストを通してわれわれに与えられる御利益は、われわれを御利益信仰に自己満足させるわけにはいかない恵なのです。つまり、人間のエゴイズムを打ち砕いてしまう御利益なのです。

 ペテロはこの恵みの経験、この御利益の経験を魚をとるという漁師に活かすことが許されずに、人間を取る漁師となって、この経験を活かしなさいとイエスから命じられて、ペテロはいっさいを捨ててイエスに従っていくのです。ペテロの受けた恵はわれわれを御利益信仰にとどめさせないで、われわれをますます自己中心的な思いにさせないで、そういう思いを打ち砕いて、他者のために、他者を救いに導くために、この経験を活かしなさいとイエスはわれわれにも命じておられるのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke11.htm

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