Monday, December 12, 2011

Pentecost A

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Pentecost A

聖霊降臨の主日 A  野の百合会
ヨハネによる福音(20:19-23)
あいさつ・招き
皆さん、聖霊降臨の祝日にあたり、私たち一人一人の歩みの上に、また野の百合会の歩みの
上にも、神の霊が注がれますように、特に賢明と知恵の霊(賜物)が送られますように、今
日のミサを捧げることといたしましょう。

インドのタイガーという動物は、絶滅に瀕していることはご存知ですか。そのために保護区域を作ってタイガーの住み易い環境、繁殖し易い環境を整えています。そして、管理人は危ないジャングルに住んでいるタイガーをこの保護区域の中に写すわけです。どうやってそうするかというと、ドキュメンタリー映画で見たことがあります。管理人は睡眠薬の入った弾(たま)をライフル(銃)に入れてタイガーを撃つわけです。映画を見ている私たちからすれば、それは明らかにタイガーのためになされている、タイガーという動物類を救うためになさられているとわかります。けれども、考えて見ましょう。タイガーの立場に立って見ま
しょう。タイガーの観点からみたらどうでしょうか。銃を持った人間は自分のためにやっていると思えるでしょうか。銃で撃つ弾に睡眠薬が入ってるというようなことはわかるでしょうか。前もってタイガーに分かるように説明してあげるということはできないですね。タイガーにとっては人間というのは餌食か敵か、それ以外はなにもない。タイガーにしてみれば、自分を救おうとする人間と、自分を撃って殺そうとする人間は何の変わりもない。タイガーの世界と人間の世界の間にそれだけ超えがたい開きがある。人間と神様もそうです。神様は人間を救おうとしているが、人間がそれがわからない。人間の世界と神様の世界は、タイガーと人間の世界のように全く通じないこととなっています。猫と犬は5・6千年前から人間の生活に慣れて、そのよさが分かったというか、人間と一緒に住む方が楽だし、安全ですね。いわゆる人間のペットになったわけです。2千年前から、神様の世界、神様の生活、生き方に親しむ道が開かれました。それが、イエス・キリストという方です。その道は聖書に書かれています。聖書をよむと、私たちはいわゆる神様のペットになれるようになりました。
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人間が犬に「お座り」を教えますね。皆さん、小さいときに、何もしゃべれないときにお母さんから、お父さんからいろいろ、食べ方、トイレなど、教えてもらいましたね。親の「霊」をもらって大きくなりましたね。神様も私たちに「お座り」を教えようとしています。それだけではなく、投げたボールを追いかけて持ってくるように教えています。神様は私たちといろいろな遊びをしたい。
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聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に
、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。やはり、私たちはまだタイガーの部分が
結構残っているからね。 現代社会は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それがみことば、聖書であります。私たちは、そうした思いで、この聖書に取り組んでいただきたい、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいという思いが生じれば、それは聖霊の賜物であると言えると思います。聖書をもっていて、宝の持ち腐れをしているクリスチャンも結構多いと思います。
教会に行きますと、そこで私たちは罪の赦し(の秘跡)、ご聖体の秘跡を受けて、聖霊・神様がいつも共にいるようになる。それは不都合だとか、窮屈だとか、自由が奪われる。そんなふうに感じる人がいるかもしれません。しかし神様は、決して拘束し、見張り、罰したりしません。私のことをすべて知り尽くした上で、それでも愛してくださろうとして下さる神です。 幼い子供は親が自分を知り尽くしているからと言って、やりづらい、堅苦しいと思うでしょうか。かえって遠慮なく甘えて安心するのではないでしょうか。知られていることは安心でもあります。 人間は、本当は自分のことすべて知ってほしいと願っているのです。外見・表面上の自分だけでなく、隠れた自分、他人に出せない自分、自分の弱さも、寂しさも、むなしさも、罪もすべてひっくるめて分かってくれる方を待ち望んでいるのです。しかもそれらすべてを分
かった上で、すべてそのまま、ありのままに受け止め、それでも良いと言って次の一歩、成長につなげてくださる方を求めているのです。神様こそ、そのような方です。 だからこそ、いつも私を大切に、時にハラハラしながらも見守り、たえず回心の助けの手を差し伸べようとしてくださる神様・聖霊の働き。それに答えて、私たちは自分自身を、また同じように聖霊の宿っている他人を大切にする必要があるのです。こうしてイエス様の生き方を、生活の中でいつも表していくのがキリスト者の使命です。

参考ブリージ・マッケナ「祈り 恵みの泉」(聖母の騎士社1995)

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2011年6月12日 聖霊降臨の主日 A年   (赤)

一同は聖霊に満たされ……
(使徒言行録2・4より)

聖霊降臨
挿絵
ケルンで作られた朗読福音書 1250年頃


ケルンにあるベネディクト会修道院教会であるザンクト・マルティン教会で作られた朗読福音書である。時代はすでにゴシック美術の時代に入っており、この時期の写本画にも、10-11世紀の写本芸術の伝統をくみながら、人物の描き方に「より人間的な」関心が反映されてくる。この絵においても、弟子たちの表情が豊かになってきているように感じられよう。
12世紀頃までの写本画に比較的多く見られる聖霊降臨の図には、使徒たちの共同体を描く上で大きく分けて、二つのタイプがある。①マリアが弟子たちの中心にいる図(参照図:イギリス、聖オールバン修道院の詩編書挿絵)と、②使徒たちだけの集団を描くもの、その際、②-aペトロが弟子たちの中心にいるものと、②-bペトロとパウロの二人を中心に描くものがある。使徒言行録によれば、十二使徒のうち、イスカリオテのユダが死に、かわりにマティアが選ばれたことで再び十二人になったので、多くの図はきっちりと十二人を描いている。ただ、そこにパウロを描くというのは聖書の記述には合わず、むしろ、後の教会のペトロとパウロに対する崇敬が反映されたものと考えなくてはならない。
表紙絵の写本画も聖霊を受ける十二人の使徒を描いている。顔が重なっていて、後ろのほうには頭髪が部分的にしか見えない者もいるが、このような奥行きを感じさせる描き方も近代的感覚と言えようか。
ともかく、中央にはペトロが描かれている。短く白い頭髪と短めの髭は彼の特徴である。ペトロは使徒の頭としての威厳をもち、祝福のしぐさをしている。すでに教皇としての姿が写し出されていると言える。興味深いのは向かって左にいる髭のない若々しい青年の使徒である。これは、ヨハネ福音書に基づく最後の晩餐の図で、イエスに寄り掛かっていた「イエスの愛しておられた者」 (13・23) と呼ばれた弟子であろう(一般にヨハネとされる)。彼は十字架のイエスの脇にマリアとともに立っていた弟子(ヨハネ19・25-27 参照) としてよく描かれる。もう一人、ペトロの向かって右側にいるのは、禿げ上がった頭が特徴のパウロと思われる。彼も前列に全身像で描かれている点は、ペトロとパウロを使徒団の中心に描く聖霊降臨図の一つの系譜に連なっているのだろう。ただ、ペトロを中心にパウロとヨハネを両側に配する点は、この絵の一つの独自な特徴である。使徒言行録2章1-11節の叙述を超えて、その後の宣教の中で目ざましい活躍をした使徒として、ペトロ(聖霊降臨後の最初の宣教を参照。2・14以下)、パウロ(使徒言行録9章以下、パウロの手紙を参照)、ヨハネ(伝統的に第四福音書とヨハネの手紙の著者とされる)が強調されたのではないだろうか。ちなみに、この三人が抱えている白い書き文字の部分には、「聖霊が炎のような舌となって現れた」という意味のラテン語のことばが記されている。
我々としては、この使徒たちの居並ぶ光景の両脇に、21世紀に至るまでの無数の宣教者たちの姿を想像していくべきであろう。背景に描かれている建物が象徴するのは人の住む世界全体である。聖霊降臨の主日の典礼色にもなっているが、この図を金色(神の栄光)とともに満たす赤の色にも注目したい。炎にたとえられた聖霊の赤ではあるが、同時に、キリストの血、殉教の血にもつながる宣教の精神をも感じさせるのである。


詩編書挿絵(イギリス、聖オールバン修道院)

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