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福音のヒント 年間第18主日 (2008/8/3 マタイ14章13-21節)
教会暦と聖書の流れ
このパンの出来事は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ、4つの福音書すべてに共通して伝えられている話です。マタイ福音書では洗礼者ヨハネの殉教の話に続いています。きょうの箇所の冒頭に、「イエスはこれ(洗礼者ヨハネの死)を聞くと、…ひとり人里離れた所に退かれた」(13節)とありますから、ここでイエスは、自分にも危険が及びそうな状況を知って身を隠そうとしていると考えることができるかもしれません。しかし、人々の飢え渇きに応えるイエスの活動は変わらずに続いていきます。
福音のヒント
(1) 「大勢の群衆を見て深く憐(あわ)れみ」(14節)は、この箇所全体をマタイ福音書がどう見ているかを示しているようです。「深く憐れむ」からこそ、イエスは病人をいやし、「深く憐れむ」からこそ、彼らにパンを与えようとされるのです。
「深く憐れむ」と訳された言葉は、ギリシア語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という動詞です。この言葉は、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む、ということを意味する言葉で、「はらわたする」と訳した人もいます(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。沖縄の言葉に「肝苦さ(チムグリサ)」という言葉がありますが、それにも似ています。「スプランクニゾマイ」は、人の苦しみや悲しみに対する深い共感(compassion)を表す言葉なのです。イエスが病人をいやし、食べ物を与えるのは、この「苦しむ人への共感」から出た行動でした。
人の行動にはいろいろな動機があります。わたしたちも「はらわたすること」「共感」から行動に駆り立てられるときがあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。
(2) パンを与えるときのイエスの動作は印象的です。「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(19節)。イエスの食事の際の動作はこの箇所でも最後の晩さんの席でも、ほとんどいつも「(パンを)取る」「賛美する」「(パンを)裂く」「与える」という4つの動詞で表されますが、「取る」のは「賛美する」ためですし、「裂く」のは「与える」ためですから、実は2つのことをしていることになります。「パンを取り、賛美する」はこのパンがたまたま目の前にある、というのではなく、神から与えられたものであることを表しています。人を生かしてくださる神とのつながりが強く意識されるのです。「パンを裂いて与える」。当時の中東のパンは円盤型をしていましたが、このパンを裂くのは、一人で食べるのではなく、皆と分かち合って食べるためです。ここには共に生きる人々との連帯がはっきりと示されます。
なお、「賛美する(賛美の祈りを唱える)」の元のギリシア語は「エウロゲオーeulogeo」ですが、同じ話を伝えるヨハネ福音書6章11節では「エウカリステオーeucharisteo」という言葉が使われています。こちらは普通「感謝する、感謝の祈りを唱える」と訳される言葉です。この2つの言葉はヘブライ語やアラム語ではもともと同じ言葉でした。たぶんわたしたちにとっても、感謝と賛美は切り離せないことでしょう。
(3) 上で述べた2つのこと、「神とのつながり・人と人とのつながり」は、まさにイエスの食事の特徴だったと言えます。もしパンが増えて大群衆が満腹したというだけのことであれば、それは2000年前の不思議な出来事でしかありません。大切なのは、この神とのつながり、人と人とのつながりの中にこそ、人のいのちがあるということではないでしょうか。神が人に多くの食べ物を与えてくださるから満腹できる、というだけでもなく、人と人とが分け合えば豊かになれるというだけでもありません。すべてのものは神から与えられたものであり、だからこそ人と人とが分かち合って食べる、これがイエスの食事の豊かさなのです。
なお、20節の「パンの屑」という日本語訳は不正確で、直訳は「裂かれたもの」です。それが12カゴになったというところにも、満ち溢れるいのちの恵みが示されています。
(4) わたしたちの食事はどうでしょうか? 「自分の力で得た食べ物を自分だけで食べて何が悪い? だれに感謝する必要がある? だれと分け合う必要がある?」そんなところに陥ってしまう危険があるのではないでしょうか。わたしたちは幼いときから、自分のものは自分が努力して手に入れなければならない、人のものに手を出してはいけないということを学んできました。自分のものと他人のものをきちんと区別すること、もちろんそれは大切なことです。しかし人生はそれだけではありません。もともとわたしたちはすべてのものを自分の力で得たわけではなく、赤ん坊のときのことを考えれば、誰でもまず最初に一方的に多くのものを与えられてきたのです。そこに感謝と分かち合い(sharing)の原点があります。そんなことを考えると、日本語で食事のたびに言う「いただきます」という言葉は、実に深い祈りだと言えるかもしれません。
地域社会であれ教会であれ、コミュニティー(共同体)とは単なる個人の集合体ではありません。皆に共通の宝があり、その宝の恩恵に共にあずかるのがコミュニティーなのです。
(5) 「群集を解散させてください」(15節)という弟子たちの考えは常識的な判断です。自分たちの力でこの人々を養うのは絶対に無理だと知っているのでこう言うのです。しかしイエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(16節)と言われます。イエスは弟子たちにその力があると考えているからこう言うのではなく、神とのつながりの力に、人と人とのつながりの力に信頼するからこう言うのです。弟子たちは結局、イエスを手伝って群集にパンを配ることになりました。
これはわたしたち自身の姿でもあるのでしょう。わたしたちが自分の力でできることも限られています。しかし、人と人とのつながりから力を得、さらにその中に神の力が働いていると感じるとき、今の自分ができること・すべきことが見えてくる、そんな体験がわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
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