Monday, December 12, 2011

24 per annum C

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24 per annum C

年間24主日 C
【ルカ15:1-10 見失った羊+無くした銀貨のたとえ】

今日の譬え、何度も耳にした譬えだと思います。徴税人、罪人がイエス様のところに話を聞
こうと集まってきた。ファリサイ派や律法学者は、罪人と交わるイエス様に文句を言う。し
かしイエスは、その批判に対して論議や説明をしようとはしません。かえって、生活の中に
ありうるたとえ話で、人々に考えさせます。そこでイエス様はこうはっきり宣言されたわけです。「私は羊飼い。私は、見失った1匹の羊のためなら、99匹を残して捜し回る。そしてその1
匹を見つけたなら、大喜びし、皆と喜びを分かち合う。そういう羊飼いなのだ」。 私たちはすぐ思ってしまいます。1匹のために99匹を残していたら、放って置かれた99匹
はどうするのか。理想だけれど、現実的には難しい話だと。それは私も学校で働いています
のでたくさん経験しました。99匹を守るためには、1匹は犠牲にしなければならないことが
あるのではないか。一人のために学校が大変なことになっているとき、その一人をやはり追
い出さなければならないのではないか。それが社会の常識でしょう。そして1匹の羊を大切
にする理想が、カトリックの学校で行われているかと言えば、なかなかそうはいっていない
のも事実だと思います。 しかしこの常識に、イエス様は立ち向かいます。「私はそれでもその1匹をくまなく捜し
回る羊飼いなのだ」。 私たちは99匹の側に立つことが多いのです。何といっても「弱肉強食」の社会ですからね(ルネ・ジラール著, 身代りの山羊, 織田年和
, 富永茂樹訳 東京 : 法政大学出版局 , 1985.12 Le bouc emissaire参照)。だからつい「それは理想だけど……」と言ってしまいがちです。でももしも私が、その迷っ
た1匹の羊だと本当に思えたならば、本当にその1匹の羊になったことがあるなら、これは
本当にありがたい話になります。自分自身がそのような迷った1匹であったこと。そういう
体験って誰にでもあるのではないでしょうか。

ここは失われたものを見つけるという話が中心ではなく、それを見つけた時に、みんなと一緒になって喜ぶではないかという、その後の喜びが中心なのです。一人の罪人が悔い改めて神のもとに帰ってきたならば、神は自分ひとりで喜ぶのではなく、仲間を集めて共に喜ぶということなのです。天にある大いなる喜びというのは、天には天使たちがたくさんいて、神はその天使たちを集めて喜び祝うということです。神はひとりの人間が悔い改めた時に、神おひとりで喜ぶのではなく、みんなを集めて共に喜ぶということなのです。----------2008年9月26日 ... 阪神タイガース優勝に伴う経済波及効果は約767億円. 大学院会計研究
科 宮本勝浩教授らが推定. このたび関西大学会計専門職大学院の宮本勝浩教授らが、2008
年プロ野球阪神タイガース優勝の. 経済効果を推定しました。www.kansai-u.ac.jp/global/guide/pressrelease/2008/No22.pdf 天国のGDP 国内総生産は増える。
-----------サル研究のメリットは高く評価したい。しかし、そのようにサルから学ぶことが多くあるこ
とを認めつつも、「チンパンジーを見ていると、人間のどこが特別なことなのかと疑問がわ
いてきます」という科学者の感想には首をかしげざるをえない。(中略)科学や学問の営為
は、つまるところ人間が自らを理解し、自らを実現するため、つまりより充実した意味で「
人間となる」ためのものではなかったのか。思い上がりではなく、まさしく人間のどこが特
別なのかを自覚させてくれない学問は自己抹殺的な学問というべきではないだろうか。(中
略) それにつけても、どうしてサルに向けられるのと同じ程度の学問的関心が天使に向け
られないのか、不思議だといわざるをえない。というのも、もしも「サルからヒトへの進化
」という問題が学問的関心の対象になりうるのなら、人間は将来どのようなより完全な存在
へ進化するのかという問題も当然学問的関心の対象になってよいのではないか、と思われ、
そのさい人間がそれへと向かって進化してゆく高次の存在としての天使を考えることはそれ
ほど見当違いではないように思われるからである。じっさい、われわれが進化について本当
に真剣に考えているのであれば、目を過去あるいは後方だけに向けるのは不十分であって、
これからの進化がめざす未来あるいは前方をできるかぎり見きわめようとする試みが要求さ
れるであろう。進化の目標についてのヴィジョンを欠いた進化論は、私には科学の名を借り
た独断か偏見のようなものとしか思えないのである。(P34-35)   「サル学」というのが、昨今あまりにもクローズアップされていて、ほとんどの結論が
「人間とサルはそんなに違わないじゃないか」となってましてあまりにも馬鹿げたそうした
論調には、日頃から憤っていたものです(^^;。  正しい学問的関心があるならば、なぜ人間は、現在の愚かしい状態も含めて、まさに、サ
ルではなく人間なのかということを問うべきだと思います。そして、人間は、そうした愚か
しさをどのように克服して、新たな進化の段階へと進むべきなのか。そういう可能性の学問
でなくて、なにが学問だ!といいたいわけです。サルから学ぶものはそれはそれでけっこう
だけど、それで人間がわかったなどと思う愚かしさにだけは陥ってはならない。そう思うの
です。 (稲垣/良典【著】天使論序説 講談社学術文庫  講談社  1996)
---------------主イエスがここで言おうとしていることは、一人の人間が自分の罪を悔いたならば、共に一緒になって、喜ぶのが当たり前ではないかということです。どうしてお前たちにはそれができないのかということです。パリサイ派の人々は自分たちだけが救われればいいと考えているのです。自分たちが天国にいければいいと考えていたのです。
できることならば、救われる者はできるだけ少ないほうがいい、それのほうが有難味が増すというものなのです。彼らの考える救いというのは、結局はそのようにきわめて利己的なもの、自分だけが救われれればいいという自己中心的なものだったということであります。そんなものは神の救いではないと主イエスはここで語ろうとしておられるのであります
。-----------------何でもないようなものを見つけ出すのにほぼ一日を費やすこともあります。今日の福音書の神様の様子はそれに似ています。「悔い改める見込みのある人を必死で捜し出すこと」とまとめてることができると思います。百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失った時に考えたことは、まだそんなに時間も経ってないし、捜せば見つかる見込みがあると判断したのだと思います。時価五千円相当の銀貨も、まだ旦那にばれていないし(「へそくりがね」だと仮定しての話ですが)、どう考えても外に持って出た覚えはない。だとしたら、捜せば見つけ出す見込みがあると考えたのだと思います。 私はこの、「見込みがある」と考えたことに必死で努力することが、今日の朗読からの学びなのではないかと思っています。イエス様は直接「見込みのある努力をしなさい」とか「見込みのないことからは手を引きなさい」と仰っているわけではありませんが、そこでわたしたちの生活に目を向けたいのですが、実はわたしたちの教会(共同体)のなかには、手を付ければまだ見込みのある部分がたくさん残されているのではないかと思うようになります。羊を持った人のたとえ話では、「九十九匹を野原に残して」とありました。あと一人、教会に足を向ける見込みのある人がいるとすれば、それは必死に努力する価値があるということです。そのあと一人二人が、教会に来ない理由は何なのでしょうか。または、教会運営に手を貸してくれない人がいるかも知れません。そういう人が何人もいるとして、あの人とあの人は、きっかけがあればまた足を向けてくれるのだなあということもあるでしょう。では、どんなきっかけがあればいいのか、必死で考えてみることでしょう。イエス様は、立ち返る人が一人でもいれば、天使たちの間に喜びがある、それだけの価値があると仰っているのです。




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