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4 advent A |
待降節第4主日A年 野の百合会 (説教時間:約20分)
マタイによる福音書1章18~25節
恐れず迎え入れなさい
I あきらめと仕方なさ
今年一年変革を求めて日本社会は動いたのかもしれません。しかし、現在のところ格段に
良くなったという成果は現れてはいないようです。 そして、わたしたち個人のことを考えてみても、心のどこかで不安や恐れをみんなが抱いているのではないかと考えることがあります。 失業率の上昇にははどめがかからず、円高や株価の安値も伝えられている通りです。わたしが子どもの頃思い描いていた未来は、もっともっと暮らしやすい世の中でした。言い方を変えれば「バラ色の21世紀」が訪れるはずだと思っていました。でも、そうはなっていない現実があります。 何が悪くてそうなっているのか、単純な理由ではないでしょう。が、大人も子どももどこか変化してきているような気がしています。 普段子どもたちに接している方々の話を聞くと、無気力な子どもたちが増えてきたと感じています。 やるべきことをやろうとしない。例えば、いついつまでに宿題をしなければならないのに、提出期限を過ぎても出さない。教師から請求されても、言い訳をしてまだ出さない。やらないで逃れようとするのです。その中には勉強する習慣がない子どももいるようです。「めんどくさい」「だるい」「やりたくない」「何とかなる」。そういう言葉の中に深いあきらめや虚無があるような気がします。子どもたちにとって人生はこれからなのに、素晴らしい
可能性を秘めているはずなのにと思うとすごくもったいないと思います。 先日、何気なくテレビを見ておりました。マイケル・ムーアというアメリカ人のドキュメンタリーの映画監督のインタビュー番組だったのです。その中に「政治家やマスコミが恐怖や不安をあおることで人々をコントロールしやすくなる」という言葉があったのです。 「なるほど」と思わされました。不安や恐れを何度となく伝えられることで、みんながど
こかであきらめムードになってしまっているのかもしれないと思えたのです。大人は悪くならない程度にこのままの生活が何とか続いていけば良い。子どもたちはどうせ努力したって自分の能力はたかが知れている。そんなふうに考えるように操作されて、みんなあきらめとか仕方なさの中に生きざるを得なくなっているのではないかと思わせられました。
II 不安と恐れ
けれども、イエス・キリストが生まれた2000年前のユダヤというところもまた人々が不安や恐れを感じながら生きていたのではなかったかと想像するのです。 第一朗読に「もどかしさ」ということばがありました。これも大変興味深いことばですが、今日は朗読されたマタイによる福音書の物語はイエスの父であるヨセフという人に焦点をあてたものです。マリアという婚約者と間もなく結婚するというある日、まだ結婚前に、マリアの妊娠が発覚するのです。
マリアと婚約中であったヨセフにとって、いいなずけのマリアが子を宿したと知った時、ど
のように思ったことでしょうか。たいへんなショックだったに違いないのです。「聖霊によ
って身ごもっていることが明らかになった」と聖書には書かれていますが、ヨセフからして
みれば、いったいそれが聖霊によって宿ったものだということがどうして分かるはずがあり
ましょうか。「マリアは私という婚約者がいながら、他の男性と関係を持って子を宿したの
だ」と考えるのが当たり前です。 婚約者マリアの妊娠を知ったヨセフはマリアと別れることを決心しました。 しかし離縁したらしたで、今度はほかの問題が起こってきます。それは、ヨセフと別れた
マリアが妊娠していたことが分かると、今度は婚約者を妊娠させたにもかかわらず離縁した
ということで、ヨセフが世間の非難をあびることになるのです。
ヨセフの心の中には不安があったでしょうし、恐れがあったことでしょう。幸せな結婚を
しようとしているのに、どうしてこんなことが起こったのだという怒りもあったことでしょう。
III 恐れを超える希望
ところが、ヨセフが眠っていると、その夢の中に天使が現れたというのです。《ダビデの
子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と天使は語ります。 「恐れず」というのです。不安の中にある。恐れを感じている。そんなヨセフに「恐れず」と天使は語るのです。 わたしも含めて人間は不安や恐れを感じているときには、積極的に行動することができません。動けなくなるのです。硬直するとでも言うのでしょうか。そして、恐れているときには、幸せや喜びを感じなくなるのです。 不安や恐怖とは、人間の中で自分を守るために一番敏感にしておかなければならない感覚です。この感覚がないと人間は自分の身に危険が及ぶのを察知し回避することができなくなります。でも、この感覚が働きすぎると、逆に何もしないとか何もできなくなるとかいうことが起こるのです。 犯罪にまきこまれ、被害を受けた人に心ない人が言うことがあります。「どうして抵抗しなかったの?」と。人間の心理を全くわかっていない発言だと憤りを感じることすらあります。人間は本当に恐怖を感じたら、動けなくなるのです。何もできなくなるのです。 ヨセフはとりあえずマリアを石打の刑にするのは嫌だった。だから表ざたにせず《ひそか
に縁を切ろうと決心した》わけです。自分の恐怖を取り除き、マリアから離れることで自分
の生活を取り戻そうとしたわけです。 それに対して、神は天使の言葉を通し《恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と語るのです。恐れを超えなさい、動きなさいと語っているのです。恐れを超えたその先にイエスの誕生という喜びがあることを示そうとするのです。 そしてさらに、この出来事は「インマヌエル(神は我々と共におられる)」ということなのだと説明しているのです。 さらに、ヨセフの不安のただ中に、ヨセフが恐れを感じるそのそばに、神は共にいるのだということを示しているのです。
「夢」ならば私たちも見ます。もちろん「正夢」(正夢(まさゆめ)は、夢に見た通りのこ
とが現実になる夢のこと)というのもあるが、全く荒唐無稽(こうとうむけい、でたらめ)
な夢もある。いちいちそういう夢の通りにしていたら、きりがありません。 それこそ夢
物語になってしまいます。子どもが「テレビのタレントになる夢を見た」からと言って、そ
うなるわけでもないのです。 けれども、フロイトを待つまでもなく、人類は昔から夢にイ
ンスピレーションを得てきました。
神はわたしたちにも同じことを語りかけているのではないでしょうか。クリスマスとは喜
びの訪れです。希望の象徴です。一人のいたいけない赤ちゃんがこの世の救い主としてわたし
たちに遣わされる。この世を愛の力によって変えようとする神の意志の表れだと思います。 この世界はあきらめや虚無によって支配されるものではないのです。不安や恐怖が渦巻いて何をやっても無駄だという仕方なさの中にあるのでもないのです。 確かに、わたしたちの中にはあきらめや虚無があります。不安や恐れがあります。それでもなお、わたしたちには希望が与えられるのです。 イエス・キリストはこの世界に希望をもたらすために、一人の赤ちゃんとしてやって来たのです。 クリスマスという出来事はわたしたちを信じ、わたしたちを愛する神が、これまでも今もこれからもわたしたちと共におられるという確かなしるしなのです。
子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と天使は語ります。 「恐れず」というのです。不安の中にある。恐れを感じている。そんなヨセフに「恐れず」と天使は語るのです。 わたしも含めて人間は不安や恐れを感じているときには、積極的に行動することができません。動けなくなるのです。硬直するとでも言うのでしょうか。そして、恐れているときには、幸せや喜びを感じなくなるのです。 不安や恐怖とは、人間の中で自分を守るために一番敏感にしておかなければならない感覚です。この感覚がないと人間は自分の身に危険が及ぶのを察知し回避することができなくなります。でも、この感覚が働きすぎると、逆に何もしないとか何もできなくなるとかいうことが起こるのです。 犯罪にまきこまれ、被害を受けた人に心ない人が言うことがあります。「どうして抵抗しなかったの?」と。人間の心理を全くわかっていない発言だと憤りを感じることすらあります。人間は本当に恐怖を感じたら、動けなくなるのです。何もできなくなるのです。 ヨセフはとりあえずマリアを石打の刑にするのは嫌だった。だから表ざたにせず《ひそか
に縁を切ろうと決心した》わけです。自分の恐怖を取り除き、マリアから離れることで自分
の生活を取り戻そうとしたわけです。 それに対して、神は天使の言葉を通し《恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と語るのです。恐れを超えなさい、動きなさいと語っているのです。恐れを超えたその先にイエスの誕生という喜びがあることを示そうとするのです。 そしてさらに、この出来事は「インマヌエル(神は我々と共におられる)」ということなのだと説明しているのです。 さらに、ヨセフの不安のただ中に、ヨセフが恐れを感じるそのそばに、神は共にいるのだということを示しているのです。
「夢」ならば私たちも見ます。もちろん「正夢」(正夢(まさゆめ)は、夢に見た通りのこ
とが現実になる夢のこと)というのもあるが、全く荒唐無稽(こうとうむけい、でたらめ)
な夢もある。いちいちそういう夢の通りにしていたら、きりがありません。 それこそ夢
物語になってしまいます。子どもが「テレビのタレントになる夢を見た」からと言って、そ
うなるわけでもないのです。 けれども、フロイトを待つまでもなく、人類は昔から夢にイ
ンスピレーションを得てきました。
神はわたしたちにも同じことを語りかけているのではないでしょうか。クリスマスとは喜
びの訪れです。希望の象徴です。一人のいたいけない赤ちゃんがこの世の救い主としてわたし
たちに遣わされる。この世を愛の力によって変えようとする神の意志の表れだと思います。 この世界はあきらめや虚無によって支配されるものではないのです。不安や恐怖が渦巻いて何をやっても無駄だという仕方なさの中にあるのでもないのです。 確かに、わたしたちの中にはあきらめや虚無があります。不安や恐れがあります。それでもなお、わたしたちには希望が与えられるのです。 イエス・キリストはこの世界に希望をもたらすために、一人の赤ちゃんとしてやって来たのです。 クリスマスという出来事はわたしたちを信じ、わたしたちを愛する神が、これまでも今もこれからもわたしたちと共におられるという確かなしるしなのです。
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