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年間26主日 C
【ルカ16:19-31 金持ちとラザロ】
今日の話から導かれることは2つあります。 先週の富の使い方と同じで、富を自分のものだけにして、貧しい者への施しを怠るなら、必ず天の裁きがある。だから先延ばしせず、今すぐ回心し、富を良い目的のため用いなさい。惜しみなく施しなさいと言う意味です。 さらにもう一つの意味があると思います。今日の譬え話は、めずらしく名前が登場しています。「ラザロ」です。わざわざ名前が登場するからには、それなりの意味があると思います。 ラザロは、新約聖書に実際に登場する人物です。だからこの譬え話が語られ、「ラザロ」の名が出たとき、人々は実際のラザロのことを思い起こしつつ、この譬えを聞いたのです。 聖書中のラザロは、イエス様がたびたび身を寄せた、マルタとマリアという姉妹をもった善良な人でした。譬え話のラザロは貧しいですが、実際のラザロは金持ちだったと思われます。そしてこの譬え話が語られたとき、ラザロは元気でしたが、間もなく病気になり、死んでしまいます。イエス様はこのラザロの死を目の当たりにしたとき、涙を流してもいます。
ラザロが死んで墓に入ってからもう4日も経った。そんな絶望的な状況の中で、奇跡が行われ、墓の中から、布で巻かれたまま蘇ったのでした。しかしこの死からの蘇りも、イエス様にとっては良い結果をもたらしませんでした。なぜならまさにこの奇跡のゆえ、衆議会はイエス様の死刑を議決したからです。聖書にこう書かれています。 「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる』……
この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。(ヨハ11:44-48,53) つまりこの譬え話のもう一つのメッセージ、「モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。それは、実際に起こったのです。ラザロが死から蘇ったのを見ても、祭司長、ファリサイ派の人びとは、イエス様が神の子であることを信じることができません。逆に、このままではイスラエルの民全部がイエス様をメシアと信じるようになると憤慨し、そうなる前に、イエス様を殺すと決めたのです。 イエス様が行った最大の奇跡も、イエス様が神の子であると信じさせる結果にはなら、かえって完全な敵対関係に入っていきました。それはイエス様自身の復活のときも同じでした。何を見ても、聞いても、神が偉大な業をなしても、頑なに心は閉じていくばかり。何ら回心の助け、信じることにならず、逆に自分たちの無力さを意識し、憤慨するばかりです。 このように回心するものとしないものの間には、大きな溝があって、お互いどうしても越えることができない。それが現実です。この大きな淵の原因は、神様の罰でも、神様の冷酷さにあるのでもありません。人間の頑なさが原因です。 だから目を見張るような奇跡がないから、あっと驚くような神の力を見ることがないから、神様を信じられない。こうした心情には注意が必要です。恐らくそう言う人は仮に、奇跡を見てキリスト教を一時的に信じたとしても、今度挫折にあったとき、うまくいかないことが起こったとき、すぐ信仰を捨てることになるでしょう。 それが2000年前に起きたのでした。イエス様を賛美して迎えた人が、数日後には、十字架の道を歩み始めたと言って、罵詈雑言(バリゾウゴン、口きたない、ののしり)を浴びせたのです。「自分も救えないでどうして神の子か。神の子なら自分を救ってみろ。そうしたら信じる」。 奇跡を行わない神など信じられない。でも神の言葉を受け入れることのできない人は、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることはけっしてない。かえって憤慨し溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
ラザロが死んで墓に入ってからもう4日も経った。そんな絶望的な状況の中で、奇跡が行われ、墓の中から、布で巻かれたまま蘇ったのでした。しかしこの死からの蘇りも、イエス様にとっては良い結果をもたらしませんでした。なぜならまさにこの奇跡のゆえ、衆議会はイエス様の死刑を議決したからです。聖書にこう書かれています。 「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる』……
この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。(ヨハ11:44-48,53) つまりこの譬え話のもう一つのメッセージ、「モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。それは、実際に起こったのです。ラザロが死から蘇ったのを見ても、祭司長、ファリサイ派の人びとは、イエス様が神の子であることを信じることができません。逆に、このままではイスラエルの民全部がイエス様をメシアと信じるようになると憤慨し、そうなる前に、イエス様を殺すと決めたのです。 イエス様が行った最大の奇跡も、イエス様が神の子であると信じさせる結果にはなら、かえって完全な敵対関係に入っていきました。それはイエス様自身の復活のときも同じでした。何を見ても、聞いても、神が偉大な業をなしても、頑なに心は閉じていくばかり。何ら回心の助け、信じることにならず、逆に自分たちの無力さを意識し、憤慨するばかりです。 このように回心するものとしないものの間には、大きな溝があって、お互いどうしても越えることができない。それが現実です。この大きな淵の原因は、神様の罰でも、神様の冷酷さにあるのでもありません。人間の頑なさが原因です。 だから目を見張るような奇跡がないから、あっと驚くような神の力を見ることがないから、神様を信じられない。こうした心情には注意が必要です。恐らくそう言う人は仮に、奇跡を見てキリスト教を一時的に信じたとしても、今度挫折にあったとき、うまくいかないことが起こったとき、すぐ信仰を捨てることになるでしょう。 それが2000年前に起きたのでした。イエス様を賛美して迎えた人が、数日後には、十字架の道を歩み始めたと言って、罵詈雑言(バリゾウゴン、口きたない、ののしり)を浴びせたのです。「自分も救えないでどうして神の子か。神の子なら自分を救ってみろ。そうしたら信じる」。 奇跡を行わない神など信じられない。でも神の言葉を受け入れることのできない人は、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることはけっしてない。かえって憤慨し溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
キラキラ輝いても過ぎ去る富と本当の富、価値あるものの区別、さらに日常生活は永遠のいのちにつながっていること、そして毎日のように私たちの読んでいる「モーセと預言者」(みことば)から来る光(キラキラ輝くこの世の富に目を取られて)を見分けることができなかったら、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
そこには越えることのできない「深い淵」があり「境界線」がある。しかし人間の引いた境界線と神の引かれた境界線とは異なっています。神の引かれた境界線は私たちの思いを遥かに越えている。救いの内と外を分ける境界線は内と外とが逆転しているのです。ネガフィルムのように白黒が反転している。人の思いと神の思いは異なっています。
この金持ちは生きているとき、いつもラザロを見ていた。しかし金持ちはラザロとの間で大きな淵を作り、まったく無関心を装っていた。人間がほんとうに幸せになれないのは、自分の世界に閉じこもり、自分の満足だけを求めて、他の世界に無関心であることから来るのです。他人を無視し、あるいは犠牲にして、自分だけが幸福であるということは、けっしてありえないのです。そこにあるのは孤独・孤立した自分なのです。
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