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年間27主日 C |
年間27主日 C
【ルカ17:5-10 取るに足りない僕】
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今日の話を聞いて、途惑いをもつのが本当です。
畑を耕し羊を買う僕がいます。やっと仕事が終わり疲れて帰って来ます。その僕に主人は言います。「さあ、今度は夕食を作れ」。僕は主人のために、疲れた体で、やっと食事を作り終えました。それに対して主人の返す言葉はこうです。「お前は当たり前のことをしただけだ。取るに足りない僕だと言え」。
この譬え話で僕とは人間です。主人とは神様です。これはおかしな話ではないですか。人間はこのように神様にひたすら仕えろというのです。聞きなれているから当たり前と聞き流すのでなく、どうして神様はこんなひどいことを言うのか。この譬えには神様の愛の一かけらも感じられないと、もっと怒らなければなりません。それがあって初めて、聖書を深く読み、理解し、行動することが始まるのです。
キリスト教は一人ひとりを大切にしてくださる神様の愛を知る宗教だったはずです。そしてイエス様はこの私の愛のゆえに、私を救おうと、十字架にかかったはずでした。それなのにどうしてこんな話が出てきたのでしょう。
私は確かに神様からかけがえのない人間として選ばれたものです。ある意味で主人公です。しかしそのことは、すべて自分の思う通りになることではないことも、はっきりと知らなければなりません。神様はけっして人間の都合どおりには動かない。神様が人間に仕えるのではありません。人間が神様に仕えるのです。
それなのに私たちはとかく神様を自分の奴隷にしてしまいがちです。困ったとき、神様に何とかしてもらおうと願います。うまくいかないと腹をたて、「神などいない。神がいるならどうして」と言ってしまいがちです。つまり自分が大切で主人公と言う気持ちは大切ですが、しかし間違うと神様を自分に仕える僕にしてしまう傾向があるのです。
「てるてる坊主」の歌。小さい頃、何気なく歌った歌ですが、けっこうこわい歌詞です。
てるてる坊主てる坊主、明日天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに、晴れたら金の鈴あげよう
私の願いを聞いたなら
甘いお酒をたんと飲ましょう
それでも曇って泣いたなら
そなたの首をちょんと切るぞ
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てるてる坊主を正立させた状態で軒先などに飾ると、明日の天気が晴れになるという。
一部の地域などでは逆に倒立させた状態(いわゆる逆さ吊)で飾ると、明日の天気が雨になるとされている。 のび太国にもこの習慣があり、るてるて坊主と呼ばれている。
いわゆる人類の原始的な歴史より行われてきた、呪術信仰に基調がある。具体的事例をあげるとするならば、縄文時代の土偶の原理と同じである。つまり、ある主体を犠牲にすることで、別の主体を改善するという等価交換の原則に基づいた風習であるといえる。
てるてる坊主の起源は中国にある。長雨などで河川の氾濫が起こったり作物に甚大な被害が発生したりする場合に、古来中国の人々は、幼い児童を集団で痛めつけ無理やり涙を流させた。そして最終的に彼らを軒下などに吊るし上げて殺害した。このとき「生贄」になった児童の涙や、暴力によって欝血した体より流れ出たおびただしい量の血液、もしくは殺害の方法が絞殺であるがゆえに生じる流れ出る唾液や糞尿が、「雨」の代わりであるとして、晴天への希望を託したのが、てるてる坊主の起源である。ちなみにこの行動を行えど晴天にならない際には、複数の児童を「てるてる坊主」にしたという記述もある。
後にこの風習は日本にも伝えられ、同様のことが行われた。しかし、中国にしろ日本にしろ、てるてる坊主の内容は「人の代わりに人形を吊るす」といったものに移行していった。しかしながら、人形は何も流さないため、壊滅的な雨量がもたらされる場合はやはり人間の子供を「てるてる坊主」にすることがあった。
日本では、江戸時代中期ごろに既に飾られていたようで、『嬉遊笑覧』という本には、晴天になった後は、瞳を書き入れて、川に流すと記されている。これは、かつての風習により生じた死体の処理方法が、雨の後の水かさが増した川に投げ入れたという合理的な行動に起因するものとされる。
[編集] 童謡
作詞浅原鏡村(浅原六朗)、作曲中山晋平による同名の童謡は有名である。1921年(大正10年)に発表され、教科書にも掲載されていた。3番の歌詞は、「晴れにならなければ首をちょん切る」といった内容が記されている。これは大量の児童を生贄にささげ、それでも雨が止まらない場合、児童の死体の首を切り落として、流れ出た児童の血液を雨の代わりとしたという行動に基づいたものであるとされる。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A6%E3%82%8B%E5%9D%8A%E4%B8%BB
3番の歌詞は、「晴れにならなければ首をちょん切る」といった残酷な内容であるため、現在放送する際はカットすることが多い[要出典](「おばけなんてないさ」の影響である)。
「てるてる坊主」
浅原鏡村(あさはら・きょうそん)作詞・中山晋平(なかやま・しんぺい)作曲
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに(注)
晴れたら金の鈴(すず)あげよ
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願(ねがい)を 聞いたなら(注)
あまいお酒を たんと飲ましょ
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇(くも)って 泣いたなら(注)
そなたの首を チョンと切るぞ
(注) 「いつかの」「わたしの」「それでも」のアンダーライン部分が半音高すぎましたので、修正
しました。Yoshie Inoueさんにご指摘いただきました。ありがとうございます。(2001/07/09)
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私の願いを叶えたら、金の鈴をあげ、大切にお祭りするけれど、そうでなければ、打ち首だというわけです。
人間の気まぐれ。自分の都合によって、神様を評価し、価値を決める。神様を自分の奴隷にする傾向。こうした日本的な考え方に対し、そうではないと神様は語ります。
だから「困って神様に何とかしてもらいたいと叫ぶ。しかし自分の願いがかなわない」。そんな時、ただ腹をたて「神はどうして何もしてくれないのだ。神などいない。自分は見捨てられた」。そう言って、せっかくもらった信仰を捨て、神様から離れることのないようにしましょう。
そのために、神の計らいを辛抱して待ち続ける忍耐を、神様への絶対的な信頼を持ちましょう。十字架にかかったイエス様と共に留まりましょう。すぐに「神の子なら十字架から降りてみよ」と奇跡を要求することのないようにしましょう。
「この世の人間的な幸福」。そのようなものは、イエス様もマリアも、他のすべての聖人も、必ずしも与えられてはいないのです。悲惨な死、別れ、この世の不幸といつも一緒でした。そんな中で、いつも神様のみ旨は何なのか、思いめぐらしながら歩んでいました。こうして苦しみをも神様のみ旨として受け止めながら、聖人たちも歩んだのでした。神様から愛された人間だから、この世で楽に過ごせる。そんな約束は、最初からなかったのです。イエス様もマリアもどんなにこの世の苦しみと立ち向かいつつ歩んだことでしょうか。
だからこそ人間には節制、忍耐、犠牲が大事です。苦難に耐えられるだけの力を与えられるよう、祈りによって神様と対話し、神様のみ旨を知ることも大事です。逆にもしもすべて自分の思うどおりになり、神様がそのように取り計らってくださるなら、私はただのわがままな人間だけで終わり、なんら成長したり、我慢したり、犠牲をしたりすることがありません。 思う通りになるからと神様を簡単に信じ、思い通りにならないからと神様を裏切る。その繰り返しで人生を終えるでしょう。しかしそれでは神様の愛の業、私への犠牲の十字架の業も、私において実を結ばないまま終わるでしょう。他人への愛の行為、自分の喜びを犠牲にしても捧げてこそ、イエス様の私への救い、愛も完成され、実を結びます。このことを知るのも大事です。
私たちはだからこそ祈る必要があります。「信仰を増してください」。この信仰とは、自分の思う通にしてくれる神様を信じるのではありません。自分の思い通りにならないときにも、神様がいながらなぜと思えるときにも、神様を信じられる、そのような信仰を下さい。そういう意味です。
第二朗読にもだからはっきり書かれています。「神の力に支えられて、福音のために私と共に苦しみを忍んでください(Iテモ1:12)」。神様の重要な使徒であるパウロも、主のためには喜びと共に、苦しみにもたくさん遭いました。そのパウロが自分と一緒に、苦しみを忍んでくださいと願うのです。信じることの基準を目前の自分に都合のいい奇跡にばかり置き、それを約束しないからキリスト教は信じるに値しない。そうした考えも間違いです。
神様は私を愛し抜かれ、大切にしてくださった。だからといえこの世は楽に過ごせるわけではない。神様は道具ではありません。神様の愛は、自分の思いのままにならないときにも、しっかり潜んでいる。そのようなときも、神様の愛を信じ、賛美する必要があります。神様が主人だからこそ、私は苦しみ中でも、神様のみ旨を捜しつつ、忍耐することも必要。そのことが今日の箇所から述べられていたわけです。
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9月15日
「悲しみの聖母」 記念日、
聖母の苦しみ、ルカ2・33-35
人間的な目で見ますと、マリア様はこの言葉のとおり、本当に不幸な人間としてこの世に来て、不幸そのままに帰られた方かもしれません。しかし、彼女が示してくださったことは、彼女はあせったこともなければ、自分が呪われたと思ったこともありませんでした。み旨を伝えられた時、ただ心に留めて黙想する姿だけを見せてくださいました。母親にとって一番辛いことは、自分より先に息子を逝かせることだそうです。その痛みさえ、受け入れなければならなかったマリア様の心を考えてみますと、やはり私たちが感じている痛みは贅沢なものなのだ、という気がします。
今日の福音(ルカ2・33‐35)で、シメオン預言者によって「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」と預言されています。それは、刺し貫かれるくらいの痛みを感じます、という意味です。そしてイエス様には「この子は、反対を受けるしるしとして定められています。」と預言しています。この預言者から聞かされた話では、マリア様は最後まで、人間的に不幸に生きるしか方法がない、となります。「反対を受けるしるし」とは、どういう意味でしょうか。死ぬ時まで、敵として反対される人生を過ごさなければならない、ということです。そのような息子を見る母の心は、剣で心を刺し貫かれるような痛みをいただくだろう、ということです。
皆様、イエス様が見せてくださった真理はただ一つです。「あなたが本当に救われるためには、あなたに与えられたその痛みを抱きしめて乗り越えなさい。」という言葉です。誰でも嫌なことを抱きしめたくはありません。できるだけ自分にはよいことをしながら、人からは、「よい人だ」と言われたいのが、私たちの一番本能的な傾きかもしれません。しかし、本当にまじめで真実な生き方をした人々の人生は、いつも苦痛との戦いでした。乗り越えようとしても乗り越えられないかもしれないし、そのまま終わるかもしれません。しかし、クリスチャンである私たちにとっては、必ず乗り越えようとする自分との戦いがなければ、今日の福音の意味、そしてマリア様の痛みや悲しみの意味を理解するのが出来なくなると思います。
皆様、いろいろ疲れることもあるのでしょう。しかし、それを恵みだと思ってください。罪がたくさんあるところに恵みがある、という使徒パウロの言葉は、ただ言葉だけのものではありません。痛みを意識しながら、痛みを乗り越えられる希望を持つこと、それがよい方法であることを覚えましょう。
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