From Evernote: |
33 per annum C |
年間第33主日 C
ルカ21・5-19
人々は、神殿の外装の美しさに心を奪われ、神殿の主である神を忘れてしまっている。移り変わる世の中、あらゆる物事が崩壊していく中で、見つめるべきことは「神のはからい」なのでしょう。大切なことは、神殿が美しく飾られている栄光のとき、神殿が破壊されるとき、物事がどのように激動のうちに変化したとしても、神は常に変わることのない愛情を私たちに注いでおられます。その愛情にこそ、目をむけるようにとイエスは人々に語りかけます。パウロも「落ち着いて仕事をしなさい」と述べています。つまり、目先のことで必要以上に歓び舞い上がったり、逆に、どうにもならないと落ち込んだりするのではなく、日々の生活を心こめて、神の変わらぬいつくしみに信頼し、毎日を淡々と真心こめて生きることがキリスト者の生き方なのだと云いたいのでしょう。マラキの預言で言われているように、滅びゆく悪と罪の状態の真っ只中にあって、「義の太陽が昇ります。」神のいつくしみと公平な恵みだけが確かなものとしてこの世を照らすのです。神のいつくしみは、いつも変わることなく、あまねくあらゆる人々を照らし暖めているのです。sese07人生には苦労も多い場合があります。国、公務員にとっては、大したことでなくても庶民には響きます。世の中には一見不都合なことが多すぎます。戦争とテロ、民族間の対立、疫病と飢餓、地球上のあるところでは日常茶飯的に起こっています。これでも神さまはいるの?といいたくなります。姫路で小さな女の子が殺された。命に関わる事件ともなりますと、精神状態までもがおかしくなります。このような状況にある人に向かって、今日のイエスさまのメッセージは意義深いと思います。 現実的にこうした苦しい状況からわたしたちは逃れることはできないのです。信仰者にとっても、神の深い愛の手の中に包まれている人にとっても、幸せの崩壊、苦しみを味わう体験はいつか来るのです。どうしてでしょうか?イエスさまがそのような中での生き方をわたしたちに見せてくださったのです。真の人間の崇高さ、幸せはどこにあるのか?こうした現実の苦しみの中にあっても、神に信頼を置いて生き抜くところに、人の価値があり、それが永遠の幸せにつながるのです、と言われます。ここに、生きていることの真の意味があります、ということでしょうか。 けれども失敗したり、挑戦もしないでいてあきらめてしまうのが、また、人間です。努力しても結果はすぐに出てきませんし、話しかけても返事は返ってこないし、・・・・・。それでも行き続けることに真の幸せを見出します。実感が湧いてきません。それでも生き続けるのです。これは人間にしかできないことだから。いつも挑戦する心と姿勢をわが身に携えましょうということでしょう。 http://mr826.net/yz/seisyo_message/archives/message/2004/0404/041114/
何か災害が起こる前に、その災害から少しでも逃れたい、それに対処する用意をしたい、あるいは、せめて心の準備をしたいと思うのは当然です。大地震が日本にいつか来るということは、避けられないことです。ですから、そのために被害をできるだけ少なくするために、その大地震がくる前の前兆を知りたい、地震予知というのが、地震学の重要なテーマだろうと思います。
弟子達がこの時、聞いたというのは、やはり自分たちがいち早くその前兆を知って自分たちは逃れたいという思いがあったから、聞くことになったのではないかと思われます。 イエスはそれに対してなんと答えたでしょうか。この21章の全体は、イエスがこの世の終わりについて述べた箇所ですが、ここはどう読んでも、はっきりしないのです。終末の前兆があるのかないのか、はっきりしないのです。
人々は「先生、では、いつそんなことが起こるのでしょうか。またそんなことが起こるような場合には、どんな前兆がありますか」と問うたのです。そこからイエスの終末についての教えが始まったのです。人々がその前兆を知りたいというとき、その前兆を知って、その災害が起こる前になんとか逃れる道をみつけておきたい、その心がまえをしておきたいというところから、「先生、ではいつそんなことが起こりますか」と尋ねたのです。つまり人々がこの世の終わり、終末ということで考えていたことは、大地震が起こるとか、戦争が起こるとか、そういう人間の歴史そのものが混乱すること、あるいは、ただ人間の世界だけでなく、この宇宙全体が破壊すること、それが終末だと思っていたのです。流れ星、隕石(いんせき)が地球に落ちるとか。
終末の前兆はあるのか、というのが人々の問いでした。人々がそのように前兆を知りたがるのは、終末というものがただなにか悲惨なことが起こる日と考えているから、その悲惨さから逃れようとして、その前兆をしりたがるのです。しかし主イエスは、終末というのは、この世の滅亡のあとに本当に救いが始まる時なのだというのです。それならば、ずるがしこく、その前兆を知ろうとするのではなく、絶えず目を覚まして神の救いの日を待ち望みたいと思うのです。そのために祈りたいと思うのです。
「神殿は、当時のユダヤ人にとては、私たちが考える以上に大事なものであり、神殿が立派であれば神の栄光が輝いている、本当に神の宮であり、神の家だというふうに考えられていた。しかし、見える面に一生懸命になれば、見えない面において貧しくなるものです。物質というものと、精神というものは特別な関係にあるものです。なにか共存しにくい面があると思う。そこに古来から宗教家が簡素な生活をして来た理由があると思います。キリスト教には修道院があり、仏教には出家ということがあるように、人間生活を厳しくすることに努めることによって、精神的な面で豊かにされていくという関係があるように思います。
イエスは、神殿がどんなに立派であっても(私たちが住んでいる社会はどんな立派であっても)、つぶれる時があると言われた。預言者エレミヤもまた同じことを言った。すなわちエルサレムの滅亡を、またその神殿の壊滅を叫んだ。そのために彼は捕らえられ、殺されそうになった。それほどまで神殿は神聖視していた環境の中で、イエスの言動は勇気の要ることであった。事実イエスが十字架に付けられたとき、この人は「神殿を打ち壊して三日のうちに建てる」(マタイ27・40)と言ったことが訴える理由になっていた。それでは、神殿がくずされるのはいつですかと、人々は聞いた。私たちが死ぬことはわかっている。しかし私たちにその日がいつであるかは知らされていない。それは神の憐れみだと思います。(あわてる。絶望するだろうから)。それと同様に、世の終わりがあることは分かっていても、それはいつであるかはイエスは言われなかった。そこに私たちが仕方がなくしいられる信仰生活でなく、自分が信じていく、言うならば私たちが責任を持って、神の前に生きていく生活があります。いつ来るかわからない終末を、きょう終末がある、そしてきょう神の前に立つかのように生きていくところに、キリスト者の終末信仰がある。」(榎)
歴史(あるいは、人生)の中で、歴史を、なんとなく、流れに乗って生きていくのではなくて、この歴史を見据えて、神の働きの中に、恵みの働きの中に、生きる信仰者として歴史を見据え、その中に神の時の徴を見る目を与えられたいと願いながら、しかしその時の徴、具体的には地震や、戦争などが起こってくるかも知れないけれども、その先に、神がイエス・キリストにおいて約束しておられることが、神の恵みの下における世界の完成だ。破壊や、破滅ではなくて、世の終りが来て破滅するぞということではなくて、それは、まだ前の徴、前触れの徴に過ぎない。終りは、耐え忍ぶ者には、命が与えられる、命を得るということです。
人々は、神殿の外装の美しさに心を奪われ、神殿の主である神を忘れてしまっている。移り変わる世の中、あらゆる物事が崩壊していく中で、見つめるべきことは「神のはからい」なのでしょう。大切なことは、神殿が美しく飾られている栄光のとき、神殿が破壊されるとき、物事がどのように激動のうちに変化したとしても、神は常に変わることのない愛情を私たちに注いでおられます。その愛情にこそ、目をむけるようにとイエスは人々に語りかけます。パウロも「落ち着いて仕事をしなさい」と述べています。つまり、目先のことで必要以上に歓び舞い上がったり、逆に、どうにもならないと落ち込んだりするのではなく、日々の生活を心こめて、神の変わらぬいつくしみに信頼し、毎日を淡々と真心こめて生きることがキリスト者の生き方なのだと云いたいのでしょう。マラキの預言で言われているように、滅びゆく悪と罪の状態の真っ只中にあって、「義の太陽が昇ります。」神のいつくしみと公平な恵みだけが確かなものとしてこの世を照らすのです。神のいつくしみは、いつも変わることなく、あまねくあらゆる人々を照らし暖めているのです。sese07人生には苦労も多い場合があります。国、公務員にとっては、大したことでなくても庶民には響きます。世の中には一見不都合なことが多すぎます。戦争とテロ、民族間の対立、疫病と飢餓、地球上のあるところでは日常茶飯的に起こっています。これでも神さまはいるの?といいたくなります。姫路で小さな女の子が殺された。命に関わる事件ともなりますと、精神状態までもがおかしくなります。このような状況にある人に向かって、今日のイエスさまのメッセージは意義深いと思います。 現実的にこうした苦しい状況からわたしたちは逃れることはできないのです。信仰者にとっても、神の深い愛の手の中に包まれている人にとっても、幸せの崩壊、苦しみを味わう体験はいつか来るのです。どうしてでしょうか?イエスさまがそのような中での生き方をわたしたちに見せてくださったのです。真の人間の崇高さ、幸せはどこにあるのか?こうした現実の苦しみの中にあっても、神に信頼を置いて生き抜くところに、人の価値があり、それが永遠の幸せにつながるのです、と言われます。ここに、生きていることの真の意味があります、ということでしょうか。 けれども失敗したり、挑戦もしないでいてあきらめてしまうのが、また、人間です。努力しても結果はすぐに出てきませんし、話しかけても返事は返ってこないし、・・・・・。それでも行き続けることに真の幸せを見出します。実感が湧いてきません。それでも生き続けるのです。これは人間にしかできないことだから。いつも挑戦する心と姿勢をわが身に携えましょうということでしょう。 http://mr826.net/yz/seisyo_message/archives/message/2004/0404/041114/
何か災害が起こる前に、その災害から少しでも逃れたい、それに対処する用意をしたい、あるいは、せめて心の準備をしたいと思うのは当然です。大地震が日本にいつか来るということは、避けられないことです。ですから、そのために被害をできるだけ少なくするために、その大地震がくる前の前兆を知りたい、地震予知というのが、地震学の重要なテーマだろうと思います。
弟子達がこの時、聞いたというのは、やはり自分たちがいち早くその前兆を知って自分たちは逃れたいという思いがあったから、聞くことになったのではないかと思われます。 イエスはそれに対してなんと答えたでしょうか。この21章の全体は、イエスがこの世の終わりについて述べた箇所ですが、ここはどう読んでも、はっきりしないのです。終末の前兆があるのかないのか、はっきりしないのです。
人々は「先生、では、いつそんなことが起こるのでしょうか。またそんなことが起こるような場合には、どんな前兆がありますか」と問うたのです。そこからイエスの終末についての教えが始まったのです。人々がその前兆を知りたいというとき、その前兆を知って、その災害が起こる前になんとか逃れる道をみつけておきたい、その心がまえをしておきたいというところから、「先生、ではいつそんなことが起こりますか」と尋ねたのです。つまり人々がこの世の終わり、終末ということで考えていたことは、大地震が起こるとか、戦争が起こるとか、そういう人間の歴史そのものが混乱すること、あるいは、ただ人間の世界だけでなく、この宇宙全体が破壊すること、それが終末だと思っていたのです。流れ星、隕石(いんせき)が地球に落ちるとか。
終末の前兆はあるのか、というのが人々の問いでした。人々がそのように前兆を知りたがるのは、終末というものがただなにか悲惨なことが起こる日と考えているから、その悲惨さから逃れようとして、その前兆をしりたがるのです。しかし主イエスは、終末というのは、この世の滅亡のあとに本当に救いが始まる時なのだというのです。それならば、ずるがしこく、その前兆を知ろうとするのではなく、絶えず目を覚まして神の救いの日を待ち望みたいと思うのです。そのために祈りたいと思うのです。
「神殿は、当時のユダヤ人にとては、私たちが考える以上に大事なものであり、神殿が立派であれば神の栄光が輝いている、本当に神の宮であり、神の家だというふうに考えられていた。しかし、見える面に一生懸命になれば、見えない面において貧しくなるものです。物質というものと、精神というものは特別な関係にあるものです。なにか共存しにくい面があると思う。そこに古来から宗教家が簡素な生活をして来た理由があると思います。キリスト教には修道院があり、仏教には出家ということがあるように、人間生活を厳しくすることに努めることによって、精神的な面で豊かにされていくという関係があるように思います。
イエスは、神殿がどんなに立派であっても(私たちが住んでいる社会はどんな立派であっても)、つぶれる時があると言われた。預言者エレミヤもまた同じことを言った。すなわちエルサレムの滅亡を、またその神殿の壊滅を叫んだ。そのために彼は捕らえられ、殺されそうになった。それほどまで神殿は神聖視していた環境の中で、イエスの言動は勇気の要ることであった。事実イエスが十字架に付けられたとき、この人は「神殿を打ち壊して三日のうちに建てる」(マタイ27・40)と言ったことが訴える理由になっていた。それでは、神殿がくずされるのはいつですかと、人々は聞いた。私たちが死ぬことはわかっている。しかし私たちにその日がいつであるかは知らされていない。それは神の憐れみだと思います。(あわてる。絶望するだろうから)。それと同様に、世の終わりがあることは分かっていても、それはいつであるかはイエスは言われなかった。そこに私たちが仕方がなくしいられる信仰生活でなく、自分が信じていく、言うならば私たちが責任を持って、神の前に生きていく生活があります。いつ来るかわからない終末を、きょう終末がある、そしてきょう神の前に立つかのように生きていくところに、キリスト者の終末信仰がある。」(榎)
歴史(あるいは、人生)の中で、歴史を、なんとなく、流れに乗って生きていくのではなくて、この歴史を見据えて、神の働きの中に、恵みの働きの中に、生きる信仰者として歴史を見据え、その中に神の時の徴を見る目を与えられたいと願いながら、しかしその時の徴、具体的には地震や、戦争などが起こってくるかも知れないけれども、その先に、神がイエス・キリストにおいて約束しておられることが、神の恵みの下における世界の完成だ。破壊や、破滅ではなくて、世の終りが来て破滅するぞということではなくて、それは、まだ前の徴、前触れの徴に過ぎない。終りは、耐え忍ぶ者には、命が与えられる、命を得るということです。
No comments:
Post a Comment