Monday, December 12, 2011

2 per annum A

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2 per annum A

年間第2主日 Α
【ヨハ1:29-34 洗者ヨハネのあかし】

何かの集まりで、「自分を動物にたとえたら、あなたはどんな動物か。」という課題が出たことがありました。ある人は「私は何事もゆっくりだから、私はウシかな。」と言い、ある人は「私はよく気が変わるから、ネコだ。」と言っていました。私は、以前住んでいた家では自分で芝を刈っていました。上手にできませんでしたし、要領が悪いので、ガラージと庭とを行き来しながらやっていました。それで、それを見ていた隣の人から「あなたはネズミみたいだね。」と言われたことがあります。私はいろんなものを貯め込む癖がありますので、動物にたとえれば、ネズミかもしれないと、そのとき思いました。
ウォルト・デズニーがミッキー・マウスを生み出してくれたおかげでネズミに対するイメージは少しはよくなりましたが、聖書では、人間を動物にたとえる時には、あまり良いイメージはありません。
では、イエスご自身は聖書ではどんな動物にたとえられているのでしょうか。
洗礼者ヨハネとイエスの出会いを伝えるきょうの箇所も、「イエスとはどういう方か」ということをわたしたちに教え、そのイエスとの出会いにわたしたちを招いていると受け取ったらよいでしょう。
「世の罪を取り除く神の小羊」はミサの中でお馴染みの言葉ですが、分かりやすい言葉とは言えないでしょう。


見よ!
洗礼者ヨハネは、イエスさまを指して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と。  私たちは、何を見て歩んでいるでしょうか。  山登りをする人は、目の前の足もとを見て、足をかけても大丈夫な場所かどうかをしっかりと見て確認して、一歩一歩登っていきます。その時、確かに目の前の足もとを見ているのですが、心の中では頂上を見て登っています。  今、受験シーズンを迎えようとしていますが、受験生は毎日机に向かって問題集を解いたり、参考書を読んだりしています。確かに顔についている二つの目は、そのような問題集や参考書を見ているのですが、心の中では目前に迫ってきている入学試験を見ているのです。
目指しているのです。そのために、「今」、勉強をしているのです。  同じように、洗礼者ヨハネが「見よ」とイエスさまを指して言ったとき、それは単にその時、地上を歩いているイエスさまを指さして「見てご覧、あれがイエスさまだよ」と言い、見た人が「ああそうですか」と答えるような意味で「見よ」と言ったのではありません。洗礼者ヨハネが、「見よ」と言った時、それは山登りをする人が、心の中ですでに山頂を見ようとしているように、そして受験生が入学試験を目標にしているように、まさにイエスさまを見て歩め、イエスさまを見ながら歩め、イエスさまに向かって歩めと、私たちの進むべき道を示しているのです。  すなわち、私たち人間がイエスさまを見つつ歩むものであることを明らかにしているのです。

世の罪を取り除く神の小羊

続けてヨハネは言いました。「世の罪を取り除く神の小羊」と。「世の罪」とは、この世の人間の罪ということです。つまり私たちの罪ということです。それをそのイエスさまが「取り除く」という。  この「取り除く」というギリシャ語(ハイロー)には、「取り除く」の他に、「かつぐ」とか「負う」という意味があります。つまりまとめて言えば、このイエスさまが、この世の私たち人間の罪を負って下さり、私たちから取り除いて下さる方だ、ということです。  そして「小羊」です。なぜヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのか?  このことは旧約聖書を読まないと分かりません。旧約聖書では、つまり当時のユダヤ人も、神さまを礼拝する時は、エルサレムの神殿に動物のいけにえをささげて神さまを礼拝しました。その理由はおもに、そのいけにえにする動物に、自分たちの罪を代わりに負ってもらうということです。  特に「小羊」と言う場合は、出エジプトの時の過越の時の小羊の血を連想させます。また、私たちの信仰の父であるアブラハムが、我が子イサクをささげるように、神さまから命じられたときのことを思い出します。創世記22章です。 ‥‥ある日アブラハムは、神さまから、自分の愛する独り子イサクをささげるように命じられました。イサクはアブラハム夫妻が年を取ってからようやく与えられた大切な子供です。
それを祭壇で焼いて、いけにえとして献げよと言う。ずいぶんむごいことを神さまもおっしゃるものです。しかしアブラハムは、イサクを連れて、神さまの示す山に向かいました。山を登っていく途中に、イサクがお父さんであるアブラハムに尋ねました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか?」  この問いを聞いたとき、父親であるアブラハムは胸が張り裂けそうに痛んだことでしょう。アブラハムは答えました。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」  そして山を登り、神が命じられた場所に着きましたが、何事も起こらない。そこでアブラハムは、石で祭壇を造り、薪を並べ、いよいよ息子のイサクを縛って祭壇の薪の上に乗せました。そして刀を持ってイサクを斬り殺そうとした時に、天から神の御使いがアブラハムを呼びました。「その子に手を下すな」と。そして、その時、近くの木の茂みに、一匹の小羊を用意してくださったのです。そしてアブラハムは、イサクをひもとき、代わりに神の用意してくださった小羊を祭壇にささげました。‥‥イサクの代わりに、小羊がいけにえとして献げられました。  イエスさまはそのようであるということです。本当は、私たちが罪のために死ななければならない。しかしその私たちに代わって、神の御子イエスさまがいけにえとなって下さるという。神自らが備えてくださった小羊。それが十字架のイエスさまです。  洗礼者ヨハネは、イエスさまを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。すなわちそれは、「この方が、イエスさまが、私たちの罪を取り除いて負って下さる。この方によって私たちは救われる。この方を見よ、この方を見て歩め!」‥‥と語っているのです。

イエスの洗礼

父なる神と共にこの世を造られた「言」なる方イエスさま。そのイエスさまが、人となられて、あのベツレヘムの馬小屋の中にお生まれになったということを、クリスマスの時に学びました。それは神の御子が、わたしたちと全く同じ人間となられたということでした。この罪の渦巻く世の中で生き、生きるために、食べるために働き、苦労をし、そしてやがて死んでいく私たち人間と全く同じになられたということでした。  そのイエスさまが、ヨハネから洗礼を受けられた。洗礼というのは、罪を洗い清めるしるしです。だからそれは、罪汚れがあるからそれを取り除くために洗礼を受けるのであって、
罪や汚れのない方は、洗礼を受ける必要がないはずです。罪や汚れが自分の体にくっついたままでは、清い神さまの前に出て、祈り願いをすることはできない。  だとしたら、神さまご自身は、洗礼を受ける必要はないはずです。イエスさまが三位一体の神であり、神の御子であるならば、洗礼を受ける必要はない。しかしにもかかわらず、イエスさまは洗礼を受けられました。  それはまさに、私たち罪人である人間と全く同じになられたということです。父なる神と共に天にとどまっていて良い方が、この世に来られた。しかも人となって。貧しい庶民のマリアとヨセフを両親として、人間としてお生まれになった。居場所が無くて、ベツレヘムの家畜小屋の中にお生まれになった。いと高き神の御子であり、世界の創造者なる方がです。
そうする必要がなかったにもかかわらず。理由はただ一つ、私たちを愛しておられたからです。滅びるのを見るに忍びなかったのです。  そして、今、洗礼を受ける必要もないのに、洗礼を受けられた。  私たちはなぜ洗礼を受ける必要があるのでしょうか?‥‥いろいろな理由を挙げることが
できます。しかし、突き詰めて言えば、神の御子イエスさまが洗礼を受けられたからだと言うことができます。  洗礼を受けられる必要のない方が、へりくだって洗礼を受けられたのです。そして人々の罪を実際に負うために、十字架への道を歩み出されたのです。私たちもへりくだって洗礼を受けたのです。

聖霊による洗礼

イエスさまの十字架の苦しみ。それは、罪人である私たちを受け入れ、その罪を負われる苦しみです。私たちの最も深いところで、私たちとつながってくださっている苦しみです。  そして、ただ苦しみを共有してくださるというのではない。それだけなら、私たちの気持ちを分かってくださると言うだけで、有り難いことではありますが、解決にはなりません。
私たちの苦しみが、私たちの不幸が、「罪」に原因があるとしたら、その罪を共にしてくださるだけではなく、それを解決してくださる。取り去ってくださる。  それが「聖霊によって洗礼を授ける」ということです。  ヨハネの施す洗礼は、罪を洗い清めるしるしに過ぎません。それは人間の外部から体にくっついた汚れを洗い流すことはできても、人間の心の中に住みついている罪を洗い流すこと
はできません。自分でもどうすることもできないのです。  しかし聖霊なる神さまだけは、そこに手を届かせることのできる方です。このイエスさまが授ける洗礼は、私たちの中の罪を清めてくださる。そして神さまのもとに連れて行ってくださる。  ヨハネはイエスさまを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。そしてそのイエスさまを証しするために、自分は洗礼を授けていると言いました。  「見よ」!  この2008年。私たちは何を見て歩むべきでしょうか。何が待ち受けているかも分かりません。多くの課題や問題が待ち受けているかも知れません。あるいは、今なんの希望も持てないという方がおられるかも知れません。  しかしヨハネは、こちらに来られるイエスさまを指して、「見よ」と言いました。わたしたちと全く同じ人間となられ、罪人の一人となられたイエスさまは、私たちの毎日の生活の中に来てくださいます。仕事の中にもおられます。歩いている時もおられます。家事労働をしている時にもおられます。眠っている時もおられます。このイエスさまを見て、見出して歩むように聖書は私たちを招いています。  イエスを見つめて歩む。つらいことがあっても、悲しいことがあってもイエスを見つめて歩む。そして、暗闇の世界に光が差し込み、神の恵みを体験する。そのことを証しする年であるように願います。
(2008年1月6日礼拝)
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年間第二主日 A
(ヨハネ1・29-34)
「神の小羊-人類を救う偉大な方」

表面的に見れば、私たち人間は、砂粒のような小さな小さな存在です。満員電車の中で、
もみくちゃにされ、職場では組織の一員となって働く姿からは、一人ひとりのかけがえのな
い価値は伝わってまいりません。会社などでは、だれかがいなくなれば、別のだれかがその
役割を引き継いでしまっています。人間の尊厳と神秘を無視してしまっています。それが現
代社会の恐ろしさです。 しかし、信仰の光で見れば、どんな 〈生まれ〉の人間であれ、
すべての人間は、かけがえのない存在として神から生命を与えられ、その人にしかできない
固有の役割を与えられて生かされています。一人ひとりの人生の絶対的な意義を理解するた
めには、人間の常識とは異なる、神の光に照らされた量りが必要です。 きょうの福音書の洗礼者ヨハネの言葉も、そのような視点からとらえるべきことのように思えます。 ヨハネは、自分の方に近づいてこられるイエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を」と叫びます。しかし、この言葉を聞いた周りの者はびっくりしたに違いありません。イエスは、まだ、そのとき、説教や奇跡など、公の活動は何一つしておりません。全く無名の人です。人々の目にはナザレの村の平凡な男としてしか映っていなかったはずです。
しかし、ヨハネは、何の変哲もない人間としての生活の奥に、神からゆだねられた神秘が現存していることを指摘したのです。 「神の小羊」という言葉は、イザヤ書五十三章の、人々の救いのために屠所に引きずられていく小羊を思い起こさせるものです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。…屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。事実、イエスは、いけにえの小羊として、十字架の上で流された血によって、全世界の人々を救っていくのです(ヨハネ19・36)。 家柄、学歴、職歴、家族や職場での目に見える貢献度という常識的な評価基準にとどまる限り、十字架の死で終わるイエスの人生は、嫌悪すべきことであり、否定的にしか受け取れないでしょう。しかし、神の光の中で見るならば、人類を救うという偉大な力に包まれています。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」が新しい評価基準です。 
「見よ、神の小羊を」という洗礼者ヨハネの呼び掛けは、人となられたイエスの神秘だけではなく、神の手の中にある私たち一人ひとりの人生にも、深い神秘と限りない意味があることを示す、呼び掛けでもあったのです。(みことばの調べ)


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昆虫学者として有名なファーブルが、お弟子さんたちと一緒に、馬車の行き交う目抜き通りを歩いていました。するとファーブルは「今、コオロギが鳴いた」と言って、立ち止まり、コオロギを探し始めたそうです。しかし、お弟子さんたちにコオロギの鳴き声は聞こえませんでした。そもそもこんな賑やかなところで、コオロギが鳴いたとして、それが耳にとまるかどうか不思議だったのです。「先生、私たちには何も聞こえませんでした」とお弟子さんたちが言うと、ファーブルはやおらポケットからコインを取り出し、それを道端に落としました。チャリンと小さな音を立ててコインが道端に転がると、道行く人々が皆、音のする方を振り向きました。ファーブルはコインを拾い上げながら、「心に関心のあることは、どんな小さな音でも聞き逃さないのだ」と、弟子たちに語ったというのです。
これが実話なのか、それとも後代の人によって作り上げられたファーブル伝説なのか、その辺は定かではありません。けれども、コオロギの音は聞き逃しても、コインの音は聞き逃さないという人間の心理はよく分かる気がするのです。

神様は、日々、私たちにいろいろな形で、いろいろな方法で語りかけてくださっています。特に、神様はイエス・キリストを通して、《大いなる救い》(3節)を語りかけてくださった。その神様の語りかけをしっかりと聞き、心に受け止めつつ生きること、それが信仰生活だというお話しをしたのです。そうしますと、私たちに大切なことは、神様からの音ずれを、どんな小さなことでも聞き逃さない良い耳をもつということだと思うのです。良い耳というのは、ファーブルの話でも分かりますように、私たちの心の関心がどこに向かっているかということによって作られます。私たちの心が、いつも神様のことを考え、求めているならば、どんな小さな神様の語りかけをも聞き逃さない良い耳を持つことができるでありましょう。しかし、私たちの心が世の富、誉れ、力に関心を持ち、常にそれを追い求めているならば、いくら神様が語りかけてくださっても、それは自分の思いやこの世の喧噪にかき消されてしまって、何一つ聞くことができない耳になってしまうのです。神様からの音ずれを聞くことができる良い耳を持つこと、それが大事なのです。




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