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年間29主日C【やもめと裁判官の譬え】ルカ18:1ー8
「失望しないで祈るように」と、今日の福音書でイエスは希望について語っています。人生
は、希望によって支えられています。
希望の学びやとしての祈り
「失望しないで祈るように」と、今日の福音書でイエスは希望について語っています。人生
は、希望によって支えられています。
希望の学びやとしての祈り
(教皇ベネディクト16世 回勅 『希望による救い』、カトリック中央協議会訳)
32 希望を学ぶための第一の根本的な場は祈りです。だれもわたしに耳を貸さないときにも
、神はわたしに耳を傾けてくださいます。だれと話すこともできず、だれに呼びかけること
もできないときにも、わたしはいつも神に語りかけることができます。人間が希望できるこ
とを超えた必要や望みに関して、だれもわたしを助けてくれないときも、神はわたしを助け
てくださいます。わたしが徹底的な孤独のうちに追いやられても:::、もし祈るならば、わ
たしは完全に独りではありません。故グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿(一九二八-二〇〇
二年)は、十三年間投獄され、そのうち九年問は独房で過ごしました。ヴァン.トゥアン枢
機卿は『希望の祈り』という、小さいながら貴重な本を残してくださいました。獄中での十
三年間、まったく絶望的に思われる状況の中で、神に耳を傾け、神と語ることができること
が、ヴァン・トゥアン枢機卿の希望の力を強めました。この希望の力によって、ヴァン.ト
ゥアン枢機卿は、釈放後、世界中の人々に対して希望の証人となることができました。この
偉大な希望は、孤独の夜の中でも消えることがないからです。33 聖アウグスチヌスは、ヨハネの手紙一についての説教の中で、祈りと希望の密接な関係
をみごとな形で明らかにしています。聖アウグスチヌスは、祈りとは望みの実践だといいま
す。人問は偉大な存在である神ご白身のために創造されました。それは、神に満たされるた
めです。しかし、人問の心はあまりに狭く、人間が目指している偉大なものを受け入れるこ
とができません。ですから、心を広げなければなりません。「神は(ご自分のたまものを)
遅らせることによって、一わたしたちの一望みを強めます。神は望みによって魂を広げ、魂
を広げることによって一神を受け入れる一力を与えます」。アウグスチヌスは聖パウロを例
に挙げます。聖パウロは来るべきものに全身を向けるといっているからです(フィリピ3.13参照)。次い
でアウグスチヌスはたいへん美しいたとえを用いて、人問の心が広げられ、整えられる、この 過程について述べます。「神があなたを蜜[みつ](蜜は神の優しさといつくしみの象徴です
)で満たそうと望んでいると考えてください。しかし、もしあなたが酢で満たされていたら
、どこに蜜を入れることができるでしょうか」。あなたの心という器をまず大きくし、次に
清めなければなりません。すなわち、酢とその味がなくなるようにしなければなりません。
これは辛い労苦を必要とします。けれども、このようにして初めて、わたしたちは自分たち
が目指すものにふさわしいものとなることができるのです{26}。アウグスチヌスは直接には
、神を受け入れる能力についてのみ述べています。とはいえ、このことは明らかです。すな
わち、わたしたちは、酢とその味をなくす努力を通じて、神に対して開かれた者となるだけ
でなく、他の人に対しても開かれた者となります。実際わたしたちは、神の子となることに
よって初めて、共通の父をもつことができます。祈るとは、歴史を離れ、私的な空間に引き
こもり、自分の幸せを求めることではありません。祈りの正しい方法は、内的な清めを行う
ことです。内的な清めを行うことによって、わたしたちは神を受け入れることができ、そこ
から、人々をも受け入れることができるようになります。わたしたちは祈りの中で、何を本
当に神に求めることができるか、すなわち、何が神にふさわしいことかを学ばなければなり
ません。わたしたちは、他人に敵対しながら祈ることができないことを学ばなければなりま
せん。わたしたちは、今このときに欲しい、表面的な快適さを祈り求めることができないこ
とを学ばなければなりません。このような誤った小さな望みは、わたしたちを補から遠ざけ
るからです。わたしたちは自分の望みと希望を清めなければなりません。わたしたちは、自
分白身を偽るような隠れた嘘から自由にならなければなりません。神はこのような嘘を見通
されます。また、神の前に出れば、わたしたちもこの嘘を認めざるをえません。詩編作者は
祈ります。「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください」(詩編
19.13)。自分の罪を認めることができなかったり、自分が無実であると錯覚していたとし
ても、それで自分を正当化することはできませんし、それが自分を救うことはありません。
なぜなら、良心が麻痺したり、自分をありのままに認めることができないことは、わたしの
責任だからです。神が存在しなければ、わたしはこれらの嘘に逃れ場を求めなければなりま
せん。わたしをゆるすことができる者がだれもいないからです。だれも真の基準となってく
れないからです。しかし、神との出会いは、わたしの良心を呼び覚まします。こうして良心
は自分を正当化しようとしなくなります。また、良心は、自分や、自分の意見を左右する同
時代の人間の反映ではなくなります。良心は善であるかた白身に耳を傾けることのできる力
となるのです。
34 このような清めの力を深めるために、祈りはまず個人的なものとならな
ければなりません。わたしの内面と、神との、それも生きた神との出会いとならなければな
りません。同時に、教会と聖人の優れた祈り、また典礼の祈りがこの祈りをつねに導き、照
らさなければなりません。こうした祈りの中で、主は正しく祈ることを教え続けてくださる
からです。グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿は、黙想の書の中でいいます。その人生の中で
、枢機卿は長い問祈ることができませんでした。そして枢機卿は、教会の祈りのことばを唱
え続けました。すなわち、主の祈り、聖母マリアヘの祈り、典礼の祈りです(27)。祈りは
つねにこうして公的な祈りと個人的な祈りを組み合わせて行わなければなりません。このよ
うにしてわたしたちは神に語りかけることができます。また、このようにして神はわたした
ちに語りかけることができます。こうしてわたしたちは清めを行います。清めを通してわた
したちの心は神に開かれたものとなり、人々に奉仕するよう整えられます。こうしてわたし
たちは偉大な希望を受け入れることができるようになり、そこから、他の人のために希望に
奉仕する者となります。キリスト教的な意味での希望は必ず、他の人のための希望です。そ
れは生き生きとした希望です。わたしたちはこの希望によって、すべてが「誤った終わり」
に向かうことがないよう戦うからです。それは生き生きとした希望です。なぜなら、わたし
たちは世をいつまでも神に開かれたものとするからです。このようにして初めて、希望は真
の意味で人間らしいものとなることができるのです。
ければなりません。わたしの内面と、神との、それも生きた神との出会いとならなければな
りません。同時に、教会と聖人の優れた祈り、また典礼の祈りがこの祈りをつねに導き、照
らさなければなりません。こうした祈りの中で、主は正しく祈ることを教え続けてくださる
からです。グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿は、黙想の書の中でいいます。その人生の中で
、枢機卿は長い問祈ることができませんでした。そして枢機卿は、教会の祈りのことばを唱
え続けました。すなわち、主の祈り、聖母マリアヘの祈り、典礼の祈りです(27)。祈りは
つねにこうして公的な祈りと個人的な祈りを組み合わせて行わなければなりません。このよ
うにしてわたしたちは神に語りかけることができます。また、このようにして神はわたした
ちに語りかけることができます。こうしてわたしたちは清めを行います。清めを通してわた
したちの心は神に開かれたものとなり、人々に奉仕するよう整えられます。こうしてわたし
たちは偉大な希望を受け入れることができるようになり、そこから、他の人のために希望に
奉仕する者となります。キリスト教的な意味での希望は必ず、他の人のための希望です。そ
れは生き生きとした希望です。わたしたちはこの希望によって、すべてが「誤った終わり」
に向かうことがないよう戦うからです。それは生き生きとした希望です。なぜなら、わたし
たちは世をいつまでも神に開かれたものとするからです。このようにして初めて、希望は真
の意味で人間らしいものとなることができるのです。
(26) 聖アウグスティヌス『ヨハネの手紙一講解』(S. Augustinus, In Ioannis epistulam ad Parthos tractatus 4, 6: PL 35, 2008s) 参照。
(27) グェン・ヴァン・トゥアン『希望のあかし』(Nguyen Van Thuan, Testimono della speranza, Citta' Nuova 2000, 156s)。
年間 第32土曜日 「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ルカ18・1-8 私たちの現実の中で、神の言葉は必ず成就するのだと信じて、生きていくために、どうしても必要なことは祈りであ
る。祈りとは、私たちが神に求めていくものだと考えがちである。もちろんその祈りも大事
であるが、祈りの根本は、願いや求めではなく、神の言葉に従って生きていこうとする者の
、直面する困憊(こんぱい)や、不安の中から生まれる叫びだと想う。これでよいのですか
、こんなことをしていてだいじょうぶですかという叫びだと思う。パウロも次のように証言
している。「十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまい
と、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく
不安であった」(コリントI.2.2ー3)。イエスの十字架だけで生きようとしたとき、彼もまた
非常に不安を感じたのである。そのように神に信頼をおけばおくほど、私たちは不安を感じ
、その中から叫びが出てくる。私たちが信仰生活をしていくとき、不安を感じてこないのは
、神の言葉をまともに聞いていないからである。イエスの祈りはどうであったろうか。「キ
リストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあ
るかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである
」(ヘブル・5・7)とあるが、それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」-すなわち「わが神
、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ・27・46)に見られる。こ
のときだけ、ただ祈ったというのでなく叫んだと書かれてある。神に祈っているのか、人に
聞いてもらっているのか、神様感謝いたしますという最後の言葉がなければ、祈りかなにか
わからないあいさつのような祈りをする人がいます。祈りは、祈る言葉とか、祈る時が問題
ではなく、私たちが神に対してどのような生き方をしているかが問われるのである。神への
深い信頼と真実の生き方からだけ叫びの祈りは生まれてくる。(榎本)
年間 第32土曜日 「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ルカ18・1-8 私たちの現実の中で、神の言葉は必ず成就するのだと信じて、生きていくために、どうしても必要なことは祈りであ
る。祈りとは、私たちが神に求めていくものだと考えがちである。もちろんその祈りも大事
であるが、祈りの根本は、願いや求めではなく、神の言葉に従って生きていこうとする者の
、直面する困憊(こんぱい)や、不安の中から生まれる叫びだと想う。これでよいのですか
、こんなことをしていてだいじょうぶですかという叫びだと思う。パウロも次のように証言
している。「十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまい
と、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく
不安であった」(コリントI.2.2ー3)。イエスの十字架だけで生きようとしたとき、彼もまた
非常に不安を感じたのである。そのように神に信頼をおけばおくほど、私たちは不安を感じ
、その中から叫びが出てくる。私たちが信仰生活をしていくとき、不安を感じてこないのは
、神の言葉をまともに聞いていないからである。イエスの祈りはどうであったろうか。「キ
リストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあ
るかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである
」(ヘブル・5・7)とあるが、それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」-すなわち「わが神
、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ・27・46)に見られる。こ
のときだけ、ただ祈ったというのでなく叫んだと書かれてある。神に祈っているのか、人に
聞いてもらっているのか、神様感謝いたしますという最後の言葉がなければ、祈りかなにか
わからないあいさつのような祈りをする人がいます。祈りは、祈る言葉とか、祈る時が問題
ではなく、私たちが神に対してどのような生き方をしているかが問われるのである。神への
深い信頼と真実の生き方からだけ叫びの祈りは生まれてくる。(榎本)
年間 第27木曜日ルカ11・5-13
? このたとえ話は、祈りの福音書とも言われ、祈りについてもっとも多く語っているルカだ
けのものです。祈りについて大切な二点が述べられています。第一は、「根気よく」、第二
に、「心の触れ合いのもとに」、「親しさのもとに」、祈るということです。それによって
祈りは必ず聞き入れられます。ごく親しい友人同士でなければ、真夜中行ってパンを貸して
くれと言ったりはしないでしょう。神に向ける祈りの条件は、ただ長い時間をかけて願うということではなく、なによりも日頃から深い心の触れ合いのある友人同士なので、迷惑をかけても承知の上で、大胆にしつこいほど頼んでもいいということです。イエスの祈りはどうだったでしょうか。オリーブの山で
、「父よ、み旨なら、この杯を私から取り去って下さい。しかし、私の思いではなく、み心
が行われますように」といのりました。イエスの祈りは聞き入れられました。しかし、その
場ですぐに苦しみが取り除かれたのではなく、その苦しみを通して、イエスが本当に望んで
おられたことが実現したのです。私たちが人間の小さな頭で考えて望んだことよりも、もっとすばらしい方法で、私たちの望
みが実現すると保証されています。(ネメシュ)
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? 難しい現実に立ち向かおうとする時、私たちは、キリストの視点に立つことが大切です。どんなに時間がかかっても、無駄に思えてもキリストの生き方に従う力を、願い求める人々に聖霊を約束してくださった神から頂くよう祈りたい。
? -------------
「求めるものには」、「探すものには」、「門をたたく者には」ということばを、条件と受
け取ってはいないでしょうか。父である神は、無条件にわたしたちを大切にして下っていま
す。与えられないのは、見つからないのは、開かれないのはヒョッとしたら与えられている
のに気付かず、目の前にあるのに見ようとせず、開いているのに別のところをたたいている
のかもしれません。主よ、わたしの思いではなく、あなたの思いを悟らせてください。sese
け取ってはいないでしょうか。父である神は、無条件にわたしたちを大切にして下っていま
す。与えられないのは、見つからないのは、開かれないのはヒョッとしたら与えられている
のに気付かず、目の前にあるのに見ようとせず、開いているのに別のところをたたいている
のかもしれません。主よ、わたしの思いではなく、あなたの思いを悟らせてください。sese
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