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11 per annum C |
年間11主日C年【ルカ7:36-50罪深い女を赦す】
親が子供を愛していると、子供は親に反抗できる。子供は親が自分を無条件に受け入れることを知っているから、「パパ嫌い」とか平気で言えるわけ。
親は絶対に自分を捨てないという確信があれば、悪い子になれるし、反抗できる。だから親離れできる。
親が子供を充分に愛していなければ、子供は親に反抗できない。
子供は親から見捨てられると生きていけないので、親が見捨てるぞと脅せば、親の顔色を窺うようになる。
だから、親の言いつけを守る手間のかからない子になる。
この脅しが成り立つためには、親子の絆が弱い必要がある。
自分が絶対に愛されているという確信があれば、見捨てるぞと言う脅しは脅しにならないのだ。
愛情が薄いが故に、子供をコントロールできて、
子供は聞き分けの良いいい子になり、親は楽して子育てができる。
親にとってはいいことづくめに見えるかもしれないが、
親が楽をしたツケを子供が一生かけて払い続けることになる。
親子関係がすべての人間関係の基礎だから、
親の顔色をうかがって育った子供は、常に周りに気を遣う八方美人になる。
その結果、常に損な役回りを引き受けながら、ストレスをためていく。
他人の意向を優先させて生きていると、他人の要求はわかっても、
自分が何をしたいのかがわからなくなる。
他人の顔色を窺いながら育った子供たちは、成人した後も周りの顔色を敏感に察知し、摩擦回避に努める。
だから、職場や学校では潤滑油的な存在となり、周りのみんなから愛される(「嫌われない」といった方が正確)。
八方美人は、職場の同僚程度の遠目の人間関係は得意中の得意。
でも、恋人との関係や、結婚生活ではとても苦労をすることになる。
追記
親が子供を愛さないなんてちっとも珍しいことではない。
子供をちっとも愛していない親はとても多い。
愛していない親に限って、子供に恩を売る。
自分がいかに子供を愛していたかを切々と語るような親は、子供を愛していない。
そして、愛されていない子供ほど、親からの愛を疑おうとしない。
疑うと、厳しい現実に直視しないといけないから。
http://katuo.blog.so-net.ne.jp/2005-04-28
「母性的な愛と父性的な愛は子どもの成長と自立にとってその両方が必要であるが、バランスよりももっと大切なのはその順序であって、まず最初に母性的な無条件の受容が来なければならないのです。」「人を受容するためにはまず自分が受容される必要があります。」
子供たちを丸ごと受け入れてくれる祖父母の存在や近所のおじちゃんおばちゃんの存在の大切さ、地域コミュニティーの大切さについてユーモラスに語られた言葉も印象に残りました。
また、現代社会の現実にも触れられました。現代の若者たちに「あなたは自分が好きですか」と問うと即座に「自分は大嫌いです」という答えが返ってくることに言及されました。
自分をありのまま丸ごと受容されるという経験が乏しかったと思われます。あるいは、学校でのいじめを調べてみると、いじめられる子を助けようとする子どもは家庭で親との関係がしっかりしていることが多いと数字を上げて説明されました。親と子の絆の中で子どもは育
つのです。「もう遅い。失敗してしまった」と思う必要は全然ないのだとも語られました。
佐々木先生には『お母さんが好き、自分が好きと言える子に』という著作もありますが、子どもやお母さんに対するその暖かいまなざしに深く慰められ、励まされた方も多かったのではないかと思います。
私たち自身、自らの体験を振り返っても、まるごと受容されるということの大切さを知っています。母の胎内にあったときがそうでした。そこでは私たちの存在そのものがそのままで受容されていました。自分が受容されるという体験を持つ者が他者を受容してゆくことが
できるのです。逆に言えば、そのような受容体験を持たない者は他者を受容することが難しいということになります。
佐々木先生はそれ以上は語られませんでしたが、それを聞きながら私は改めて信仰を持つということの意義深さを思わされました。信仰とは、ありのままの自分がまるごと無条件に神さまに赦され受容されているということを知るということだからです。その意味でこの礼
拝や教会という場は、神の母なる愛によって受容される場であるとも言えましょう。遠くから近くから私たちが礼拝に集うのは、実はここで私たちに注がれている神さまの無条件の愛を確認し、その中で自分自身を見つめ、慰めと励まし、戒めと導き、希望と新たな力を得て
それぞれの日常生活の持ち場へと帰ってゆくためだと思います。あの十字架は神が私を受容してくださったことのしるしなのです。
< 罪の女とファリサイ人シモン >
そこから改めて福音書の日課を読み直してみたいのです。二人の人物がイエスさまの前に登場します。その一人、罪の女性は、「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とある。彼女がどのような悲しい人生を歩んできたかはそのエピソードが端的に示しています。彼女は自分の弱さと罪を知っていた。しかし人々から後ろ指をさされながらも、彼女は必死につっぱって生きていたのかもしれないとも想像します。彼女はそのような中でイエスさまと出会った。
イエスさまという方は真に不思議なお方です。イエスさまの前で私たちは身構えなくてもよい。飾らなくともよい。弱いまま、ありのままの自分でいてよいのです。彼女は自分をありのまま、丸ごと一人の大切な存在として受け止めてくださるお方と出会った。涙によって洗足し、髪の毛でそれを拭い、足に接吻するという象徴的な行為は、そのような主の、存在を受容し、赦してくださる主の愛に対する感謝の応答でもありました。
それに対し、もう一人の登場人物ファリサイ人シモンは対照的です。彼は罪の女性を受容することはできないし、彼女を受容したイエスを受容することはさらにできないでいる。それはシモン自身が自らを受容された体験を持っていなかったからだとも言えましょう。彼は
丸ごと自分の弱さや罪を無条件で赦し、受け入れてくださる神の母なる愛を知らなかった。
「受容するためには受容される必要がある」と佐々木正美先生が語られた通りです。弱い者、小さな者を受け入れてゆくためには、自らの弱さを知り、それを神さまに受け入れていただくという体験が決定的ではないかと思います。
しかし、「シモン、あなたに言いたいことがある」とイエスさまがシモンの名を呼びかけられたことには深い愛に満ちているように思います。考えてみればイエスさまはシモンの食事の招きを受け入れられた。拒絶されてはいない。シモンとのやりとりは親が子供を受容しながらきちんと言い含めるような響きを持っています。イエスさまはシモンの心の動きをご存じでした。当時のユダヤ教の社会の中で、ファリサイ人の家の食卓に一人の罪深い女性が同席するということは異様なこと、ありえないことでした。ファリサイ人は汚れたものには
近寄らないことをモットーとしていました。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」とシモンは心の中で思いましたが、それは自分の弱さ、罪深さを棚にあげた言い方です。シモンは自分の姿を知らないでいる
のです。
親が子供を愛していると、子供は親に反抗できる。子供は親が自分を無条件に受け入れることを知っているから、「パパ嫌い」とか平気で言えるわけ。
親は絶対に自分を捨てないという確信があれば、悪い子になれるし、反抗できる。だから親離れできる。
親が子供を充分に愛していなければ、子供は親に反抗できない。
子供は親から見捨てられると生きていけないので、親が見捨てるぞと脅せば、親の顔色を窺うようになる。
だから、親の言いつけを守る手間のかからない子になる。
この脅しが成り立つためには、親子の絆が弱い必要がある。
自分が絶対に愛されているという確信があれば、見捨てるぞと言う脅しは脅しにならないのだ。
愛情が薄いが故に、子供をコントロールできて、
子供は聞き分けの良いいい子になり、親は楽して子育てができる。
親にとってはいいことづくめに見えるかもしれないが、
親が楽をしたツケを子供が一生かけて払い続けることになる。
親子関係がすべての人間関係の基礎だから、
親の顔色をうかがって育った子供は、常に周りに気を遣う八方美人になる。
その結果、常に損な役回りを引き受けながら、ストレスをためていく。
他人の意向を優先させて生きていると、他人の要求はわかっても、
自分が何をしたいのかがわからなくなる。
他人の顔色を窺いながら育った子供たちは、成人した後も周りの顔色を敏感に察知し、摩擦回避に努める。
だから、職場や学校では潤滑油的な存在となり、周りのみんなから愛される(「嫌われない」といった方が正確)。
八方美人は、職場の同僚程度の遠目の人間関係は得意中の得意。
でも、恋人との関係や、結婚生活ではとても苦労をすることになる。
追記
親が子供を愛さないなんてちっとも珍しいことではない。
子供をちっとも愛していない親はとても多い。
愛していない親に限って、子供に恩を売る。
自分がいかに子供を愛していたかを切々と語るような親は、子供を愛していない。
そして、愛されていない子供ほど、親からの愛を疑おうとしない。
疑うと、厳しい現実に直視しないといけないから。
http://katuo.blog.so-net.ne.jp/2005-04-28
「母性的な愛と父性的な愛は子どもの成長と自立にとってその両方が必要であるが、バランスよりももっと大切なのはその順序であって、まず最初に母性的な無条件の受容が来なければならないのです。」「人を受容するためにはまず自分が受容される必要があります。」
子供たちを丸ごと受け入れてくれる祖父母の存在や近所のおじちゃんおばちゃんの存在の大切さ、地域コミュニティーの大切さについてユーモラスに語られた言葉も印象に残りました。
また、現代社会の現実にも触れられました。現代の若者たちに「あなたは自分が好きですか」と問うと即座に「自分は大嫌いです」という答えが返ってくることに言及されました。
自分をありのまま丸ごと受容されるという経験が乏しかったと思われます。あるいは、学校でのいじめを調べてみると、いじめられる子を助けようとする子どもは家庭で親との関係がしっかりしていることが多いと数字を上げて説明されました。親と子の絆の中で子どもは育
つのです。「もう遅い。失敗してしまった」と思う必要は全然ないのだとも語られました。
佐々木先生には『お母さんが好き、自分が好きと言える子に』という著作もありますが、子どもやお母さんに対するその暖かいまなざしに深く慰められ、励まされた方も多かったのではないかと思います。
私たち自身、自らの体験を振り返っても、まるごと受容されるということの大切さを知っています。母の胎内にあったときがそうでした。そこでは私たちの存在そのものがそのままで受容されていました。自分が受容されるという体験を持つ者が他者を受容してゆくことが
できるのです。逆に言えば、そのような受容体験を持たない者は他者を受容することが難しいということになります。
佐々木先生はそれ以上は語られませんでしたが、それを聞きながら私は改めて信仰を持つということの意義深さを思わされました。信仰とは、ありのままの自分がまるごと無条件に神さまに赦され受容されているということを知るということだからです。その意味でこの礼
拝や教会という場は、神の母なる愛によって受容される場であるとも言えましょう。遠くから近くから私たちが礼拝に集うのは、実はここで私たちに注がれている神さまの無条件の愛を確認し、その中で自分自身を見つめ、慰めと励まし、戒めと導き、希望と新たな力を得て
それぞれの日常生活の持ち場へと帰ってゆくためだと思います。あの十字架は神が私を受容してくださったことのしるしなのです。
< 罪の女とファリサイ人シモン >
そこから改めて福音書の日課を読み直してみたいのです。二人の人物がイエスさまの前に登場します。その一人、罪の女性は、「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とある。彼女がどのような悲しい人生を歩んできたかはそのエピソードが端的に示しています。彼女は自分の弱さと罪を知っていた。しかし人々から後ろ指をさされながらも、彼女は必死につっぱって生きていたのかもしれないとも想像します。彼女はそのような中でイエスさまと出会った。
イエスさまという方は真に不思議なお方です。イエスさまの前で私たちは身構えなくてもよい。飾らなくともよい。弱いまま、ありのままの自分でいてよいのです。彼女は自分をありのまま、丸ごと一人の大切な存在として受け止めてくださるお方と出会った。涙によって洗足し、髪の毛でそれを拭い、足に接吻するという象徴的な行為は、そのような主の、存在を受容し、赦してくださる主の愛に対する感謝の応答でもありました。
それに対し、もう一人の登場人物ファリサイ人シモンは対照的です。彼は罪の女性を受容することはできないし、彼女を受容したイエスを受容することはさらにできないでいる。それはシモン自身が自らを受容された体験を持っていなかったからだとも言えましょう。彼は
丸ごと自分の弱さや罪を無条件で赦し、受け入れてくださる神の母なる愛を知らなかった。
「受容するためには受容される必要がある」と佐々木正美先生が語られた通りです。弱い者、小さな者を受け入れてゆくためには、自らの弱さを知り、それを神さまに受け入れていただくという体験が決定的ではないかと思います。
しかし、「シモン、あなたに言いたいことがある」とイエスさまがシモンの名を呼びかけられたことには深い愛に満ちているように思います。考えてみればイエスさまはシモンの食事の招きを受け入れられた。拒絶されてはいない。シモンとのやりとりは親が子供を受容しながらきちんと言い含めるような響きを持っています。イエスさまはシモンの心の動きをご存じでした。当時のユダヤ教の社会の中で、ファリサイ人の家の食卓に一人の罪深い女性が同席するということは異様なこと、ありえないことでした。ファリサイ人は汚れたものには
近寄らないことをモットーとしていました。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」とシモンは心の中で思いましたが、それは自分の弱さ、罪深さを棚にあげた言い方です。シモンは自分の姿を知らないでいる
のです。
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