Saturday, June 16, 2012

30 per annum B


年間30主日 B マコ10:46ー52

あいさつ:イエスを救い主として信じることができたのは、人からは見捨てられた人、自分の弱さ、貧しさを知った人でした。ですから、私たちの弱さをみとめ、許しをねがいましょう。

 
今、園田教会の前、園田橋からおりてNTTのビルの前をイエスが歩いておられると聞いたらどうするでしょうか?何もかも置いてすぐに飛び出して、今日の福音の盲人のように、イエスに向かって自分の願いを必死で叫ぶでしょうか?
答えは、ほぼ「No.」でしょう。
まずはその人が本当にイエスなのかどうか、現代人に得意な懐疑心を持って相当に疑うでしょう。
そして、もし本当に彼であるらしいとわかっても、様々な理由で、後先考えずに公道で何かを叫ぶという「みっともない」行為を自分に許さないでしょう。人がどう思うだろうか、人生に満足していないということを人に知られたくない、急いでいらっしゃるのに私なんかのために時間を取らせるのは
申し訳ない、などなど、言い訳はいくらでも出てきます。
いえ、実はそもそも、そこまでしてイエスに叫ばずにはいられないほどの強い願いを持っていない、
あるいは自覚していないというのが正直なところかもしれません。病気や失敗や悩みなど、人の目を気にする余裕もなく自分の願いもはっきりする逆境の時ほど、かえって単純に神(イエス)に出会うチャンスになる。それは古来多くの人の体験が証明しています。

また、今日の人物の立場にたってみて、イエスが私に気づいて近づいて来て、私の目を覗き込んで限りない慈しみに満ちた声で尋ねる場面を想像してみます。「何をしてほしいのか。」
私の中にどんな感情が動くでしょう?イエスの視線にまっすぐ自分の視線を返せるでしょうか?
私がイエスに向かうことを妨げるものは何でしょう?質問には何と答えるでしょうか?
今日一日、そのイエスのまなざしと質問とともに過ごしてみることにします。
今の私の一番深い望みは一体何でしょうか。そこから私と神とのお付き合いが始まります。
信仰の大先輩である今日の盲人バルティマイの単純さ・一途(いちず)さにならって、
私もありのままの自分で単純にイエスにぶつかっていくことができますように。sese

 私たちは目が見えるものとして生活しています。そのことを疑うことはありません。しかしその前提を疑うことができると言ったら、おかしなことを言っていることになるでしょうか。
 人間が盲目であると知るのは、光があるからです。もしも光がないところで人間が生活しているなら、人間は自分が盲目であることを知らないことになります。
 ある人がトンネル工事中に事故に遭いました。トンネルから外に助け出されるまで、そのけが人は、自分は手足にけがをしているだけと思っていました。しかし救出され、外に運び出されたとき、初めて目もけがをして、失明していることに気づいたのです。
 人間が自分が盲目であると知るのは光があるから。光がないところでは自分が盲目であることさえ、分からないことになる。目が見えると思えるのは、そこに光があるからです。

 それを心の内面の問題に移し替えると、こうなります。私が罪人であると分かるのは、イエス・キリストという光に照らされるからです。もしもイエス・キリストがいなければ、自分が罪人であることにさえ気づかないと言うことが、たくさんあります。光に照らし出されて、初めて、自分が闇の中にいるということが分かるからです。カトリックにはさまざまな掟があります。これらが時に、重荷になり足枷になり、カトリックであることの不自由さを思わせることもあるかもしれません(例えば、毎週日曜日ミサに出かけなければならないこと)。しかしそれらの掟を知っていたからこそ救われ、そのために後からかぶさってくる重荷や責任から、早めに解放されると言うことも、確かにあるのです。
 自分が見えていないことにさえ気づいていない人間は哀れです。その人は、光の世界に連れ出されたときに初めて、自分の目が見えていなかったことに気づきます。同じように、自分が罪人であることにさえ気づいていない人間は哀れです。その人は、どうしようもない状況に自分が引き出され、また落ち込んだときに初めて、自分が罪を犯していたことに気づくのです。
 そこでイエス様は、ある時、ファリサイ派の人々を「盲人の道案内をする盲人だ」(マタ15:14)と言って批判したことがありました。ファリサイ派の人々は、自分が盲目であるとは思いも寄らなかった。しかしイエス様という光から見れば、ファリサイ派の人々は実は盲目だったのです。
 それに対し、第一朗読で読まれたエレミヤ。彼はイスラエルの指導者たちに見えなかったもの、神のみ旨がはっきり見えた人でした。しかし目に見えるものでも、周りが目の見えないものばかりである場合、目の見えるものというよりは、異常な人とみなされます。そのために迫害され、苦しみを体験したのです。

 闇を照らす光を、光であるがゆえに拒んでいる。そういうものになっていないでしょうか。光より闇を好む。そういう人間になっていないでしょうか。
 百聞は一見にしかずなどと言います。しかし目が見えれば、それで本当に正しいことが見えると断言できるでしょうか。物質的なものが見えること、それはもちろん大事ですが、しかし本当はそれよりはるかに大切なものがあるのです。
 「心の目が見えているのか」。それが神様から今問われています。バルティマイと同じように、私たちこそ「私は何も見えていない人間です。私を憐れんでください。私は目が見えるようになりたいのです」と、何度も何度も叫ぶべきなのです。そして眠りからさめ、光そのものである神に照らされて、立ち上がり、光の中を歩めるよう、回心の恵みを願っていきましょう。moseos

バルティマイは「行きなさい」と言われたにもかかわらず、イエスに従うことを選びました。 このバルティマイの姿は、結局のところ財産を頼りにしてイエスに従うことのできなかった金持ちの男や、誰が偉いかを論じ合っていた、名誉を求めていた弟子たちの姿とはっきりと対比されています。マルコ福音書はバルティマイの中に「十字架への道を歩むイエスに従う人」の典型的な姿を見ていると言えるでしょう。これも、我々の歩みに参考になると思います。hinto

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