Saturday, June 16, 2012
Cristo Re B
王であるキリスト B年
ヨハネ18・33b-37
教会の暦は待降節第1主日から新しい1年が始まりますので、きょうの「王であるキリストの祭日」は年間最後の主日ということになります。「王」という言葉は現代のわたしたちにとって馴染みにくい言葉ですが、この祭日のテーマは、神の国の終末的な完成を祝うことです。この日の朗読箇所は3年周期の各年でずいぶん異なっています。今年(B年)は、イエスが逮捕され、ローマ総督ピラトから尋問される場面です。
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」
イエスはこのように堂々とピラトの前で宣言されます。真理のためにいのちをかけ、真理に沿って生きる、これは私たち凡人にとっては実に難しいことです。私たちの心を動かしているのは、多くの場合、真理ではなく、別のものです。それは欲望であったり、野心であったり、快楽であったりします。
今日の福音書に登場するピラトもユダヤ人も、私たちと同じように真理とはほど遠い世界、ウソの世界を生きていることをあがかれてしまいます。イエスをピラトの前に引き渡したユダヤの祭司長、長老、律法学者たち、彼らはいのちをかけて守ろうとするものは、自分たちの勢力であり、繁栄です。そのためにどんなひどいことでもやってのけます。偽りも暴力も平気です。自分の望む目的を実現するために手段を選びません。恥ずかしいこともします。
私たち凡人がひそかに生きている偽りの姿を拡大すれば、ピラトやユダヤ人と同じ姿になると思います。祭司長、長老、律法学者たち、彼らはユダの手引きによって捕らえられたイエスを、不正な裁判にかけます。偽証人を立ててまでイエスを訴えますが、死に追いやる証拠はみつからないから、イエスの言葉じりをとらえて、冒涜罪(ぼうとくざい)として、死に値すると主張します。ここには真理はありません。自分たちの欲望や野心が原点にあって動いているわけです。そしてピラトにはローマ皇帝に対する反逆者としてイエスを訴えます。ここには抜け目のないずるさがあります。下心にねたみと野心があることをピラトから見ぬかれています。
ピラトは何度もイエスをゆるそうと、ユダヤ人たちに働きかけます。何がなんでも死に追いやろうとするユダヤ人たちは、最後に自分たちがもっとも毛嫌いしていた世界(異邦人のローマ)に自分たちが従属している事実を認めてしまいます。
「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」
皇帝、つまりこの世の権力者。神を無視した世界のシンボル。力と快楽を求めて手段を選ばない世界。それは、神から選ばれ、神に従って生きることを誇りとしてきたユダヤ人が、もっとも軽蔑していた世界です。異邦人としてさげすんだ、差別していた世界に自分たちが属しているものであることを、はからずも暴露してしまったのです。ウソを生きる、この点に関してはピラトも同じです。イエスが無罪であることを知りながら、ユダヤ人から圧力をかけられて、自分の考えのままに行動しません。
適当に黙ったり、迎合したり、じょうずに逃げたり、ずるい妥協を繰り返して生きてきたピラトは、真理から目をそらします。真理に従えば自分の地位も危うくなると感じた彼は、ウソの世界と妥協します。自分の良心の声に耳をふさぐのです。
「真理とは何か」とピラトは問いかけはします。しかしそれ以上すすみません。現実に妥協してしか生きていけないピラト、それは私たち凡人の姿でもあります。家族を食べさせて行かなければならない。そのために、小さな妥協を繰り返して、小さな偽りの世界から抜け出せないのです。
ユダヤ人もピラトも、そして私たちも、現実の生活に重きをおいているということに関してはあまり差はないのです。
真理を証しするために来られたイエスがみつめているもの、もっとも重きをおいているものは、神さまと神の世界です。そこにすべてをかけておられるのです。ウソと妥協から、人間の真の救いはありえない。このように教えてくださったイエスは、本当の意味で王様です。
彼に従えば、自由の王国にいけます。「真理はあなた方を自由にします。」という言葉があるように、イエスのみ言葉を受け止めたいと思います。そうすることによって、もうちょっとになってみたい。
(この世にはたくさんの支配者がいます。国王、大統領、総理大臣。いろいろな名で呼ばれますが。しかしこの世のことなどよりはるかに大きな宇宙万物、過去・未来をも支配する王様がいます)。
神様がいます。神様は人間やこの世のこと、過去も未来もすべて支配しています。しかし神様は目に見えません。神様の考えもはっきりとは知ることができません。そこで神様からのとっておきのプレゼントとして、神様の独り子・イエス様が、2000年前に、イスラエルという国でお生まれになりました。彼に聴けばこの世の権力を過剰に気にせずに安心して生きていけます。イエス様はこの世のどのような権力よりも強いです。
今日は、「王であるキリスト」の祭日です。典礼暦では年間の最終主日にあたり、来週から待降節に入ります。
聖イグナチオ・ロヨラは、『霊操』という祈りの指導書の中に、「二つの旗」という祈りを置いています。悪魔の頭ルシファーの陣営とイエス・キリストの陣営の二つの様子を描き、自分はどちらの旗の側に付くのかを選ぶ祈りです。
イグナチオによれば、ルシファーは、まず、この世の富で人の欲望をそそります。その結果、むなしい名誉、そして最終的には増長した高慢へと人を誘い、そこからあらゆる悪徳の道に導くのです。
一方のキリストは、ルシファーとは正反対の「戦略」を取ります。まず、人々を心の貧しさに導き、
次いで世の名誉に対して辱めやさげすみを厭わないところまで、そして最後には真の謙遜へと導き、
そこからあらゆる善徳を生じさせます。
キリスト自身が、貧しく蔑まれた謙遜な生涯を送りました。今日の福音でイエス自身が語るように、
私たちの「王」はこの世の王とは大きく異なります。
私たちはどんな王に付いて行くことを望んでいるのか、そして王は付き従う私たちに何を望んでいるのか、今日の祭日に今一度じっくりと思いを巡らせ、しっかりと心を定める機会にしたいものです。
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