Saturday, June 16, 2012

15 per annum B


年間第15主日 B年

【マルコ6:7ー13 十二人を派遣する】

ここで1週間分の重荷を下ろし、少し心を癒され、元気になって、イエス様に入っていただいて、力を回復してほしいのです。


今月の主日ミサの第一朗読は、先週がエゼキエル、今週がアモス、来週がエレミヤ、再来週がエリシャと、イエスとの関連において旧約の預言者に光が当てられていく。預言者について学ぶ時としてみるのもよいだろう。


父の家にお帰りなさい。教会は帰ってくる場所です。ここには同じひとつのこと、もっとも大切な神様のことを信じている人たちの集まりがあります。安心して、ほっとして、疲れを癒してください。


教会というのは、他のところでは絶対もらうことのできない大切なおもてなし。イエス様が語ってくれた言葉を聴き、そしてイエス様ご自身をいただきます。こんなすばらしいものをもらえる場というのは、他にはありません。ここで1週間分の重荷を下ろし、少し心を癒され、元気になって、イエス様に入っていただいて、力を回復してほしいのです。
でもまた忘れないでほしいことがあります。それは教会に帰ってきた以上、教会からまた出かけていく、遣わされていくということです。
どこに。この世に。福音を知らない場所。たくさんの迷いに満ち満ちている場所に。何を携えて。杖と履物だけ。「杖」・これから先を指し示す福音。「履物」・一歩一歩足もとを照らして、共に歩んでくださるイエス様だけ携えて。それも同じ信仰の仲間・兄弟と共に。
教会にいる間信者であるけれど、教会を出たら、もう自分が信者であることを忘れてしまう。それでは困るのです。キリスト教を人々に伝える福音宣教は司祭、修道者の仕事だからと思っているならば、それは違います。
自分はそのような器でない。とてもできないという恐れ。それに対してはっきり今日読みました。今日遣わされたアモスは、ただの家畜を飼い、イチジク桑を栽培するだけのものでした。しかしそこに主が共にいてくださって、真理の言葉を携えているから、預言者にもなったのです。神が愛する御子イエス様によって与えてくださった輝かしい恵み。それを私たちはたたえます。そしてそれを人々にもっていく。
その使命・自覚をいつも忘れないようにしましょう。私たち一人ひとりが、この世に派遣されています。たくさんの迷った人、犯罪、事件。どうして何もしないまま、今の世は間違っている、おかしいと眺めていることができるでしょう。その人たちのため、そういう迷った社会のため、私たちはたくさんのことをしなければいけません。救いの手を差し伸べないで見過ごしてしまった。そのような怠りをしないよう、せめてそのような迷える人たちを教会につれてきてほしいのです。
「人に直接会って話すことは恐ろしい。自分は機械相手のほうが得意」。そういう人も、今は簡単に自分の意見を発する場所ができました。ニュースでもやっていました。「今まで個人は、情報のただの受け手だった。しかしインターネット、特に、簡単に開けるブログは、個人を情報の発信する側に変えた」と。なんと幸いな時代でしょう。そういう機械のほうが向いている人にも、福音を宣べ伝えるチャンスが回ってきたのです。それぞれの特徴、それぞれ神様から与えられたタレントをいくらでも生かして、私たちは、いろんな形で、迷える世界に、誰もがイエス様の福音を宣教できる。そんな時代が来たのです。
司祭を目指す中高生がいます。どんなに大きな使命が自分たちに今与えられているか。そのことを決して忘れないようにしましょう。たくさん羊が迷っているのに、羊を導く飼い主がいないのです。自分はそれほどのものでないと思う時が来るかもしれません。それでも神様が用いて下さろうとしているのです。
そして洗礼を受けたばかりの人。すべて新たにされ、キリストの弟子に選ばれたのです。自分で選んだのでは、実は決してない。まさに天地が創られる前から、神様は、あなたをこの暗い世に派遣するために、あらかじめお選びになってくださっていたのです。神様が選んでくださった。だから勇気を持って、救いをもたらす福音を携えていきましょう。
そのためにも、自分自身が救われた喜び、感謝の心できらきら輝いていなければなりません。私はもうイエスによって救われたもの。何の恐れもない。怖いものもない。そうやっていつも胸を高く上げているでしょうか。失望や世の思い煩いに、下向きになってないでしょうか。ちょっと下向きな人に私は約束します。もう教会に集っている人。一人ひとりすべて救われ、永遠のいのちへの道をすでに歩んでいます。神様が必ず共にいて、私たちを導いてくださっている。教会に確実にいる神さまが約束してくださっている。そのことを伝えます。そして私たちは、その神さまからの愛を受け、その神様の愛と真理を人々に伝えるよう召されています。
迷いに入ったとき。また初めからリセットして再出発することのできるゆるしの秘跡。イエス様が本当に一緒に歩んでいるのだとしっかりと確認できる聖体の秘跡。そして病気の時には特に力を与えてくれる病者の塗油。実際にイエス様は今もこうして確実に教会で働いて下さっています。恐れることはありません。真理の言葉、救いをもたらす福音をもって、またこの1週間を歩んでいきましょう。 私たちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえながら。

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「権能をお授けになった」
イエス様は十二人を選び、彼らに「権能(Exousia, Potestas)をお授けになった」とあります。「権能」ということばは、おそらく翻訳されたときに丁寧に選ばれた言葉だと思います。「権利」、「権力」の権(この字は「はかり」「おもり」という意味)と「能力」の能。そして、この権能は、「汚れた霊に対する」ものであり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患(わずら)いをいやすため」のものです。現代風にいえば、生活、生き方、人生を変える力、よくする力。人間の生活にマイナスとなるようなものを除く力です。私たちもそうですが、実際に、キリストの弟子に出会って、人生、生き方を帰られた人は多いと言えるでしょう。ほかにも生き方を変える力はあります。例えば、お金もそうです。お金は人の生活、生き方をよくしたり、悪くしたりする。政治的な権力もそうです。あるいは暴力を使う軍隊や警察の強制力、拘束力。しかし、使徒たちに授けられた権能は違います。お金の力、政治的力は長く続かない、もろいものです。この権能は二千年近く続いているし、世界的な広がりがあります。このように考えてみると、やはりこの権能はこの世的なものではない、神からの力だということは分かります。今日はこの神の力に与かるように祈りたいと思います。

遣わされるもの。それは第一朗読のアモスのように、単なる家畜飼い、いちじく桑を栽培する(アモ7:14)普通の人間がある日、神の呼びかけに従い、神の言葉を語るようになるわけです。けっして自分の能力や才能で預言者としての務めを果たせるのではありません。むしろパンも金も持たず、迎えてくれる家で世話をされるしかない弱いものです。しかしそれでも神の力によって、悪霊を追い出し、病人を癒す、そういう働きができる者なのです。
イエス様が十字架にかかる前の、使徒たちに欠けていたのは、自分たちだけで何とでもできると思い込み、神の支え、お互いの祈りがなければ弱いという自覚がなかった点だと思います。だからこそ神の子、イエス様を見捨てる結果となりました。 逆に言えば、使徒が完全なものになるためには、自らの弱さを知り、祈りでもって支えられる必要があると本当に知ることが必要だったとも言えます。それができたとき、つまり十字架と復活を体験して、初めて使徒になったのであって、イエス様の生きている間の派遣によって、使徒としての働きが完成されたのではありません。

(1) なぜ「二人ずつ組にして」なのでしょうか? これについてはいろいろな意味が考えられます。申命記19章15節には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」という規定があります。これは裁判のときに複数の証人がいればその証言は確かであるということですが、神の国をあかしする場合も同様に考えられているのかもしれません。また、二人が一緒に旅をするならば互いに助け合うことができ、心強いことも確かです。さらに言えば、互いに助け合い、愛し合う姿をとおして神の国・神の愛を伝えることができる、と言えるかもしれません。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章35節)。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされている」(Ⅰヨハネ4章13節)。わたしたちの中でも同じことが言えるでしょうか?

イエスは弟子たちの持ち物を厳しく制限しました。食べ物、着物、袋、お金、一切の余分な所有を禁じました。ただ野獣から身を守るための杖と、蛇やさそりから足を守るためのサンダルの着用を許しました。イエスは彼に従う者たちに、天の父なる神の御配慮を信頼して、「空の鳥」や「野の花」のように生きることを求めました(マタイ6・25以下)。「空の鳥を見よ、蒔かず刈らず倉に収めず、しかるに汝らの父は、これを養いたもう」。もちろんイエスの時代と現代とは実情が違いますから、文字通りこれを実行することはできません。当時ユダヤ教徒の町ではどこでも、旅人のために食べ物や衣服の世話をする人がいました。同様にキリスト教の巡回伝道者は、どこの教会に行っても、衣・食・住の提供を受けられたはずです。社会的、文化的、宗教的相違を無視して、これをそのまま実行することはできません。しかし基本は変わりません。無所有が信仰者のあるべき姿です。「何を食べ、何を飲み、何を着ようかと明日のことを思い煩う」ことは、神を知らない人の取り越し苦労です。天の父はそれら一切のものを私たちが必要としていることを御存知なのだから、それを天の父の御配慮にゆだねて、まず何よりも神の支配と神との正しい関係を求めて、日々を平安(シャローム)のうちに過ごしなさい、とイエスは告げられます。イエスの弟子たちは、イエス御自身のように自由に生きることを求められているのです。
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0105_mark_.html

下着は二枚着てはならないとある。「二枚持っていってはならない」ではない。わたしたちは下着を二枚重ねてきることがあるだろうか。おそらくこれは野宿に対する備えであろうと思われる。野宿での寒さをしのぐために、下着を二枚重ねて着る。それほど厳しい状況の中に送り出される弟子たちだったのだが、下着を二枚着るなと言われている。それはすなわち、下着を重ねて暖かくして野宿しようと考えるよりは、だれかの家に泊めてもらうことを考えなさいということであったと思う。


イエスは宣教に出かける弟子たちに汚れた霊に対する権能を授け、何も持たないように命じて派遣します。弟子たちに優先させたことはイエスの教えを伝えに行くことだけでした。日常生活のさまざまな選択肢の中で、私たちも問われています。今、最優先されなければならないことは何か。本当に必要なことは、心が囚われるようなものを「持たない」ことでしょう。

どんな時も支えてくださる神よ、このときの弟子たちのようにあなたを全く信頼できますように。日々の生活の中で見過ごしている人々の支え、配慮に感謝することができますように。sese07

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福島原発事故調査委員会報告書に「朝河貫一」あさかわ・かんいち(1873-1948)という名前の人が出てきます。この人は福島出身の歴史学者(アメリカのイエール大学で教授となった)で、100年ほど前に、日露戦争以後に日本が進んで行く道を、正確に予測し、それに対して警鐘(ケイショウ)を鳴らした人です。

「今回の事故は、これまで何回も対策の打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局および東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為(ふさくい)、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られないまま3.11を迎えたことで発生したものであった。」(福島原発事故調査委員会報告書、2012年6月28日、11頁)

「想定できたはずの事故がなぜ起こったのか。その根本的な原因は、日本が高度成長期を遂げたころにまで遡る。政界、官界、財界が一体となり、国策として共通の目標に向かって進む中、複雑に絡まった『規制の虜(Regulatory Capture)』が生まれた。そこには、ほぼ50年にわたる一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」があった。経済成長に伴い、「自信」は次第に「おごり、慢心」に変わり始めた。」(はじめに、委員長 黒川清(きよし))

朝河貫一が、これらのことを予測し、警鐘を鳴らしていたというわけです。調べてみると、朝河は実は敬虔なクリスチャンだったのです。「東京専門学校」(現・早稲田大学)の学生だったころ、宣教師にであって、洗礼を受けたそうです。あれ以来人生の最後まで信仰を守ったのです。また、アメリカにいた時代に、太平洋戦争を避けるために、いろいろと働きかけた人でもありました。

となると、二千年前にキリストから遣わされた弟子たちは、東京に辿り着いて、現代の悪霊に対する力を発揮しているということになります。「先送り」、不作為、都合のいい判断、思い込み、おごり、慢心というのは悪霊の働きでなければ何でしょう?








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