Saturday, June 16, 2012

13 per annum B





年間13主日 B マコ5:21ー43 園田

Weblog / 2006-07-02 08:58:15

年間13主日 B

【マコ5:21ー43 】


イエス様が、死者を甦らせたことは3度あります。ナインでやもめの一人息子を(ルカ7:15)、ベタニアでマルタとマリアの兄ラザロを(ヨハ11:43;ラザロの場合は4日も墓に入り腐敗が始まっていた!)、そして今回の会堂長の12才の娘を。
 死んだ少女を取り巻く人々にイエス様は、言いました。「子供は死んだのではない。眠っているのだ」。この少女は「本当」に死んでいました。しかしイエス様は「眠っていた」と言ったのです。そして死から甦らせました。
 ここに記されたことは、間違いのない奇跡物語です。しかしまたヤイロの会堂長の少女だけでなく、すべての人に当てはまる話だと思います。
 アダムとエバの罪によって死がこの世に入り込んだと聖書は教えていますが、とにかく人間は死ぬものです。それは避けられない現実です。ところが人間の死とは、イエス様、そして神様にとって、ただ眠っているようなものに過ぎません。人間はこの世的に見て確かに必ず死ぬのです。しかしそれだけで終わることはないのです。永遠の命は待っているのであって、いつか魂・霊が体と共に起きあがり、すべての人は神の御前に立つことになるのです。
 第一朗読にあったように「神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性(つまり神)の似姿として(人間を)造られた」(知恵2:23)のですから。

 キリスト信者であることそうでない人との、一番の決定的な違いは、永遠の命を知っていると言う点です。この世のことがすべてと思えば、自分本位に、この世での幸福を最優先に求めるに違いありません。 しかし永遠の命を知れば、もっと長い目で、この世で大切とされる富や名声、成功、幸福をすら二次的なものとして、見ることができます。この世で評価されず、この世での報いが少なくても、あるいは自分の命を場合によっては差し出しても、神が喜ばれることをしたいと望むことも可能になるのです。 第二朗読で読んだような慈善の業も、この永遠の命と言うことから捉えれば、よりたやすくできる。例えば、仕事や家族を差し置いて、司祭をめざす、あるいはシスターになるのも、全然おかしいことではありません。召しだしが少なくなっている原因の一つ(最大かもしれない)として、永遠の命への信仰は弱くなったことがあげられると思います。

 洗礼を受けても、ずっと信者をやっていても、本当には信じていない人は結構いる思う。
 本当に魂が永遠にある? 本当に天国がある? 本当に体ごとの復活がある?
 これらは人間にとり、一生問いかけられる、絶えず付きまとう難問であり続けます。 私自身これらを心から信じられるようになるには、かなり時間かかりました。「疑い」から「信じる」に変わっていく。その過程は、必ずしも徐々に信じる心が深まって、立派な信者になったから。そういうものでもないと思います。むしろ普通の生活の中で、かえって信仰と関係のなさそうな出来事。それらが逆に、永遠の命を確信するようになるきっかけになることがあります。
 たとえば人の人生を変えるほど人を傷つけた体験をした人。また母親と激しく対立し、その最中、親亡くなったという人。こうした人たちとの和解は、この世ではできないことで、互いに理解し合うことはもうないのです。しかしだからこそ、いつかあの世で絶対に和解できるとの期待を強めていきます。また、いろいろな別れも体験することがあります。この世では離れてばなれに暮らすけれど、きっと天国で、近くにいられるとの期待を持っていくこともあります。
 あるいはこんなことを思う人がいるかもしれません。悲惨な犯罪や事故の被害者となって、幼い命が奪われた。あるいはまったく正しい人が、不正義によって殺された。こうした世の中の現実を見たときに、これでこの人の一生が終わってしまうはずがない。この人やその家族が報われないはずがない。そこで永遠の命を期待し、確信し、それが信仰となっていく。
 こうした体験の一つひとつ。信じて前に進むのか、信じるのをやめて後退するのか。その決断を迫られながら、永遠の命があることを要めながら、かえって永遠の命への信仰を固めるものだと思います。それは単純に信仰が深まると言うよりは、自分の弱さとか過ちとか、そう言うものがきっかけになることもあります。それでも、だからこそ、信仰が深まる。そう言うべきかもしれない。
 きっと私、私とかかわったすべての人たちが、死んで、肉体の眠りにつき、魂が浄めを受けた後、「起きなさい」という呼びかけが受けられる。その時、霊と肉が再び結びついて、皆、起きあがる。

この世で傷つけ合った人、別々に生きた人、別れた人、そういう人が再会し、互いに認め合い、和解し合い、喜び会うでしょう。きっとそんなことがあるんだろうと、確信します。「死んだのではない。ただ眠っているだけ」「起きよ」。そのことを信じ、安心し、救われるということの意味を深めたいと思います。

 それにしてもキリスト者の生き方は、いつもどこか選択を迫られつつ生きていくものです。
 たとえば娘が生き返った後、この会堂長、つまり会堂に属するユダヤ人の指導者ヤイロ(マタ9:18)の生き方はどうなったでしょうか。単純に幸福になったのでしょうか? そうではないと思います。
 もしもイエス様に従ったなら、会堂長は自分の仕事を失ったはずです。キリスト教徒はやがて、会堂から追放されるようになるのですから。(ヨハ9:22「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」。他にヨハ12:42、ヨハ16:2)。
 もしもイエス様を拒んだならば、娘を死から救われたのにと言うことで、神の厳しい裁きを受けたかも知れません。ヤイロもその娘も、深く悩んだことでしょう。
 すべていいことばかり、ということはありえないのです。 イエス様を産んだマリアは、同時に、子が十字架にかかるという悪夢を見なければならなかったのです。剣がいつも心に刺さっていました(ルカ2:35)。ヤイロの娘もヤイロも死から救われた代わりに、この世で、苦労して生きたに違いないのです。
 キリスト者は、この世で生きるので、この世の幸福を願っていいのです。しかしそんな中でも、神の意志を感じ取り、それを大切にして、生きることが必要です。そしてそのバランスの中で、生きていくのです。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_042.htm






No comments:

Post a Comment