Saturday, June 16, 2012
32 per annum B
年間第32主日 B年
マルコ12・38-44
場所は神殿の庭です。そこには13個のラッパ状の賽銭箱が置いてありました。多くの参詣者が金を投げ入れている中で、一人の貧しいやもめが、そっとレプトン銅貨2枚を投げ入れました。マルコはその金額をローマの貨幣価値に換算して、彼の福音書を読むローマ人に分かるように配慮しています。ここで「2枚」という点を注目したいと思います。この婦人は1枚を献金して、あとの1枚を生活費として残しておくことができたはずですが、彼女は2枚とも捧げてしまったのです。マルコは、「あらゆる持ち物、生活費の全部」と書いて、それを強調しています。
生活費のすべてを献金した貧しいやもめの行為については、いろいろ疑問が生じます。どうしてイエスにそれがレプトン銅貨で、その2枚が彼女の全財産だと分かったのか? すべてを献金してしまったなら、明日からの生活費をどうするのか? そのような無分別は、結局は周囲の人に迷惑をかけることにならないか? 全財産を捧げよという教えは、まさに変な宗教は進めているではないか?
財産のすべてを捧げよとは、ある宗教家が説くところです。そしてその殆んどすべては欺瞞です。寺院、会堂、教会の壮大豪華な建築に比べて、貧弱な信者の家屋を見かけることがあります。民衆の信仰心を煽り立てて、その陰で宗教家が王侯貴族のような贅沢をしています。人集めと金集めの上手な宗教家を世間も教団も崇めます。
イエスも又、神にすべてを捧げよ、と教えました。しかし同時に彼は、「やもめの家を食い尽くす」律法学者を激しく非難しました。宗教家が「神」を看板にして宗教的ビジネスに熱中することを批判しているのです。マルコの描くイエスは、お忍びの姿で人間世界を歩む神の子なのです。それでイエスにはすべてがお見通しなのです。やもめの手にある2枚のレプトン銅貨も、それが彼女の持てるすべてであることも、彼女の心にある純粋な信仰も、律法学者の偽善的な長い祈りも。宗教の専門家が神に仕えていると言いながら、その実、神を利用しているのとは正反対に、貧しいやもめが、恵みの神への感謝と信仰の喜びに満ち溢れて、持ち物すべてを捧げて、自らのすべてを神の御手に委ねている姿が、イエスには明らかに見えるのです。「幸いなるかな、霊において貧しき者、天の国はその人のものなり」(マタイ5・3)
「先ず神の国と神の義とを求めよ、さらばすべてこれらの物は、汝らに加えらるべし」(マタイ6・33) これがイエスの人生哲学なのです。先ずなによりも第一に神との関係を正しく保つこと。神の愛に満たされ、神への愛に生きること。そして生活上の思い煩いから解放されて、「空の鳥」や「野の花」のように自由に生きること。このイエスの人生哲学を学んで生きる者が、クリスチャンなのです。
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0111_mark_.html
現代においても私たちは、有り余るものだけ、自分にとって快適な生活が保たれる程度に、献げているのではないでしょうか。それも、自分の良心の平安を保つために。あるいは、お金や物を分け与えても、誰かがそばにいることを必要としている人に私の時間を、また、私自身を与えないことが多いのではないでしょうか。社会的に疎外されている人々の権利を認めても、彼らを自分の生活の中に入れようとはしていないのではないでしょうか。
「乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れたからである。」ということからしますと、連帯の根本的な態度は自分が誰かのために痛みを感じることを良しとすることです。無関心ではいられない、心からの分かち合いです。それは、相手を辱めるような援助ではありえず、対等な立場における援助です。
やもめの行いを見て、いろいろな反省をさせられます。私たちの施しの動機は何でしょうか?なぜ、イエスを信じる私たちが、もっと寛大になれないのでしょうか?イエスのまなざしを感じながら、
愛と信頼のうちに、私自身を喜んで与えていくことができますように今日一日祈りたいものです。
sese
ともかく、律法学者たちは自分は善をしている、あるいは正しいことをしている、信仰あつい人間なんだということを誇りたいのです。そのように人々からいわれたいのです。それは神様からそのように認めてもらいたいというのではなく、もっと手っ取り早く、周りの人間からそのように評価されたい、ほめられたいのです。もちろん、本当は神からほめられたいのです。しかし神からほめられるとしても、それはずっと先の話になるし、終末のことになるかもしれないし、いつになるかわからない、だからもっと手っ取り早く、今その報酬を得たいのです。死んでからほめられてもひとつもうれしくはないのです。
マタイでは、イエスはそういう偽善的な行為に走る律法学者パリサイ人に対して、彼らは「報いを受けてしまっている」というのです。つまり、彼らは神からの報いを受ける前に、人からの報いを受けてしまっているというのです。
手っ取り早くほめられたい、生きているうちに、目に見えるかたちで、自分は立派な人間なんだと人々に評価されたい、彼らはそこに生き甲斐を求めていたのであります。そのために、彼らは偽善的になるのであります。
神様を相手にしたら、そんなことは通用しないことを知っているのです。神の目はそんなに甘くないことをわれわれは知っています。ですから、もしわれわれが神の前に立つならば、われわれは偽善的になりようがないのです。すべては神に見透かされてしまうからであります。それで彼らは、いや、彼らというよりは、われわれはといったほうがいいと思いますが、われわれは神を相手にするのではなく、人を相手にする。人からほめてもらおうとするのであります。そのために見栄のために長い祈りをしたり、上座の席に座るのを好むのであります。あるいは、最初は末座に座って、人からどうぞ、あなたは上座に座ってくださいとすすめられたいのです。神様の目はごまかせないが、人の目はごまかせるとわれわれは思っているのです。つまり、偽善者というのは、神という他者の前にたっていない。信仰というのは、自分以外の他者としての神の前に立つということであります。やもめは、ただ神のみをみつめて捧げている、キリストはその姿勢に打たれたのではないかと思います。子供が病気の時には、お百度まいりしたり、(好きなものを断つ)お茶断ちをしたりして、なんとか子供の病気を治してもらおうと、神社にお参りする、お地蔵さんにお供え物をする、それと同じような気持ちではないでしょうか。彼女は貧しいなかでも神に感謝したいという気持ちだったでしょうか。神の前で、無力な人は一人もいないということです。自分は年をとって何もできない、病気で何も役に立たない、能力はないから人からあまり期待されないとか。そんな人でも持っているものを惜しみなく心から捧げれば、神はそれを喜ぶというわけです。「キリスト者とは、ただキリストだけに頼るしかない人のことだ」と言う言葉を心に受け止めておきたいと思います。
http://www.t3.rim.or.jp/~kyamada1/luke78.htm
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