Saturday, June 16, 2012

16 per annum B


年間16主日 B

【マコ6:30ー34 飼い主のいない羊のような有様】



すでに7月も半ばを過ぎ、普段なら学校に行っている子供たちも夏休みに入っています。彼らにとって夏休み心待ちにしていた楽しいものなのでしょう。しかし自分の時間を取り上げられて、その子供たちの面倒を一日中見なくてはならないお母さんたちにとっては忙しいときになるかもしれません。
 私も子供のころ、夏休みに忙しい大人たちがわざわざ時間割いて、連れて行ってくれた山や海の思い出が今でも心に残っています。そう考えると、やはり子を持つ親の心として、子供たちによい思い出を残してあげたいと言うことになって、いろいろと計画を立てることになります。
 今日の福音書では使徒たちに語られたイエスの「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言う言葉が登場します。このときイエスの弟子たちは休息を必要としていたようです。だからイエスは弟子たちに「人里離れた所へ行くように」と命じられたのです。私たちは今日の聖書箇所を通して私たちの身も心も安らぐことのできる休息はどこで見出すことができるかと言うことについて考えたいと思うのです。
旅先でイエスの弟子たちは人々の驚嘆と関心を集めることができたはずです。きっと彼らは胸を張って帰って来て、そのことをイエスに報告したのだと思います。

(3)休息の必要性

 こうなれば彼らは、この力をもっとたくさんのところで発揮したいと考えたはずです。なぜならば、人々の関心を集めることは彼らにとってたいへん心地よいものだったからです。ところが「イエス様、続けて私たちを他のところにも派遣してください」と願い出ようとする彼らを前に、イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と命じたのです。
 このときイエスは弟子たちをリゾート地や温泉ではなく「人里離れた所」へ行かせようとします。このときの弟子たちの状態から考えると、イエスが命じる休息は第一に弟子たちが人々の関心や注目から離れることを意味していたと考えてよいのではないでしょうか。確かに人々の向ける弟子たちへの関心は、彼らにとって心地良いものであったに違いありません。しかし、彼らがその関心を気にして働き続けようとするなら、彼らの生き方は大きく変わってしまいます。人の関心を集めるために、彼らはいつも人の期待を気にして、その期待に応えることに時間と労力を傾けなければならなくなるのです。
 ここでマルコは彼らイエスの弟子たちを「使徒」と言う特別な名称で呼んでいます。これは「神から遣わされた者たち」と言う意味を持った言葉です。彼らの使命は人々の関心を集めることではなく、神から与えられた使命を遂行して神の福音を伝えることにあるのです。だからこそ、彼らはこの使命を果たすために、人々の関心から離れる必要があったのです。
 第二に「人里離れた所」はイエスが祈りのためにたびたび向かわれた場所でした(マルコ1章35節など)。ですからこのイエスの命令は弟子たちに本当の休息を与えることができる方が誰であるかをも教えているのです。それは私たちの祈りの対象である神様ご自身です。この方こそ、私たちに本当の休みを与え、新たな力を与え続けてくださる方なのです。だからこそ弟子たちはこの休息を得るために「人里離れた所」に行く必要があったのです。
ところが、福音書は弟子たちがイエスの命令の通りに休息を取ることができなくなったことを続けて説明します。
イエスと弟子たちが舟に乗ったことを知った群衆たちは、彼らを先回りして、舟の行き着くはずの向こう岸に先回りしたと言うのです。この人々の熱意のためにイエスと弟子たちの休息計画は中断されたかのように見えるのです。
このとき、イエスは群衆を見て、この「飼い主のない羊のような有様」と言う言葉は旧約聖書を背景としたものだと考えられています。旧約聖書の時代、イスラエルの王は「牧者」、つまり羊の飼い主にたとえられ、イスラエルの民はその羊だと考えられていたのです。ですから、イスラエルの王の使命は神様から委ねられている民を養い、守ることにありました。ところが実際のイスラエルの王はその使命を遂行することができません。だからこそイスラエルの民は「飼い主のいない羊のような有様」になって苦しむほかなかったのです。
 旧約聖書に登場する預言者たちはそのような使命を忘れるイスラエルの王に警告を発するために神から遣わされた人々でした。その預言者の一人エレミヤは次のような神の言葉を取り次いでいます。
 
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。(23:1-2)

 このように旧約聖書は民の苦しみの原因を牧者がその使命を果たしていないためだと語るのです。イスラエルの民が安らぎを得ることができないのは、彼らを導く真の牧者が不在だからだと説明しているのです。
 ところで先ほどのエレミヤ書はイスラエルの王にくだされる神の厳しい裁きを語る一方で、神がイスラエルの民のために「真の牧者」を送ってくださると言う預言を語り続けます。
 
 「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる」(5~6節)。

 真の牧者が神様の約束の通りやって来られるとき、イスラエルの民は救いを受けて、安らかに住むことができるとエレミヤ書は語ります。そのときこそ本当の休息を受けることができるときであるとエレミヤ書は預言しているのです。
 ですからこのマルコによる福音書は「飼い主のいない羊のような有様」と言う言葉を使用することで、読者に旧約聖書の神様の約束を思い出させ、その約束の通りにこの地上に来られたイエス・キリストを指し示そうとしているのです。
 そう考えると弟子たちに「休息」を与えようとしたイエスの計画は中断されたのではなく、不思議な形で実現していることが分かるのです。つまり、福音書は彼らに本当の休息を与えることができるのは主イエスだけであると教えているのです。そして弟子たちはそのイエスを見つけ出すことによって真の休息を得ることができたのです。

(2)牧者イエスを人生の主として受け入れる

 ルカの福音書の伝える有名な「マルタとマリアの姉妹」のお話があります。マルタの名前には「女主人」と言う意味が込められている。この名前の通りマルタはこの物語の中で一家の女主人としての役目を最後まで果たそうと必死になっています。ところが、明らかにされたことは、その彼女の行動こそが彼女の心を乱し、ある意味では疲れさせる原因となっていたと言うのです。なぜなら、彼女はせっかく彼女の家に彼女の人生の「主人」となってくださるためにやってきた主イエスを受け入れず、それとは反対に依然として彼女は自分の人生の主人として立場を守り続けようとしたのです。
 この失敗はマルタに限ることでないと思うのです。私たちは私たちの人生を導く牧者としてやって来て下さったイエスを無視して、むしろ自分で自分の人生を支配し、何とかしようと努力し続けているのです。しかし、私たちは何をしなければならないかさえ本当のところ分かってはいません。これでは私たちの人生は疲れるだけではないでしょうか。だからこそどんなに肉体の休みを取ることができても、心には様々な思い煩いが存在し続け、私たちをますます疲れさせるのです。
 本当の休息を得たいならば、私たちは真の牧者であるイエスに自分の人生を委ね、その方に従って行く必要があります。そしてイエスは今でも私たちに真の休息を与えるためにこのように招かれているのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11章28~29節)。

 真の安らぎはこのイエスを自分の人生の主人として、牧者として迎える者の上に実現することを今日の聖書の箇所は私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちに真の救いと安らぎを与えるために救い主イエス・キリストを遣わしてくださってありがとうございます。私たちを捕らえてやまない思い煩いや、さまざまな出来事から私たちの心をお守りください。私たちが真の牧者であるイエスに従うことで、この人生で本当の自由を得ることが出来るようにしてください。
イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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年間第4土
マルコ6・30-34

「飼う者のない羊」という象徴は、牧畜の生活を身近に見ていた当時の人々には分かりやすいものであったろう。しかしそれだけでなく、この表現はただちに預言者エレミヤの預言を思い起こさせる。エレミヤの時、主の民イスラエルの牧者たる者が自分の利益のために民を食い物にし、牧者の使命を果たさなかったから、指導階級の人たちを痛烈に批判した。そして、終りの日には主ご自身が自分の群を捜し出し、世話をされること、具体的には「僕ダビデ」を民の牧者としてお立てになることを予言した(エゼキエル書三四章)。
イエスは現在の主の民イスラエルの状況がエゼキエルの時代と同じであることを見て、やがてエレミヤの時以上の苦難に直面しなければならない民に対して深い憐れみを持たれるのである。イエスの憐れみは、たんに彼らが病気や苦労の多い日々の生活に疲れ果てていることに対するだけのものではなく、真の牧者がいないために神の民としての真理の道に歩むことができず、祝福を失い、神の裁きの下に散らされていく者たちへの憐れみであろう。
現在、神の民の牧者をもって任(にん)じている議員や学者たちは、民に背負いきれない重荷を負わせるだけで、民の前に「神の国」の門を閉ざしている。その上、終りの日に神がその民に遣わされたまことの牧者を殺そうとしている。やがてこの民が神の裁きのもとに打ちすえられ、追われ散らされていくことは避けられないであろう。このような状況の中で、イエスの主の民に対する憐れみは、そのお心の内に熱く燃えるのである。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_034.htm#top




滋賀県の嘉田(かだ ゆきこ)知事は、大津市で中学2年生の男子生徒が自殺した問題について「私どもの力不足を大変申し訳なく思う」と陳謝しました。

また、嘉田知事は「男子生徒が自殺したあとに市長がかわり、新しい市長には引き継ぎがほとんどなく県のほうにもなかった。教育委員会の在り方にも問題があった」と述べました。
そのうえで、嘉田知事は「毎日、批判を受けていて、大津市や滋賀県には1万通を越えるコメントが届いた。この問題は根深いので、総合的な対策を考えなければ子どもたちの命は守れない。今後、知事としての責任を果たしていきたい」と述べ、再発防止に取り組む考えを強調しました。

また、奥村展三・文部科学副大臣は20日、同市などを訪れ、真相究明やいじめ対策について、「国全体にかかわること」と述べ、「学校は(情報を)囲い込んでしまいがちだ。もっと公開して理解を求める必要がある」と、市と市教委との連携の必要性を強調。、生徒の心のケアや保護者との信頼関係を再構築するよう求めた。

これに対し、越市長は「残念ながら学校、市教委の調査が不十分だった」と釈明した。

政治家も、教育関係者も、親もうろたえている様子がうかがえます。

(2012年7月21日09時11分  読売新聞)

また最近、明治学院大学でシンポジウムが行われ、児童虐待の現状に詳しいジャーナリストは、現代社会における児童虐待の現状に警鐘を鳴らした。


大人社会こそが小さな弱い命を軽んじ、むしろ滅ぼしているのではないか。羊の群れを滅ぼし散らしている牧者が、今の社会でも姿として現実のものとなっているのです。


現代社会に生きているわたしたちの多くはたぶん疲れています。31節でイエスは弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われましたが、わたしたちもこの言葉を切実に必要としているかもしれません。


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? 私たちは少なからず、この世の生活に疲れ果てています。複雑な人間関係、仕事、育児、家庭生活、社会生活などなど、身も心も疲れ果てます。そういう時、私たちはどこに安らぎを見いだすのでしょう。趣味、レジャー、パチンコ、競馬、酒、あるいは、もっともっと仕事に没頭する…。しかしおおむね、もっと疲れてしまうことが多いように思います。「私のもとに来なさい。私が休ませてあげる」とは何とすごい言葉なのでしょうか。けっして他の人間には、口にできない言葉です。疲れ果てて相談に行っても、お説教されたり、
よく聞いてもらえなかったり、変に同情されたりで、よけい疲れることがあまりにも多いからです。
私たちが疲れきった時、自分の心を本当に分かってくれる人のそばで、ゆっくりくつろぐことで十分なのです。何も話さなくても、疲れきった自分を、ありのままに受け入れてもらえる時、疲れがいやされていくのを感じます。そしてゆっくり休んだら、「さあ、がんばろう」と、自分の重荷をかつぐ気力がわくのです。
私の重荷はだれかが背負ってくれるわけではなく、私が背負わなければならないからです。
私も人の重荷を背負うことはできないのです。その人の重荷は、その人がになわなければならないものであって、人は人の重荷を身代わりになってになうことはできないからです。しかしそれぞれ自分の重荷をになう者同士として、互いに思いやることこそ大切なのです。
信仰とは本来、疲れた人に安らぎを与え、またその重荷をになう力を与えるものです。
疲れた人をよけいに疲れさせるお説教をたれたり、高飛び車にしかりつけたり、よけいなお荷物を負わせてはいけないのだと思います。イエス様はご自分を、人のために完全に御父にささげました。だからこそ、ご自分のもとに来る人に安らぎを与えられるのです。本当に、その人をその人として受け入れてくださるからです。エゴイストこそ、他の人を疲れさせるからです。
私たちはいったい人を休ませているのでしょうか、あるいは疲れさせている方でしょうか。
「重荷を背負っている者は、私のもとに来なさい」
マタイ11・28-30
神の知恵イエスは、律法の重荷のかわりに安らぎを与え、神の愛のくびきを受けるようにと呼びかけます。愛のおきては難しいものではなく(Iヨハネ5・3)、イエスのため、人々のために、労苦、疲れを受けることを、かえって誇り、慰めとさせます(Iコリント15・10、Iテサロニケ2・9)。主が力づけてからである。
主は「 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40・29-31)

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現実のことに追われ、休みなく働き、何が本当に大切かが分からなくなっている。何のために今の活動、仕事をしているのかも分からなくなっている。そして「誰も自分の立場を分かってくれない。誰にもこの苦しさは分からない」と追い詰められ、疲れ、人から愛されることを求めている。そういう人たち、とりわけ世話をする立場にある親に、教育者に、指導者に、そして教会の羊飼いに、修道者に言うのです。
「私は分かっている。だからあなたは人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」。
イエス様は迷う羊の姿を、ご自分のこととして苦しみ、憐れみ、そして語り始められました。
本当に休ませてくれるのは、イエス様のもとでしかありません。そしてイエス様のみが常に、正しく教えてくださるのです。本当の道・真理・命だからです。そして私たちはイエス様の言葉を、聖書をじっくり自分のものとして読み聞くとき、ご聖体の前でゆっくり時を過ごすとき、聞き取れるようになるのです。
現実の社会は、休む時間も奪っているのかもしれません。ましてや祈る時間はもっとも最初に削られていく時間でしょう。祈ることも、神の言葉をじっくり考えることもしなくなっていくのです。しかしそれでは、魂の抜け殻が、ただ活動をしているだけに過ぎなくなってしまうのです。
イエス様はこのような有様を見て、怒り、悲しみ、そして深く憐れまれ、言われるのです。「人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」。
「最高の休息」のとき。それはイエス様と時を過ごす時です。忙しければ忙しいほど、イエス様と時を過ごすことが必要です。きっとその時にこそ、イエス様は教え、心の平安を取り戻させてくれるはずです。そのような時間をまったく生み出す余裕がないのであれば、時間の使い方、今の生き方に何か問題があるのかもしれません。
何が本当に生きる上で大切か。現実の社会はその問いさえ出せないほど厳しいものかもしれません。しかし朝から晩まで毎日働いても、その陰で、命を大切にすることもできない子どもが育っているとしたなら、そういう社会であるなら、それこそ、恐ろしいことです。そのことに気づくためにも、何よりも優先して祈りの時を作り、神様との時を過ごすことができるよう、心がけていきましょう。

ふだん私たちは意識しておりませんが、実は私たちにとって「自分の居場所」というものはとても大切です。自分の居場所がないということで苦しんだことが誰しもあるのではないかと思われます。特に引っ越しや、卒業や入学、就職や留学、結婚や離婚、失業や再就職、定年退職などで、新しい場所に自分が移らなければならないということは私たちに大きな緊張感を与えます。それは、自分の居場所を新しく見出すことができるだろうかという不安と重なっているからでもあります。旅行などもそのような緊張感を伴いますが、やがて帰ってくるべき場所があるからこそ、安心して旅行を楽しめるのだろうと思います。

「自分の居場所」は自分にとって居心地のよい場所でもある。家庭や学校や地域や職場などにおいて、自分の居場所を見出すことができない時の苦しさ、寂しさを私たちはよく知っています。今いる場がそれほど居心地よいとは感じられないけれども、ぐっとこらえて我慢しておられる方もおられるかもしれません。

実は人生においても自分の居場所はとても重要です。自分が生きていてよかったと感じる時、生き甲斐を感じる時、私たちは私たちの人生において居場所を見つけていると言えるのではないか。逆に、自分なんかいてもいなくても同じだと感じる時、自分の居場所を見出すことができない時、また、自分の身の置き場を失った時に私たちはとても苦しく寂しい思いがいたします。


私たちは日曜日になるとこのようにミサに集ってまいります。それは私たちが主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの居場所が用意されているということを知っているからです。月曜日から土曜日までは出向していた船が日曜日には母港に戻ってきて、休息とエネルギーを供給するように、私たちはこの主日のミサに出ることを通して、キリストの私自身に対する招きの言葉を聞き、主が私を休ませてくださるために、何をなしてくださったのかということに思いを馳せるのです。

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