Friday, June 29, 2012

13 per annum B (2)


年間第13主日 B(2)

マルコ5・21-43


幸せな家庭、これはだれでもが夢み、だれもが願うものでしょう。しかし、その幸せも、自分の思うままに得られるものではありませんし、自分の望むままにいつまでも楽しめるものでもありません。不動でゆらぐことのない幸福などあるはずがありません。ちょっとしたことでゆらぐ、ささいなことから崩れていくものです。幸せな状態をいつまでも保とうとする私たちの努力と願いにもかかわらず、崩されていくものです。そのとき、わたしたちは自分の無力さを知らされます。苦しみの深い淵の中においこまれます。しかし、これはまた、恵みの時になります。表面的な生き方を反省し、真実なものに目をひらいていくためのよいチャンスともなります。
今日の福音書に登場するヤイロの話は、まさにそれを語っています。この話を通して、一度苦しみのどん底に落とされた者が、どのように真実なものに目覚め、イエスに出会っていくかを確かめることができます。
彼は会堂長であったとあります。社会的に尊敬される身分です。保証された身分と経済力に恵まれ、彼の家庭は幸せそのものであったでしょう。しかし、それも愛する娘の重い病気によって破綻していきます。娘は12歳であったとあります。かわいいさかりの時期です。「目の中にいれても痛くない」という言い方があるように、それほどかわいい娘が死ぬ危険に脅かされていくという事実によってそれまでの幸福感が、蜃気楼のように消え去っていきます。父親も母親も、なすすべのない心配と不安の中で、ただうろうろするだけであったでしょう。立派な病院は揃っている現代社会でも、医学研究は最先端をたどっている日本でも、どうしようもないケースは少ないのですが、ましてやこの時代に愛する娘のために、なんの役に立つこともできないという現実を知って、無力感にうちのめされたことでしょう。
会堂長としてのヤイロは、宗教の分野での指導者であったはずです。御坊うさんのように、死の問題にこれまでもいろいろかかわってきたことでしょうし、人々を慰め、導く立場にあって、その務めも果たしてきたことでしょう。これまで、第三者の死に対しては、冷静に客観的に受けとめられてきたでしょうが、自分が直接にかかわり、愛して北者の死の場合には、そうはいきません。
愛情のきずなにつながれていなければ、人の死は冷静に受けとることができます。しかし、愛に結ばれているときは冷静でいることはできません。愛する者の死は、残酷といってよいほど、人を痛めつけます。愛していればいるほど、死は切なく、苦しいものです。心は乱れ、愛する者を救うことのできない自分の無力感に陥ります。
愛する者を苦しみから救いたいという望み、そして愛する者と別れたくないという願い、しかも、それが自分の思うようにはならないという無力さ、ここから祈りとなっていきます。愛が真実であればあるほど、愛する者の死の危機は、人間を謙虚にします。神の前に人をひざまずかせます。自分一人の危機やゆきづまりであるならば、なんとか自分の力でのりこえようと努力できます。そしてのりこえることができないと、無力を感じても、かならずしもそれが祈りに結びつくとはかぎりません。けれど愛する者の場合には、どんな自尊心の強いひとであっても、ひざまずくものです。愛する者の救いを願って、自分の無力を認め、祈り叫びます。恥も外聞(がいぶん)も忘れて、いっさいの虚栄心もかなぐり捨てて、赤裸々な真実の姿をさらけだします。
ヤイロもそうだったでしょう。イエス様と対立するユダヤの宗教伝統を保つ自分であることも忘れ、世間体も外聞も忘れて、愛する娘の救いを願う無力なただの父親の姿をさらけだします。こうして彼は、イエス様の前にへりくだり、ひれ伏します。おそらく、彼の願いは、娘は死なないで助かることだけ求めるものであったでしょう。「おぼれるがわらをもつかむ」というような気持ちで、イエスにすがっただけのことであったでしょう。自分の利益を求めるだけの信仰だったでしょう。
しかし、イエス様hくぁ、それを高めていきます。途中で娘の死が知らされます。それはイエス様を不要にするものです。その時、イエスは「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われます。死をこえる力強さがイエスの中に現存していることをわからせます。ヤイロは、愛する娘の死という苦悩と、自分の無力感を通して、死をこえるイエスの神秘にふれていったのです。




 それにしてもキリスト者の生き方は、いつもどこか選択を迫られつつ生きていくものです。
 たとえば娘が生き返った後、この会堂長、つまり会堂に属するユダヤ人の指導者ヤイロ(マタ9:18)の生き方はどうなったでしょうか。単純に幸福になったのでしょうか? そうではないと思います。
 もしもイエス様に従ったなら、会堂長は自分の仕事を失ったはずです。キリスト教徒はやがて、会堂から追放されるようになるのですから。(ヨハ9:22「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」。他にヨハ12:42、ヨハ16:2)。
 もしもイエス様を拒んだならば、娘を死から救われたのにと言うことで、神の厳しい裁きを受けたかも知れません。ヤイロもその娘も、深く悩んだことでしょう。
 すべていいことばかり、ということはありえないのです。 イエス様を産んだマリアは、同時に、子が十字架にかかるという悪夢を見なければならなかったのです。剣がいつも心に刺さっていました(ルカ2:35)。ヤイロの娘もヤイロも死から救われた代わりに、この世で、苦労して生きたに違いないのです。
 キリスト者は、この世で生きるので、この世の幸福を願っていいのです。しかしそんな中でも、神の意志を感じ取り、それを大切にして、生きることが必要です。そしてそのバランスの中で、生きていくのです。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_042.htm

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