マルコによる福音書 4章26~34節
「自然に育つ信仰」
今日もマルコ福音書から御言葉を聴いていますが、「成長する種の譬え」と「からし種の譬え」です。イエス様は「神の国」の説明として、これらの譬えを話されました。
神の国とは、聖書では神のご支配のことを意味しています。国は「王国」という意味の言葉で、神様が王様として支配しておられる王国という意味ですが、ヘンデルのメサイアの歌詞の中に出てくる「王の王(King of kings)」が、まさに王であるイエス・キリスト、地上の諸々の王様をも支配するまことの王キリストのことで、今日の御言葉で言われている神の国の王様のことです。
そういう王様が、天地万物を支配されるのですから、私たち一人一人の心の中をも支配されます。神様のご支配には、例えば、先月から聖霊の働きということで聴いていますけど、喜びや平和ということがありました。神様がこの私の心の中を支配されれば、心の中に喜びが湧き起こって来たり、いろんな心配事があっても、平安な気持ちになったり、人と仲良くやっていこうという平和の気持ちになったりします。神様の恵みに感謝して、人にも感謝する心になる。これは反対を言うと分かりやすいと思いますが、神の霊である聖霊の反対は、悪い霊、悪霊ですが、悪霊に支配されてしまうと、何かイライラしたり、自分のことは棚に上げて人を批判してみたり、「私は絶対正しくて、あの人が間違っているんだ」と頑なな心になったりします。
けれども、神様は私たちの心の中に悪い霊がはびこるんではなく、神様のご支配が広がって行くことを願っておられます。喜びや平和の心になってもらいたい、と願っておられるのです。
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それが、今日の主イエスの譬えでは、植物の種が成長するようなものだと言われているのです。植物の種子には、種自体の中に命が宿っていて、一定の水分とか、温度とかが適度な状態になって、周囲の条件が整えば、芽を出して成長して行きます。
神様のご支配も同じようなもので、28節に「土はひとりでに実を結ばせる」とあるように、種がひとりでに芽を出して伸びて行くと言われています。
今日の題はこの部分を取って「自然に育つ信仰」としましたが、でも、よく考えてみると「自然に」というのとはちょっと違うかもしれません。「ひとりでに」ですから、種が「ひとりでに」ということでしょうが、これは自然の働きというより、神様の働きであって、神様の力でもって、神様の恵みでもって成長して行くという意味です。
心の中に喜びととか平和の気持ちが沸き起こって来るのは、ひとりでに、何か自然現象としてそうなるというより、やはり神様の働き、神様の恵みによって与えられるものです。朝、起きてみると、昨日までは雨が続いていたのに、今朝は、太陽が眩しく輝いていて、すがすがしい気持ちになった、ということがあるかと思いますが、太陽とか眩しい光とかは自然現象かもしれませんけど、その背後には神様の働きがあって、神様の恵みのおかげで、すがすがしい気持ち、「神様、新しい朝を感謝します」という喜びや感謝の気持ちに満たされるのです。
ですから、これはやはり信仰の姿と同じです。信仰も決して自然に沸き起こって来るものではないし、自分で作り出したものでもなく、神様が恵みとして与えてくださるものです。私たち自身はまことに不信仰な人間に過ぎません。なかなか信じられない、信じても信じきれない、弱い人間です。けれども、神様が私たちの心の中に信じる気持ち、信仰を起こしてくださるのです。
いろいろと嫌なことがあって、「もう駄目じゃないだろうか」と諦めかけていたときにも、聖書の御言葉を聴いて、「いや、神様が何とかしてくださるかもしれないんだから、きっと何とかしてくださるから、もう少し頑張ってみよう」と希望を起こされる。神様を信頼する信仰です。神様を頼って、神様に委ねて行く信仰。これも自分で作り出すことはできません。まして、自然にそういう気持ちになんかなりません。神様が、この信仰が私たちの心の中に広がって行くことを願って、私たちの心に働きかけてくださるので、信仰の気持ち、神様への信頼の気持ちが沸き起こってくるのです。
以上が成長する種の譬えです。
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次に、からし種の譬えですが、ここのポイントは、この種はもともと小さいのに信じられないくらい大きく成長するという点です。
あるか無いか分からないくらい小さな種です。けれども、「野菜の中でいちばん大きく成長する」とあるように、何メートルにもなるのだそうです。
このからし種は、やはり御言葉の種のことでしょう。小さな小さな種に過ぎないというのですが、御言葉の種が小さいとは、どういう意味なのでしょうか。
私たち一人一人の心の中に入るときには、小さな種ですが、心の中で大きく成長するというのですが、私たちが聖書の御言葉を受けるときの、例えば時間とか分量のことを考えてみれば分かりやすいでしょう。
分量ということでは、聖書の御言葉を一日に一体どれくらい吸収しているでしょうか。家宅で聖書を読んでも、せいぜい1章とかその半分くらい。もちろん、もっとたくさん読んでいる人もおられるでしょうけど、多くの人は、せいぜいそのくらいの分量しか読まないでしょう。その反面、例えば新聞などは、さらさらと頁をめくって読んでも、結構な分量を読んでいるのではないでしょうか。聖書のように一字一句丁寧に読んだりはしないでしょうけど、それに比べると聖書を読む分量はほんの僅かのように思われます。
あるいは、時間ということではどうでしょうか。1日24時間もありますが、聖書を開いて読む時間は、せいぜい数分とか、長くても15分とかの人が大半でしょう。
でも、今日の御言葉は、もっともっと読みなさいということではありません。10分でも15分でも聖書の御言葉を聴けば、ほんの小さな種に過ぎないけれども、御言葉の種は大きく成長して行く絶大な力を秘めていると語っています。
聖書の御言葉は、わずか1節、2節であっても、その御言葉が人生に対して及ぼす影響力は計り知れない大きなものです。1日に僅か5分や10分ならば、1日 24時間で生活している人生に占める割合は、まことに僅かなものに過ぎません。けれども、その聖書の御言葉によって私たちの人生が変えられて行ったり、若いときに接した聖書の言葉が、人生を左右する決定的にな役割を果たしていたということは、皆さんも経験されていることではないでしょうか。小さな小さな種に過ぎないのに、人生にとって絶大な影響を与える、それが神の御言葉なのです。
「聴いては忘れ、聴いては忘れで、もう何十年とミサに出席して御言葉を聴いてきた筈なんですが、ほとんど忘れてしまって、聖書の勉強はまだまだ足りません」と言う人がよくおられますが、そういう方も、神様からいただいた御言葉の種は、今すくすくと心の中で成長しつつあることを思い出してほしいです。ほんの僅かでも絶大な力を宿している、それが神の言葉、聖書の御言葉です。
なかなか成長していない、というふうに諦めてしまわないで、心の中で始まった神様のご支配が少しずつ広がって行っていることを思い出してほしいと思います。成長させてくださるのは、神様であって、私たちが作っていくものではありません。「ひとりでに実を結ぶ」とあったように、神様の力によって、神様の恵みによって、喜びとか平和とかの実を結んで行くようにされるのです。
種というか植物というか、野菜に譬えて、今日の主イエスは語っておられるのですが、しかし、野菜を育てるのはなかなか難しく、結構大変なことでもあります。イエス様の住んでおられたパレスチナ地方は、割と簡単に、種を蒔けば、それこそひとりでに育って、後は収穫のときまで黙っていても自然と成長して実がなる、そういう気候風土や農業のやり方なんだと、よく聞きますけど、それでも農家をするのはなかなか大変なことだと思います。
野菜にしても、お花にしても、種類によってやり方はいろいろあるでしょうが、水をやったり、肥料をあげたり、剪定したり、いろいろ手間隙掛けてめんどうをみてあげないと、立派なものは作れません。何もしなくても、ただ黙っていて、神様が全部やってくれるということではありません。
神の国が広がって行くために、私たちの心の中に、イライラしたり人を批判したりする心ではなく、喜びや平和の心が広がって行くために、私たちの側も、もっとお祈りに時間を割いたり、生活を整えたり、いろんな工夫や努力ももちろん必要です。野菜を育てるようなもので、工夫や努力は欠かせません。
けれども、今日の御言葉は、そういうこと全ての中にあって、成長させてくださるのは神様の力、神様の恵みです、と語っているのです。神様の力が、私たちの心の中で働いていて、今は小さくてあんまり働いてないように見えるかもしれないけれど、でも、確実に成長して行っていて、神様のご支配が広がっているのです。「聖書の知識はほんのちょっとしかないので、ちゃんとしたクリスチャンにはなれないんじゃないだろうか」と思えても、しかし、ほんの僅かな小さな御言葉の種であっても、大きく大きく成長して行くのです。
「これまで何十年と信仰生活をして来たけれど、私はまだまだ」という人も、「最近教会に通い始めたばかりで、私はまだまだ聖書のことはさっぱり分かりません」という人も、この御言葉に宿っている絶大な力を信じて、これからも主イエスを信じて、聖書の御言葉を聞き続けて行きましょう。
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〔原文〕
子日、予欲無言。子貢日、子如不言、則小子何述焉。子日天何言哉、
四時行焉、百物生焉。天何言哉。
〔読み下し〕
子日わく、予言うことなからんと欲す。子貢日く、子如し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子日わく、天何をか言うや、四時行われ、百物生ず。天何をか言うや。
〔新論語 通釈〕
孔子云う、「私は何も言いたくない」と。これを聞いた子貢は、「もし先生が何も言われなくなったら、我々門人は何を学び何を述べ伝えたら宜しいのでしょうか?」と尋ねた。孔子は、「天(神)が一体何を言うかね?何も言わずとも春夏秋冬の四季は巡り、万生万物はみな生成化育しているではないか。天は何も語りはしないではないか!」と云った。
〔解説〕
これは一体何ごとがあったのでしょうか? 前にも述べましたが、晩年の孔子学園は弟子の数三千人とも云われ、仕官を目指す全国の英才が集うエリート養成所のような観を呈していたようです。所謂、頭でっかちが一杯居た訳ですね。そういう連中が「ああでもない!こうでもない!」と人を批判しているのを見て、「何を云っていっているんだこいつらは!?」と、うんざりしたのではないでしょうか。
もしかしたら、子貢が先輩格としてその座に加わっていたのかも知れない、子貢は辛辣な人物批評をする人でしたから。「天何をか言うや!」と二度繰り返している所を見ると、子貢に何かを気付かせたかったのではないかと思われますが、一体何を気付かせたかったのでしょうか?
私達は今こうやって生きていることが余りにも当たり前過ぎて、あたかも自分の意志で生きているかのように錯覚しているけれども、実は天地宇宙の万生万物は、すべて天(神)の意志により生かされている存在であって、在らしめん成らしめんとする天の意志がなくなれば、一瞬で消滅してしまう儚い存在です。人間はミミズ一匹どころか大腸菌一つすら創れないのです。
恐らく孔子は言外に「お前達は一体何様のつもりになっているんだ!何だかんだと云う前に、自分が生かされていることに感謝しろ!今在ることに感謝しろ!!」と云いたかったのではないでしょうか。
本当に私達は、自分が生かされているということを殆ど忘れて生きている。すべては神の意志によりて生かされている存在であるということは、すべては神の子ということですね。孔子は「天何をか言うや、四時行なわれ‥‥云々」と述べ子貢に対して言外にこのことを気付かせようとしたのではないでしょうか。
当会で私が「吾言うことなからんと欲す」などと云おうものなら、みんな大喜びして「では早速宴会に入りましょう!」ってなことになるんじゃないかなあ?まあいいか!?それでも。
〔子供論語 意訳〕
孔子様が、弟子の子貢が後輩達を集めて人を批評しているのを見て、「私は君たちにはもう何も話したくない!」とおっしゃった。これを聞いた子貢はびっくりして、「先生が何もおっしゃらなかったら、私達は何を人々に伝えたら良いのでしょうか?」と質問した。これに対して孔子様は、「神様は私達に何かおっしゃるかい?何もおっしゃらなくても春夏秋冬の四季は順序良くめぐり、それに従って人も動物も植物もみな成長して行くではないか。神様が人を咎めたり謗ったり傷つけたりしたことがあるかね?みんな平等に愛し、許し、生かして下さっているではないか。他人のことをとやかく云う前に、まず自分が生かされていることに感謝しなさい!」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
解説でも述べましたが、私達は生かされていることを殆ど忘れて生きています。イスラム教徒のように一日五回アラーの神に感謝の祈りを捧げるのは無理としても、夜寝る前や三度三度の食事の時に、掌を合わせて感謝の祈りを捧げることは、神の子人間として当たり前のことではないでしょうか。困ったときの神頼みで、何かをお願いする時だけ神様にすがって後は知らん振りでは、ちょっと虫が良過ぎます。
子日、予欲無言。子貢日、子如不言、則小子何述焉。子日天何言哉、
四時行焉、百物生焉。天何言哉。
〔読み下し〕
子日わく、予言うことなからんと欲す。子貢日く、子如し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子日わく、天何をか言うや、四時行われ、百物生ず。天何をか言うや。
〔新論語 通釈〕
孔子云う、「私は何も言いたくない」と。これを聞いた子貢は、「もし先生が何も言われなくなったら、我々門人は何を学び何を述べ伝えたら宜しいのでしょうか?」と尋ねた。孔子は、「天(神)が一体何を言うかね?何も言わずとも春夏秋冬の四季は巡り、万生万物はみな生成化育しているではないか。天は何も語りはしないではないか!」と云った。
〔解説〕
これは一体何ごとがあったのでしょうか? 前にも述べましたが、晩年の孔子学園は弟子の数三千人とも云われ、仕官を目指す全国の英才が集うエリート養成所のような観を呈していたようです。所謂、頭でっかちが一杯居た訳ですね。そういう連中が「ああでもない!こうでもない!」と人を批判しているのを見て、「何を云っていっているんだこいつらは!?」と、うんざりしたのではないでしょうか。
もしかしたら、子貢が先輩格としてその座に加わっていたのかも知れない、子貢は辛辣な人物批評をする人でしたから。「天何をか言うや!」と二度繰り返している所を見ると、子貢に何かを気付かせたかったのではないかと思われますが、一体何を気付かせたかったのでしょうか?
私達は今こうやって生きていることが余りにも当たり前過ぎて、あたかも自分の意志で生きているかのように錯覚しているけれども、実は天地宇宙の万生万物は、すべて天(神)の意志により生かされている存在であって、在らしめん成らしめんとする天の意志がなくなれば、一瞬で消滅してしまう儚い存在です。人間はミミズ一匹どころか大腸菌一つすら創れないのです。
恐らく孔子は言外に「お前達は一体何様のつもりになっているんだ!何だかんだと云う前に、自分が生かされていることに感謝しろ!今在ることに感謝しろ!!」と云いたかったのではないでしょうか。
本当に私達は、自分が生かされているということを殆ど忘れて生きている。すべては神の意志によりて生かされている存在であるということは、すべては神の子ということですね。孔子は「天何をか言うや、四時行なわれ‥‥云々」と述べ子貢に対して言外にこのことを気付かせようとしたのではないでしょうか。
当会で私が「吾言うことなからんと欲す」などと云おうものなら、みんな大喜びして「では早速宴会に入りましょう!」ってなことになるんじゃないかなあ?まあいいか!?それでも。
〔子供論語 意訳〕
孔子様が、弟子の子貢が後輩達を集めて人を批評しているのを見て、「私は君たちにはもう何も話したくない!」とおっしゃった。これを聞いた子貢はびっくりして、「先生が何もおっしゃらなかったら、私達は何を人々に伝えたら良いのでしょうか?」と質問した。これに対して孔子様は、「神様は私達に何かおっしゃるかい?何もおっしゃらなくても春夏秋冬の四季は順序良くめぐり、それに従って人も動物も植物もみな成長して行くではないか。神様が人を咎めたり謗ったり傷つけたりしたことがあるかね?みんな平等に愛し、許し、生かして下さっているではないか。他人のことをとやかく云う前に、まず自分が生かされていることに感謝しなさい!」とおっしゃった。
〔親御さんへ〕
解説でも述べましたが、私達は生かされていることを殆ど忘れて生きています。イスラム教徒のように一日五回アラーの神に感謝の祈りを捧げるのは無理としても、夜寝る前や三度三度の食事の時に、掌を合わせて感謝の祈りを捧げることは、神の子人間として当たり前のことではないでしょうか。困ったときの神頼みで、何かをお願いする時だけ神様にすがって後は知らん振りでは、ちょっと虫が良過ぎます。
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