Saturday, June 16, 2012
14 per annum B
年間14主日 B
【マコ6:1ー6 ナザレで受け入れられない】
あいさつ
皆さん、先週は娘を蘇らせてもらったヤイロとか、イエスの服に触れた女、つまり自然にイエスを信じて癒された人々について黙想しました。今週は、それに打って変わってイエス様のことを信じない、あるいは信じにくい人々が登場します。私たちはどちらのカテゴリーに属しているでしょうか。おそらく両方でしょう。ですから、きょうは注意深くみことばに耳を傾けて、信じる喜びと信じる難しさについて考えていきましょう。
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今日の箇所から、イエス様は、まったく普通の赤ん坊として生まれ、育ったのだと分かります。もしも神の子イエス様が、どこか普通の子と違う赤ん坊として、子どもとして育ったのなら、こんなことにはならなかったでしょう。「前から、あのヨセフの子は、すごいよ。早くからしゃべれる、何か人の心を見通せる力があるようだ、子どもなのに大人顔負けの知恵を持っている。未来をどうも予知できるようだ」。そんな噂など一度もたったことがなかった。同じように泣き、むずがり、病気にかかり、親がいなければすぐに死んでしまう。そんなちっぽけな赤ん坊として生まれ、まったく普通の貧しいヨセフとマリアの子。大工仕事を手伝うただの当たり前の子どもだったのです。
そんなイエスがいつの間にか、イスラエルの国中で騒ぎを起こしていると、その評判が逆に伝わってくる。
そこでイエスの故郷の人は、その知恵と奇跡に驚く。「これはすごい」。神殿で律法の勉強していない、医学を学んだ訳でもない。だからこそ神の力によって、それらの業を行っている!……
残念ながらそうは思いませでした。「あれはただの大工の子。親も親戚もみんなよく知っている。なんかごまかしでもしてるのではないか」。
身近な人々に対しての宣教。神父にとって一番いやなことは、家族がいる前で説教することかもしれません。何しろ自分のすべて、あらゆる欠点、すべて人の知らない裏を知っているのですから。
そういう感覚をナザレの人(せいぜい人口120-130人の村です)、はもっていたでしょうし、さらに加えて、当時の考えとして、メシアが、よく知られた家から、赤ん坊として生まれる。そんなものではありえませんでした。それこそ突然、力あるものとして、よに不思議に現れる。そのようなものでした。また、多くの預言者の運命を知っていたため(実際赤ん坊イエス様の巻き添えで、何人もの幼い赤ん坊が殺されたのですから)、そうしたことになっては大変という気持ちもあったかもしれません。何しろ彼らの考えでは、イエスがメシアなどではありえないと十分に分かっていました。あるいはいつの間にか、名声を得て、弟子を従えている、そんなことへの嫉妬もあったかもしれません。
そんないろんな思いのためイエス様は奇跡を起こしたくても、何もできないことになってしまいました。
年間第4水
マルコ6・1-6
私たちは誰でも、他人(ひと)から誤解されると苦しみ、悩み、傷つきます。そして何とかして正しく理解されたいと努めます。しかし福音書を見ると、イエスほど人々によって誤解された人はいないのではないか、と思うほどです。イエスの生涯は悲劇的です。ローマの支配者からも、エルサレムの権力者からも、ガリラヤの民衆からも、故郷のナザレの人々からも、愛する家族からも、そして親しい弟子たちからも、誤解されていて、その誤解が解かれないまま、イエスは十字架上で死ぬのです。そして現在も、イエスは世間の人々からばかりでなく、キリスト信者や聖職者からも、誤解されているのです。(ですから教会のシンボルである十字架は、イエスに対する人間の誤解、盲目を表わしていると言えます。)
誤解の原因はどこにあったとかいうと、それは先入観でした。虚心になってイエスの語る言葉に耳を傾けるのではなく、自分達がイエスのすべてを知っていると過信している点にありました。故郷の人々の驚きから考えると、イエスは決して神童(しんどう)、天才児の誉が高かったわけではなく、平凡で静かな人間として彼らの間で30歳位まで生きていました。イエスが急に変わったのはやはり、洗礼からでしょう。その時に神の呼び声を聞き、召命を受け、聖霊の力に満たされて福音を語りはじめ、奇跡の業を行なうようになりました。故郷の人々は当然その変化の原因を知りませんでした。そこに問題があります。
私たちは世間の常識(コモンセンス)に従って物事を判断するのですが、それを絶対化しないで、10パーセント位は、神様が介入されて御業を行なって下さると考える余地を残しておかないと同じ過ちになります。それは信仰の知恵です。これは親子の関係、夫婦の関係、友人の関係、共同体にとって大切なことです。ナザレの人々の場合、イエスに変化が起きたのは、もしかすると神の御業ではないか、と考える余地があったら、イエスを預言者として受け入れることができたでしょう。彼らがつまずいたのは、イエスの語る言葉よりも、イエスとの肉の関係にこだわったからでした。
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0105_mark_.html
主よ、今、私が出会っている人に素直な心で向き合うことができますように。過去の出来事や人々の思いに振り回されず、憶測、推測で判断することなく、今をありのままに見る知恵と勇気を与えてください。あなたに耳を傾け、良い気づきをいただきながら成長することができますように。sese07
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「神は未来をみる。しかし人間は過去をみる」。今日の福音で言われているひとつのことです。
過去にこだわって非難される。それはイエス様の弟子たちも浴びせ続けられたことです。自分たちを支配しているローマの手先の税吏だった、罪人だった、漁師の出に過ぎない、いい学校を出ていない。
しかしそれがイエス様の選びの不思議でもありました。けっして、神殿で立派な教育を受けた、地位のある人たち、すでに十分品行方正(ひんこうほうせい)と尊敬されている人の中からは、けっして自分の弟子を選ばなかったのです。ある弟子は激しやすく、ある弟子は野心に固まりイエス王国の大臣になりたいと望んでいました。そして、残念なことに、裏切り者になる弱さを含んだ人間もいたのです。
神の選びは人間の選びと違います。「人間は過去をみるが、神は未来をみる」。
アルコール中毒からようやく脱した人がこう言いました。「私はアルコールで皆にはかり知ることのできない迷惑をかけました。私に残されたのは償いの人生だけです。でも、神様はこんな私にたった一つ宝を下さいました。それは私がアルコール依存症だったことです」。もちろん過去はその人にとって、大切なことで、輝きにもなります。彼は自分が依存症に陥ったからこそ、同じ病気で苦しむ人のため、働き、希望を与えることができるのです。そのような同じ痛みを持った人が同じ痛みを持った人を助ける自助組織、たとえば犯罪被害者の会もそうですが、そういう組織がたくさんできて、多くの人の支えとして働いています。
これが第二朗読の「弱さの中でこそ、力が十分に発揮される」(IIコリ12:9)ことの意味でしょう。過去のことはすべて宝です。それこそがその人の人生の今を輝かしくもするのです。ただそれはその人の「今の強さで、自らの傲慢を常に正し、思い上がりを防いでくれる」ものだが、「かつての弱さであり、ある人には躓きになり、サタンから送られた使いにもなる」と、よく知っていると思います。
パウロの場合、それはかつてキリスト者を迫害したことがそうでしょう。あのパウロがキリスト者の群れに加わった。それは励ましになったでしょう。しかしパウロが活躍すればするほど、「昔はキリスト者を迫害していたんだよ」とそれが躓きを与えたのも、間違いないと思います。パウロにとってそれがとげの一つだったことは確かでしょう。しかしそれはパウロを飛躍させました。自分が最初の助祭ステファノの石殺しに加わってしまった。それならばステファノの分も自分は福音を宣教しよう。そんな気持ちを私は感じます。
ペトロの裏切りも聖書で記されるほどに有名な話でした。しかしその人間的な弱さをかえって原動力として、ペトロは誠実に、初代教皇としての勤めを、果たして行ったのです。
誰にもその人にとっての弱さ、いわば故郷というものがあります。しかしその弱さを自覚しつつ、傲慢にならずに、今を生きることがキリスト者のつとめです。どんな過ちがあり、悲しみがあり、弱さがあろうと、もう大丈夫。ちっぽけでも大丈夫。神様はすべて弱いものを、かえって良いことのために用いてくださいます。弱さ、失敗をかえって自分の強さとして生きましょう。いっさい過去を問わない神様の憐れみに感謝しましょう。またいつも自分の弱さ、故郷を忘れない気持ちも持ちながら、この1週間をまた共に歩んでいきましょう。
霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた
(エゼキエル2・2より)
預言者エゼキエル
ステンドグラス
パリ サント・シャペル教会 13世紀
きょうの第一朗読(エゼキエル2・2-5)にちなんで、エゼキエルの召命を主題としたステンド・グランスを掲げた。サント・シャペル教会は12世紀半ば、聖人として敬われるフランス王ルイ9世がパリのシテ島に建てさせた王宮付属礼拝堂。コンスタンティノポリスでビザンティン皇帝から購入したキリストの「茨の冠」や十字架の断片などを納めるために建設したもので、王宮につながる王族用の上堂と一般者用の下堂から成る。上堂には高さ15mに達する窓が15面あり、千百余りのキリスト生涯図や旧約聖書の場面を描くステンド・グラスで飾られている(1245-48年制作)。
この場面は、きょうの第一朗読を含むエゼキエル書1~3章を踏まえている。神の働きかけを意味する「右手」から巻物がエゼキエルの口に向かって差し出されている。これは直接には3章1-3節に基づく。「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」(3・1)。きょうの朗読箇所にあるイスラエルの民への預言者としての派遣を告げる内容だが、「巻物を食べる」というイメージで語っているところが面白い。これが絵画的想像を支えている。(向かって)右側に描かれているのは1章5-14節に出てくる四つの生き物。「それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた」(1・6)。四つの顔とは人間、獅子、牛、鷲(1・10参照)の顔で、それぞれが巧みに重なって描かれている。この不思議な生き物の形象は、古代バビロニアの神殿の守護神が四つの顔を持っていたことに源流がある。「四」は神の全体性を象徴するという(フランシスコ会訳聖書注より)。このような生き物によって、それらの上の玉座に現れる神の全能と栄光(1・22-28参照)が強調される。人間、獅子、牛、鷲は美術史においては四福音記者を表す象徴となっていくものである(順にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)。その連想をもって眺めるとき、このエゼキエルの姿のうちにイエス・キリストの姿が見えてくるのである。
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