Saturday, June 16, 2012
8 per annum B
年間B 第8主日
マルコ2:18-22
イエスの時代には、信仰熱心な人は週に二度、月曜日と木曜日に断食をしていました(ルカ18・12)。その他に災難の時や、悲しみの日に人々は断食をしました。現代でも、災難で死者がでると、私たちは一分間の黙祷をすることがあります。けれども本当にその人たちの死を悼むのであれば、一分ではなく、一日でも、あらゆる娯楽を慎しんで、祈りと断食をしたらよいと思います。一分だけでは、ちょっと偽善者のように見えるかもしれない。
「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか?」 以前、私も不思議に思ったことがあります。他の宗教では断食したり、徹夜の祈りをしたり、滝に打たれたり、火渡りをしたり、信仰の修練としていろいろやっているのに、キリスト教は何もしなくてもよいのか、と。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客たちは断食できるだろうか?」これが福音の解答です。「婚礼の客」とは、花婿の親友たちです。結婚式(神の国の到来)を前にして、花婿なるイエスに、取税人や罪人たちが花婿の親友として招待されているのです。世間的にみればこれは奇妙な仲間です。しかしこれがイエスの宗教なのです。今日の第一朗読にあるように、神とイスラエルの民とが恋人の愛、夫婦の愛で結ばれるということが、イスラエル宗教の理想的な在り方でした(イザヤ54・5、エレミヤ2・2、ホセア2・16)。イエスは、彼と弟子たちとの関係において、その理想を現実にしているのです。婚礼の席に、悲しみの徴である断食は合わないのです。
織りたての布というのは、まだ洗っていないために、縮みもなく、洗ったあとの布地のように密になっていません。それでこのような織りたての布を古い服に継ぎあてると、洗濯の後、織りたての布切れの縮みが大きくて、弱くなっている古い服を引き裂いてしまう。こうしてもっと悪い状態になると言うわけです。また新しいぶどう酒は十分発酵しきっておらず、発酵を終えていません。そこで新しいぶどう酒は、古い革袋に入れると、発酵の力によって、固くなって伸縮性の少ない古い革袋を破ってしまう。こうしてぶどう酒も革袋も駄目になる。だから新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならないと言うわけです。
ちなみに、この二つのたとえは、イエス御自身が生活者であり、庶民の実生活に明るい人だったことをよく示しています。
断食問題は小さい問題ですが、その意味するところは大きいのです。イエスの新しい福音は、古いユダヤ教とは全く異質なものであり、古い宗教の破れの継ぎ当てになるようなものではありません。断食、祈り、施しなどの、人間の苦行や善行を積み上げて神の義を勝ち取るものではなく、神の義は、イエスに結び付くことによって神の恵みの賜物として無償で与えられるものなのです。しかも、それにはいかなる差別もありません。ユダヤ人と異邦人、ファリサイ人と罪人、金持と貧乏人、男と女…。キリストの福音はユダヤ教の手直しではなく、仏教の手直しでもなく、日本の伝統的な宗教への継ぎ当てでもなく、「虐げられている人々」の解放運動(Liberation、Emancipation)という政治的プログラムへの付足しでもなく、全く新しいものなのです。
断食には、身を清め、精神の働きを鋭くする力があることは本当です。しかし、それにこだわって断食や苦行によらないと神に近づけないと思い込んでしまうなら、大変なあやまちをおかすことになります。断食や苦行をすれば・・・という思いは、やがて自分の力で神に近づけるという錯覚へと陥っていきます。そして、神と私たち人間には、無限のへだたりがあり、本質的な差があるということを見失ってしまいます。どんなに人間が努力したところで、神に出会う権利を得ることはできないという根本的な真理を忘れてしまうことになります。神との出会いは、あくまでも恵みです。神からの一方的な愛によるものです。苦行や断食の有無などに関係のないものです。断食をはじめとするさまざまな修行の具体的な形を教えにならなかったイエスは、他の宗教と比べると、めずらしい存在といえるかもしれません。ユダヤ教だけでなく、どの宗教にも必ずといってよいほど、修行や苦行に関する詳しい規定があります。
「断食がない」という批判に対して、イエズスはこう答えます。
「花婿とともにいるあいだ、その仲間が断食できようか」
「新しいぷどう酒は、新しい皮袋に」
このことばの中に、イエスの世界の本質があります。イエズスの宗教が他の宗教と根本的にちがうところを示しています。「花婿」「新しいぷどう酒」これは、よろこびと祝福のシンボルです。旧約聖書を読むとわかりますが、神とイスラエルは、花婿、花嫁の関係でとらえられています。しかし、その関係は、人びとの罪によって壊されてしまいました。自分の欲望のままに、神を無視して、身勝手にふるまった人びとの生活は、やがてよろこびを失ったみじめな状態になります。当然、人びとは、自分たちの失った恵みと祝福を、自分たちの力でとりもどすことができません。
それは絶対不可能なことです。たとえ、どんな苦行をし、断食をしてもできないのです。祝福は、神の手から、無償で与えられるものなのです。そうです。ここで、「花婿」「新しいぷどう酒」という表現をもって、キリストは、救いが神の一方的な恵み、イニシアティブによるものであることを示そうとされたのです。人間の功徳や苦行によるものではなく、神のあわれみとゆるしによる恵みであり、それをわたしたちに与えてくださったのが、じつにキリストそのかたなのです。ですから、この「新しいぷどう酒」には、新しい皮袋がふさわしいのです。「新しい皮袋」それは、新しい恵みを受けとる人間の姿勢です。苦行や断食ではなく、自分の無を自覚した謙虚さとあわれみに対する信頼、これこそ新しいぷどう酒に対する、新しい皮袋なのです。
イエスの教えはそれまでの常識をうちやぶる全く新しいものです。新しいぶどう酒を新しい革袋に入れるように、イエスを信じる私たちは新しい器になることが求められています。
それはどんな罪人をも愛される神の愛を受け入れていく器です。
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