Saturday, June 16, 2012

5 per annum B


年間第5主日B

【マコ1:29-39

「手を取ると、熱が去り、その結果、起き上がった」と言うかわりに、「そばに行き、手を取って起こすと、熱が去った」と述べています。「起き上がる」(ギリシア語で、エゲイロー)ということばに注目させ、死から立ち上がる復活を示そうとしています。(荒)奉仕できない状態は、死の状態に等しい。健康な人間は奉仕できる人だと言わんとしている。ちなみに、この箇所は「(専業)主婦の福音」と言われています。なぜかと言いますと主婦の役割を引き立たせています。
イエスが手を取って起こされると、しゅうとめの熱は去り、彼女は一同をもてなしました。イエスの癒しは、私たちが自分に与えられた使命を生きることへと向かわせます。神の力はイエスを通してこの世にもたらされ、イエスに出会った者は神の国の実現に協力するようになります。それこそ、人間が渇望する、救いではないでしょうか。
主よ、神から離れて倒れている私を癒してください。あなたからいただく使命を生きる喜びに立ち返らせてください。sese05 今わたしが罹っている熱病は何だろうか。イエスの差し出される手は、どこにあるだろうか。深く心を沈めてゆくと、イエスの手がわたしの痛むところに置かれ、わたしの手を取って引き起こして下さるのが分かる。あなたに起していただいたこの喜びを周りの人々と共に味わうことができますように。sese07


常識の世界に住んでいる者が、信仰の青空を見上げようとすると、そこに奇跡という雲がかかっていて、その望みを妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前で、奇跡を行なう能力(ちから)のないイエスに祈る気持は起きません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいる赤鬼(あかおに)、青鬼(あおおに)のようなものです。
奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない問題の例として「たまごが先か、にわとりが先か」というのがあります。しかしこれは創造の秩序から考えれば、親が子を生むのであって、子が親を生むのではないのだから、にわとりが先なのです。神様がにわとりを造り、にわとりがたまごを生むのです。信仰者の人生観には秩序があります。
 「初めに神が天と地とを創造した」(創世記1・1)。これが聖書の世界観の大前提です。すべてのことはそこから始まります。新約聖書の信仰は、旧約の創造論を受け継いで、「初めに言(ロゴス)(神の子イエス)があった」(ヨハネ1・1)という前提から福音書のイエスの生涯が始まるのです。信仰は人間的思考の所産ではなくて、神の賜物なのですから、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。

自分には信仰があるかないのか、よく分からないという人がいます。けれども、アウグスティヌスがいうように、(信仰がないかもしれないが)信仰を望んでいる、神様のことをもっと知るようになりたい、、という状態はすでに信仰の一種です。あとは神様が存在しているかのように生活してみる、そこから信仰の成長がはじまるわけです。


「悪霊共に物言うことを許さなかった」。イエス様には一つの矛盾がありました。隠れて治療してさえも評判は立ってしまうのに、こんなに大勢の人をオープンに治してしまったら、当然うわさはうわさを呼んで、すべての人に知られてしまうでしょう。しかも尚、「人に語るな」と厳しく戒められるのです。これは「メシアの秘密」と神学者は呼んでいます。
イエスはその全生涯を通して「キリスト」という称号を避けました。公生涯の終わり頃、民衆から隔絶した場所で、弟子たちに「わたしは誰か?」と尋ねました。弟子たちを代表してペテロが、「あなたはキリストです」(マルコ8・29)と答えるとイエスは「そのことを誰にも話してはいけない」と戒めました。
 霊的存在である悪霊は弟子たちよりもはるかに敏感にイエスの正体を見破っていました。イエスと共に天の勢力が地上に突入してきた。さあ大変だ、と悪霊たちはその対策に懸命になっているのです。そして局地戦で、一つ一つの拠点が打ち破られていきます。イエスに負かされた悪霊は、弟子たちよりもはるかに勝った称号をイエスに捧げます。「あなたこそ神の御子です」(マルコ3・11、5・7、ルカ4・41)。
 イエスはキリストであり、神の子であると告白することは正しいことです。しかも尚、それは間違っているのです。イエスは弟子達にも悪霊共にもそれを言わないようにと厳しく命じました。病人を癒し、悪霊を追放し、すぐれた説教をするイエスを人々は、「メシアが出現した」と言い、「神の子が来臨した」と言って彼を崇めるようになることは明らかです。
ところが、この世で名声を博し、名誉を得ることはイエスの道ではありません。イエスがなし遂げようとしているキリストの御業は、この世の権力者達から棄てられ、殺されることによって成就されるのです。人々が願い求める栄光のキリストではなく、人々が顔を背ける苦難のキリストです。「あなたこそキリストです」と告白したペトロが考えていたキリストは、栄光のキリストでした。そこでイエスは、十字架と復活のキリストについて語りました(マルコ8・31)。するとペトロはそのようなキリストに反対し、イエスを諫めました。イエスは怒り、「サタンよ、引き下がれ!」と一喝(いっかつ)しました。ペトロのキリスト告白は、サタンのそれと同じだったのです。そこにサタンの遠謀深慮(えんぼうしりょ)が見られます。サタンの手下の悪霊共が、イエスをキリスト、神の子と言いふらすことによって、人々を誤ったキリストへと導き、真のキリストへの道を閉ざそうとする魂胆(こんたん=たくらみ、策略)です。「伝承された称号を鵜呑みにし、イエスにそのレッテルを貼るようなことをするやいなや、人はもはや先入観なしに彼に出会うことができなくなる」(D・シュヴァイツァー)。
 イエスはペトロを厳しく叱責した後、「わたしの後に従って来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい」(マルコ8・34)と命じました。これは他人事(ひとごと)ではありません。私たちはいかなるイエスを信じ、どのようなキリストを宣べ伝えているのでしょうか。「私は君たちの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと決心した」(コリント第一書2・2)。パウロの戦いも又、この点にありました。

http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0103_mark_.html

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