Saturday, June 16, 2012

7 per annum B


年間第7主日B
【マコ2:1-12
 中風の人をいやす】

< 第一:とりなしの信仰 >

 「その人たちの信仰を見て」とありますが、それは「屋根まではがして一人の病人をイエスの前に連れ出そうとした四人の信仰を主イエスが見て」ということです。「中風」とは「脳卒中発作の後などに現れる手足のマヒや半身不随のこと」を意味します。その病人は四人にとってはとても大切な人であったのだと思います。だから四人は一生懸命でした。屋根まではがしてつり下ろすというのは一大事です。彼ら四人の熱く必死な思いが伝わってきます。イエスさまの前に連れてゆきさえすればこの人は何とかなる、癒される! 彼らはそう信じたのです。ワラにもすがるような思いだったかもしれませんが、彼らはただそう信じた。私はその五人のつながりの強さに目を見張るような思いがいたします。

 一人の人間のために必死になってとりなす者たち。その真摯さが主イエスの胸を打ち、また私たちの胸を打つのです。このことの目撃者たちも胸を打たれたがゆえにこれを言い伝えていったに違いありません。このマルコ福音書の記事の背後には実際にこの出来事を目撃したペトロの熱い思いがあるという註解者もいます。いずれにしても彼らの熱意は感動的で多くの人の胸に刻まれたのです。

 四人はその病人をほっておけなかった。どうしても主イエスのみ前に連れてゆきたいと考えたのです。そこには私たち自身が他者のためにとりなしてゆく姿が示されているとも言える。苦しむ者、悲しむ者、大きな壁にぶつかっている者、絶望している者を主イエスの前に連れて出るというとりなしの働きが私たち自身にも求められています。実は、私たちが今ここで日曜日のミサを捧げているということは、私たちを主のもとにとりなしてくれた人、導いてくれた人がいたからでもあります。私は最近、人と人との出会いの中にこそ主イエスが働かれるのだということを強く思わされています。我と汝という人格的な出会いの延長線上に「永遠の汝」たる神が垣間見えるのです。

< 第二:罪の赦しということ >

 さて次に、「あなたの罪は赦される」というもう一つのポイントを見てみたいと思います。このイエスさまの言い方は、病気と罪、赦しと癒しの関係を私たちに示しています。

 注意しておきたいことがあります。その人の肉体が癒されたのは、「子よ、あなたの罪は赦される」という最初の言葉が語られた時ではありませんでした。このときには目に見える形での「奇跡」(癒し)は起きませんでした。起こったのはその次の時点です。律法学者たちが腹の中で考えていることを見抜き主は言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」するとその人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。では最初の「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉は何を意味しているのでしょうか。実はここで、肉体の癒しよりももっと大切な次元を主イエスは問題としているのです。それが「罪の赦し」の次元なのです。聖書における「罪」とは関係概念であり、個々に犯した罪を意味するというよりもむしろ、神と人との破れた関係を意味しています。神との「我と汝」という人格的な応答関係に生きる!これこそが主イエスが問題としたことなのです。これこそが肉体の癒しよりもさらに大切な、より根源的な次元の事柄なのです。 病は治されても人は又、病にかかります。しかし罪の赦しは、永遠の救いのために有効です。

 「あなたの罪は赦される」という言い方で主は、「あなたと神との破れた関係は修復された」「神はあなたと共にいます(インマヌエル)」「神はあなたを決して見捨てない」ということを宣言しておられる。それは病気が癒されるよりももっと大切な次元の事柄です。人間全体の癒しと言ってもよい。病いの時も、悲しみの時も、死の時にも、神がわたしと共におられる!「死の陰の谷をゆく時にも災いを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」と詩篇23編は告白しています。この信仰的な認識こそがすべてなのです。病人をイエスのもとに連れてきた四人は、自らの思いをはるかに越える形で、病いの癒しだけでなく存在そのものが丸ごと癒されるということのために、主イエスの救いのみ業に仕える者として用いられたのでした。主は私たちをもそのようなとりなしのご用のために用いてくださるのです。
 
「子よ、あなたの罪は赦されている」。

 病気の癒しを求めてイエスのもとに来た者にとって意外な言葉だったでしょう。神の言は人間の願いにとってまことに意外である。それは、天が地よりも高いように、神の道は人間の道よりも高く、神の思いは人間の思いよりも高いからである(イザヤ五五・九)。人間は地のことを求める。眼前の切実な必要を神に訴える。しかし、その全存在をもってする訴えが信仰として神に受け入れられる時、神は天のものを与えられる。

イエスはこの問いをもって、律法学者の「人間は罪を赦すことはできない」という批判を逆手にとって彼らを行き詰まりに追い込み、御自身の中に新しい時代への突破口が開いていることを示されるのである。イエスは彼らにこう迫っておられるのである、「あなたがたは、神のほか誰も罪を赦すことはできない、すなわち地上の人間は誰もその権威をもっていない、と言う。そのとおりである。ではあなたがたに尋ねるが、今目の前にいるこのからだの麻痺した人に、立ち上がって歩け、と言うことはそれよりも易しいことか。あなたがたはそれができるか。できないであろう。どちらも同じく人間にはできないことである。そうであるならば、もしわたしがこの人を歩かせたならば、人間を超える権威がここに働いていることをあなたがたは知らなければならない。その人間を超える権威がこの人の罪が赦されていることを宣言するのである」。

これから感謝の祭儀に与ります。主がわれらと共におられる! 十字架の上で主イエスは罪人の一人に言われました。「今日、あなたはわたしと一緒に天国にいる」と。苦しみ悲しみ死の時にも主が共におられる。そこに神の国があり、天国があります。インマヌエルの神の恵みの食卓にご一緒に与りたいと思います。 父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。

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