Saturday, June 16, 2012

17 per annum B


年間17主日 B  ヨハ6:1ー15

イエス様がパン5つと魚2匹を、男だけで5千人、女性や子供を入れればその倍を満たすほどに増やしました。ここにまた奇跡物語が登場します。
処女が身ごもる、死者がよみがえる。こういうことを聞くと「昔の人はそういう話も単純に信じられた。しかし今は、そんなに単純に信じられるわけがない。科学があり、いろいろな知識がある」。そう言って躓く人がいます。そうして現代人に分かる話に作り直していきます。
たとえばこう。「本当は、自分の食事を持ってきた人が多くいた。しかし分け合って食べれば、自分の食べる分がわずかになると思うと、それを隠したままでいるしかなかった。しかし子供がわずかな食事をイエス様に差し出し、それを皆で分ければいいと言いだしたので、自分の狭い心が恥ずかしくなり、隠し持っていた食べ物を出し、皆で食べようと勇気を持って言った。そうして皆が食事を出したら、有り余るほどになった」。
このように「自分だけのものにしようとするのでなく、寛大な心を持ちましょう」。そういう道徳の話へ置き換えるなどです。
しかしこれは福音のメッセージを正しく伝えることになりません。もしもただこれだけなら、イエスを王にしようとする群集の行動はなかったでしょう。

それに何より、教会は迫害と殉教がひどくなる中で、広まって行くわけです。その時に、書かれ、編纂され、成立していったのが、福音書なのです。ネロの迫害でパウロとペトロが殉教したのが61-65年、その後くらいから、マルコ福音などができ始め、最も過酷と言われるドミティアヌス帝(81-96在位)の迫害、さらにユダヤの国自体ローマによって滅ぼされていくのが、今日読まれたヨハネ福音の書かれた90年代初期です。
つまりこの福音を読み、伝えているのは、ローマ帝国に追われ、飢え、地下の墓場に隠れ、生活している信者です。パンを食べたくて、いくら祈っても、司祭にすがっても、けっして、パンが増え、たらふく食べることなどできず、かえって死に追いやられていった時代。そういう時代の人たちが信じ、読みつないでいったのが福音書なのです。
彼らは、けっして単純に書かれたことを信じられる状況にある人たちではありませんでした。科学が今ほどなくても、パンの増やしを簡単に信じられるほど恵まれた状況ではありませんでした。疑うのは簡単だし、このような記載はむしろ、信者でない人が理解することの妨げになるだけだったかもしれません。しかし飢えと無力と惨めさの中で、このことを書き、言い伝え、信じることに賭けた人たち。その人たちを、昔の人は単純に信じられたけど、今は科学的に考えるからなどと言って、信じることを拒否するのなら、それほど当時、命がけで信じ、命を捧げていった人たちをばかにする話はありません。それこそ現代人の傲慢と言うことになります。

それを前提に、改めて今回の福音を読むと分かることがあります。
イエス様は、単に食べ物に満たされたことで拍手喝采し、自分をこの世の王と期待し、王にしようとする群衆に、背を向けます。大切なのはこの世の物質的な富・権力・名誉ではありません。しかしそのイエス様の願いが受け入れられないとみると、ひとり退きます。つまり奇跡が本当に伝えたいことを伝えるのに役立たないのなら、イエス様は奇跡を起こせなくなるわけです。イエス様がこの世にもたらしたかったもの、伝えたかったものは、永遠の命に至る糧であり、そのための御言葉でした。
もう一つ忘れてはならないのは、5000人のためにわずかなパンを差し出した少年の行為です。これは信仰によるもので、この信仰に答え、イエス様は奇跡を行われたことです。奇跡の背景に人間による信仰・捧げもの・犠牲があって、それがイエス様の手により増されたのです。例えごくわずかなものでも、信仰によって神に対し真の捧げ物をするとき、真の祈りを捧げるとき、その献げ物と祈りはイエス様により祝福され、大きく増やされ、望んだ以上、あまるほど与えられるということです。

誰かなぞを出しました。「分ければ分けるほど増えるものはなぁに」「普通は分ければ減るのにね。分からないわ。降参」。正解は「それはね、神様の恵みだよ」何です。神様からのいただいきものは、自分だけで独占しようとするのでなく、人々と分かち合うとき、よりいっそう、増えるのです。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_033.htm

わずかしかなくても、主の手に渡した時に

最初の教会。それは、12使徒と、その他の男女の弟子たちわずか120人でした。イエスさまは「出ていって全世界に福音を宣べ伝える」よう、弟子たちにお命じになりました。ペンテコステの前、120人の人々しかいなかった。それに対して、これから弟子たちが宣べ伝えようとする全世界には、いったい何人の人がいるというのでしょうか。1億でしょうか。2億でしょうか。いずれにしても、120人という数字は、まるでこの時の、5つのパンと2匹の魚のようなものです。それはまったくわずかです。その時、弟子たちはこの出来事を思い出したのではないでしょうか。
5つのパンと2匹の魚が、もしイエスさまの手に渡らなかったとしたら、それはやはり5つのパンと2匹の魚のままです。何事も起こりません。しかし、何の足しにもならないように思われるわずかのパンと魚であるが、それがイエスさまの手に渡されたとき、イエスさまはそれを感謝して受け取ってくださり、イエスさまの手の中で豊かに増え広がるのです。

わたしたちを用いられる主

そうしたら、神の御子イエスさまのことだから、パンも魚も一つもなくても、人々を満腹にすることができたのではないか?」という人がいるかもしれません。しかしそれは違うのです。イエスさまは、一人芝居をなさりません。全体から見たらわずかではあっても、その人が持っているものをすべてささげたときに、それを用いて事をなさるのです。
最初の教会は、たった120人でした。しかしその120人は、自分たち自身をそのままイエスさまにささげました。その結果、ペンテコステの日に聖霊が降って、その日教会は3000人になったのです。
この日本でのクリスチャンは、全体から見たら、まことに少ない、わずかの人数かもしれない。英知大学のクリスチャンはどのぐらいいるのでしょうか。しかし、イエスさまから見たら、少ないということは問題ではないのです。私たち自身を、イエスさまの前に差し出すか否か、ということです。私たち自身をイエスさまの手に渡したとき、主イエスは感謝してそれを受け取り、大きくお用いになるのです。それは奇跡なのです。私たちがするのではありません。イエスさまがなさるのです。

http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat99.html

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1:ヨハネによる福音書 / 6章 1節
その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。

出エジプトを思わせることば。人々は奴隷状態から自由を求めて、海を渡った。ここからイエス様の出エジプトが始まる。人類を奴隷状態から自由にする道は。

2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。


3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。

モーセが神と語るために山に登った(一人で)ように、新しいモーセであるキリストは山に登った(弟子たちと一緒に)。山は神と出会う、交わる空間、そこにお座りになったと。つまり、イエスは(弟子たちと一緒に)おられるところに、そこに神とのやり取りできる場所となる。

4:ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。

過越祭は、まさに出エジプトを記念する祭りです。ここで新しい過越祭が始まると。

5:イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6:こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。

イスラエル人はエジプトから出て、砂漠を渡らなければならなかった。そこで問題となったのは、食べ物がないということだった。人々はモーセと神に不満をぶつけました。そして、マナ(神からの支え、食べ物)が与えられた。ここで、イエス自身がその問題を思い起こさせます。そして、まず、フィリポにその問題の解決を問いかけます。
フィリポはキリストの弟子ですが、古い契約、立法にこだわるタイプで、メシア(救い主)としてのキリストの新しいさを理解していない人物です。「立法に従ってこの問題はどうしたらいいのか」みたいな問いかけです。
フィリポの答えは、不可能ということです。

7:フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。

1デナリオンは一日の賃金でしたら。半年の給料(二百万円)でも、足りない。普通の社会では、人々はどうやって生活するかというと、働いてお金を稼いで、それでものを買うと。売買する、これではどうしても物足りない、豊かさはない。これは一般社会のすがたですが、フィリポはそれにこだわり、それを超えることはできない。キリストは違うタイプの社会を考えて、それを作りたいということはまだわからない。

8:弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。

今度は、アンデレが登場します。これは、キリストの新しさを理解しているタイプの代表。自ら進んでキリストに協力したいことを表す。

9:「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

五つのパンとは、5000人と比例する。第一朗読でも、20個のパンと100人というギャップがありますが、それ以上のギャップ。五つのパンと2つの魚、合わせて7となる。7は完全性を表す数字で、「すべて、完全に」という意味になります。少年は「召使」「奉仕者」という意味もあります(丁稚 でっち)。キリストの仲間は、持っているものをすべて、完全に差し出すということになります。

けれども、すべて、完全に出しても、キリストの仲間の持っているものは、「何の役にも立たない」とあります。これは、謙遜を表すことばであると同時に、実際にそうです。あるいは、弟子たちの悲観的な態度を表しているかもしれない。これは現代の私たちにも見られます。「召し出しは足りない」とか、「福音宣教するには力はない、足りない」とか、よく聞きます。キリストの弟子の悲観主義、ペシミズム。

10:イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。

出エジプトの時は、仔羊を食べるときに、立って食べる、急いで食べることでした。ここで、「座らせなさい」とあります。出エジプトは神の救いの出発点ではった。ここは、むしろ終着点、ゆっくりできます。

11:さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

キリストは、仲間(教会共同体)から出されたパンを取る、それは少ない不十分であるが、ここで新しい展開があります。「感謝の祈りを唱える」。ここで、神様が登場します。人々に食べ物を与える前に、まず神様との関係は成立しなければならない。
感謝するとは、自分は持っているものは、いただいたものであると認めることです。「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです」。
キリストは行った「奇跡」、「しるし」は、個人の持ち物は、本来の姿に戻らせ、つまりそれは神の愛からのものであると認めること、それを分かち合うことによって豊かさが生まれる。奇跡は愛である。まず、神からの愛、この世界は愛の産物である、と。そして、人間の愛、すべてを完全に与える、これによって神の創造は繰り返し新たにされる。キリストの「感謝の祈り」は、人間の役割を生かしながら、豊かさを作り出します。
「欲しいだけに与えられた」。マナは少ししかもらえなかった。キリストの与える支えは、「欲しいだけに与えられる」と。

12:人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13:集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14:
そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15:イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。



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