Saturday, June 16, 2012
26 per annum B
年間第26主日 B年
民数記11・25-29
ヤコブ5・1-6
マルコ9・38-43,45,47-48
<今週の表紙絵から> 神の声を聞くモーセ 12世紀の写本画 ウィーン国立博物館
シナイ山で神の言葉を受けるモーセの姿を描く絵である。きょうの第一朗読の「主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ」(民11・25)に寄せて選んだが、本来は「モーセは…シナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、」(出34・4-5)の場面を描いたものだろう。雲の中に主なる神が人間の姿で描かれてい るのも興味深いが、それよりも目を引くのは、モーセの頭に描かれた二本の角である。
これは、聖書翻訳史上の有名な誤解に基づいている。出34・28-30によると、40日40夜山上にいたモーセが山を下ってきたとき、「顔の肌が光を放っていた」。ここで「光」と訳されているヘブライ語ケレンには「角」という意味もあったため、ヒエロニムスのラテン語訳聖書(ウルガタ訳)でははっきりと「角」を意味するラテン語に訳された。そこで、中世の聖書写本画や聖堂壁画でモーセ を描くときには、固有の特徴として、頭に角を描くのが通例になった。16世紀にミケランジェロが教皇ユリウス2世の墓のために作ったモーセの彫像でさえも角があるほどに定着していったのである。しかし、意味としては、モーセがあいまみえた神の栄光の反映を具象化したものと理解すべきであろう。
<きょうのミサについて>
「王さま以上に王党派」という表現があります。他人の利害をその人以上に気にかけることを言い表しているのです。王さまは寛大なかたであるのに、その取り巻きが先走って判断し、せまい心になっている。それでいて自分は他のだれよりも王さまのことを考えているのだと思いこんでいるのです。きょうのミサにおけるモーセに対するヨシェア、イエスに対するヨハネの態度がちょうどこれに当たります。しかし、モーセの願いは神の民がみな預言者となる」こと、「民全体が神の霊を受ける」ことであり、イエスの心底からの 願いも、派閥争いに勝つことではなく、「小さな者の一人」も失われることなく、民全体が神のいのちにあずかることなのです。
第一朗読
【導入】 「民数記」はイスラエルの民がエジプト脱出後に、荒れ野において体験した出来事を記しています。荒れ野の困難な旅に対する民の不平不満が高まったとき、七十人の長老がモーセとともに民の重荷を負う者として選ばれました。そのときのエピソードが朗読されます。
第二朗読
【解説】 富んでいる人に対してヤコブは厳しく警告しています。彼らは不正に富を手に入れるという危険があるばかりでなく、富を手に入れることによって貧しい人々のことを 少しも考えなくなるという危険があります。「正しい人を罪に定めて、殺した」という言葉には「隣人の生活の道を奪う者は彼を殺すようなもの」(シラ書〔集会の書〕34・26) という箇所が参照されます。
福音朗読
【解説】 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである――自から恵みを拒まないかぎり、だれでもみな神の国へと招かれています。しかし、このことは、 何も努力しなくてもよいということではありません。神の国に入るためには、手足のような必要なものさえも捨てる覚悟が求められているということを忘れてはならないでしょう。
http://www.oriens.or.jp/Fseiten.htm
今日の福音では、イエスの名を使って悪霊を追い出そうとする人をやめさせようとした弟子たちを
たしなめたイエスの姿が描かれています。そこには弟子たちのグループのエゴイズム、競争意識、
自分だけが正しいという思い込みが見られます。弟子たちは、聖霊がどこでも働いているということをなかなか認められないのです。
イエスを信じる私たちは世界のどこにでも解放をもたらす人々がいることを喜んで認め、心の狭さを避けることが大切です。他の人が良い仕事をしているなら、共に協力し、ねたむことがあってはなりません。一番大切なのは善が行われることです。イエスの言葉は、心を広げることへの呼びかけ、
誰が行ったかに拘わらず、善が行われることを喜ぶことへの呼びかけでしょう。
「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」
このイエスの言葉は、弱い人、見捨てられた人のためにまた、神の国の建設のために働く人は誰でも
わたしたちの味方であることを示しています。
神の国は永遠のいのちです。イエスの言葉は永遠のいのちに関するものを、よく注意して選ぶように、徹底的な選びをするように招いています。永遠のいのちを得ることに関して、私たちは真摯に識別しなければなりません。神とその御国に期待をかける人はすべてをそのために使います。イエスの比喩的な言い方、例えば、「片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」
「片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」などという言葉は、私たちのすべて、手、足、目をいのちのために使うべきだということを意味しています。
徹底的に選ぼうとする時、心を広くもつ時、生活と祈りに出会いが満ちあふれます。私たちが神に開かれ、人々に開かれるならば、豊かになることができます。そのために私たちは一層寛容になる恵みを祈り求めたいものです。seseragi
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