Saturday, June 16, 2012
19 per annum B
年間第19主日 B年 夙川
ヨハネ6・41-51
主の御使いとエリヤ
ディーリック・ブーツ作 ベルギー ルーヴァン
サン・ピエール教会 15世紀
<今週の表紙絵から>
ルネサンス期のオランダの画家ディーリック・ブーツ(生没年不詳)が聖体の秘跡の制定に関する絵を連作したなかの一つといわれる。きょうの第一朗読(列王記上19・4-8 )の内容が、近代的な遠近法による立体的空間の奥行きの中で、克明に描写されているのがわかる。
エリヤ(その衣装は画家の時代のものを反映しているのだろう)は、えにしだの木のもとでかたひじをついて横になって眠っている。そこに現れた御使いの手のしぐさが「起きて食べよ」という言葉が示す。エリヤの頭のほうに、水の入った器とパンが見える。とすると、ここは二度目に眠ったエリヤと二度目に現れた御使いを描いているものとも思えるが、画家は物語の時間的推移を厳密に描いているわけではなく、むしろ物語の要素をすべて同一画面に描き出していることに注意しなくてはならない。その証拠に画面の右奥には、杖をついて山を上っていくエリヤが描かれており、結局、この絵の中には、物語の経過のすべてが盛り込まれていると考えることができる。しかもその中心で強調されているのは御使いの姿である。神に力づけられてこそ預言者は歩む 、とのメッセージが一つのテーマとして貫かれているのだろう。
<きょうのミサについて>
「わたしは天から下ったいのちのかて、このパンを食べる人は永遠に生きる。」きょうの福音のメッセージの中心を、わたしたちはアレルヤ唱で歌います。
年間第十七主日から、今年の主日にあたった主の変容をはさみ、ヨハネ6章が福音として読まれています。初めにパンを食べて満腹し、イエスを王にしようとまで考えた大群衆ですが、しるしの意味が説き明かされるにつれて不信を抱き、やがてイエスを離れるようになってい きます。彼らがイエスに期待したものと、天の父が与えようとするものとに食い違いのあることが、きょうの箇所からもうかがえます。
自分の思いに縛られず、父が与えてくださるものを受け止めようとするとき、わたしたちは、イエスが父から遣わされたことを信じて、永遠の生命を生き始めるのです。
第一朗読
【解説】 エリヤはバアルの預言者たちと対決して勝利をおさめ、彼らを滅ばしましたが、王妃イゼベルの逆襲を恐れ、自分の命を守るために逃げ出しました。旅に疲れた エリヤは死を望みますが、与えられたパンを食べて生き返り、神と出会う旅を続けます。
第二朗読
【解説】 「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」(エフエソ2・5)と言うパウロは、信仰を得たエフェソの人々(異邦人)に、神を知らない異邦人としての生き方を捨て、神の子として新しく生きることを求めます。聖霊が与えられていることは、彼らが神のものとされ ているあかしです。
福音朗読
【解説】 イエスの周囲にいたユダヤ人たちは、彼がどこのだれなのかを知っていました。しかし、イエスが自分と天の父との関係を話し、自分がどこから遣わされたのかを言うに及んで、不信が生じます。イエスとはだれなのか、わたしたちにとって何なのか。これはわたしたちにも問われていることです。
人間はいろいろな壁、失敗、試練にぶちあたります。自分自身の罪、自分が気づかないところで人を傷つけ、そのことから自分に返って来た痛み。災害、犯罪の被害。いろんな壁や挫折にぶつかって、絶望し、おかしくなりそうになったり、これ以上歩けないと思ったり。神から見放され見捨てられたと絶望し、キリスト信者であっても何にもならない、そうでなかった方が良かったと思う時さえ来るかもしれません。
それらを負わされたとき、神や教会を呪って、離れていく人もいるかもしれません。しかし人間の痛みをよくご存じの神様は、耐え難いからこそ、必ずいろいろな形で助けも下さいます。自分から求め、扉を叩くなら、神様や教会と本当に共に歩む勇気を持ち直すなら、きっと道が開けていくのだと思います。moseos
キリスト者は、イエスに学びながら生活します。イエスの生き方から、最も人間らしい生き方、本物の幸せがどこにあるかを見出すのです。今日、イエスは言われます。「信じる者は永遠の命を得ている。」永遠の命とは、単に終わりのない命というだけではなく、キリストを信じることによって、
神によって完成された世界を仰ぎ見、意味のある、充実した生き方をもたらす命の源を得ることでしょう。
エリヤと同じように、私たちは日々の生活に疲れた時、パンとなられたキリストを自分の内に宿し、
力をいただくことができます。イエスはその教えによって、また、御自身を捧げることによって、
私たちを養ってくださいます。この世に生き、十字架上で苦しみ、死を通られ、復活されたイエスの体が、私たちに命を与えるのです。死には、神の命を終わらせることができません。
イエスを信じることはイエスに従って生きることにつながり、その生き方を通して、永遠の命に至ります。神はイエスを通して私たちに、幸いな者になることを信じるように招いています。
それは、神御自身の命にあずかり、イエスと一致した生き方をすることによって可能となるのです。
信仰は恵みであると同時に、人間の選びです。
私の命をイエスに委ね、充実した生命を見出すことができますように。sese
神様がマナを与えて下さった霊的な意味は人はパンだけで生きるのではなく主の口から出るすべての御言葉によって生きる存在であることを悟らせるためでした(申8:3)。32,33節をご覧下さい。イエス様は彼らに言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
人には肉体の飢えと霊的な飢えがあります。飢えていることは悲しいことです。飢えていると食べ物ばかり考えます。飢えていると何をしても満足と喜びがありません。霊的に飢えている人も同じです。何をしても満足がなく真の喜びがありません。何かを熱心にしてもいつも虚しさを感じます。それは霊的パンを食べることによってのみ解消することができます。イエス様は魂の飢えを解消してくださるいのちのパンです。イエス様はいのちの源であり、真の満足と喜びの源です。イエス様は飢えている人にはいのちのパンであり、渇いている人には生ける水となられる方です。また、イエス様は闇の中にいる人のいのちの光であり、迷っている人の道であり、死の恐れにさいなまれている人のよみがえりであり、いのちである方です。ですから、このイエス様を信じる人の人生は決して空しくありません。その人は真の喜びと満足がある人生を送ります。
世間の人々はお金に最高の価値をおいて朝から晩まで働いています。それはお金がなければ幸福になれないと思っているからです。しかし、いくらお金を儲けても人々のストレス、疲れ、不安が消え去りません。人間には肉のパン以上のもの、すなわち、霊的なパンが必要です。人間はいのちのパンを食べる時のみまことの満足と喜びを得ることができます。イエス様は私たちのいのちのパンです。http://www.ubf.or.jp/modules/xf3Message/article-240.html
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自転車操業(じてんしゃそうぎょう)ということばがあります。自転車はペダルを漕ぎ続けることで安定した走行が可能であるが、漕ぐのをやめるといつかは転倒してしまう。この自転車の状態を経営収支に見立て、ペダルを漕ぎ続けることを操業とし、停止すると転倒、つまりは倒産する状態を喩えている。 たとえば、社長が会社を作ります。機械を買ってものを作って売ります。繁栄します。ところが、近くに別の会社ができ、同じものをより安く売ります。負けないために、設備投資、コスト削減、新商品の開発を考えなければならない。競争相手はじっとするわけがないから、これは永遠に続きます。 まぁ、これで経済的に発展もあるから、消費者にはそれなりの利点もあるでしょうが、心から安心できるところはない。厳しい世の中です。 アメリカのオバマ大統領は、貧しい家庭で生まれたが、よく勉強してよく働いて、トップに上り詰めた。今トップになって安心できるかというと、そうではないらしいですね。今度総選挙があります。それに勝てないと大失敗。勝ったとしても、またそれなりの敵が現れます。 経済、政治、学問の世界は大体こんなものです。 人間は成功すると、それで安心できない状態に置かれているようです。それはちょうど、食事をすると一応満腹するが、数時間したらまたおなか減ってきます、というのと似ています。今日食べたからといって、安心できない、明日も食べていかなければならないから。何十年食べれるお金を貯めたらといわれるかもしれない。じゃ、そのお金は「布団銀行」にするか、それとも銀行に預けるか、いずれも完全に安心できないでしょう。 イエスさまは、「永遠のいのちにいたるパン」をくださると。つまり、自転車操業でないような生き方を約束します。あるいは、自転車操業の中でも、満足できる食べ物を約束します。 「それは、えらいコッチャ」とユダヤ人たちはつぶやきます。イエスの身の回りを見ているから、「君は何ぼのものか」と疑うわけです。 今を生きる私たちにとっても、同じようなつまずきがあります。イエス・キリストを「まことの神にして、まことの人」と信じることは簡単なことではありません。自転車操業には非常に現実性があります。具体性があります。イエス・キリストというと、ちょっと抽象的な観念に聞こえないでしょうか。絵に描いた餅的な側面はないでしょうか。
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人々は感動を求めて、ディズネイランド、あるいはユニバーサル・スタジオ・ジャパン(R)のようなところに行きます。そこで夢を見た気分になれます。身の回りの現実には、あまり感動がない、灰色で、当たり前、どっちかというとつまらないこと、みすぼらしいことは多い。 けれども考えてみれば、いつも住んでいる家の窓の外を見るだけでも、すばらしい景色のときもある。普段出会っている人々の中にも、気をつけて接すれば、様々なドラマ、悲しみ、喜びがある。本にすれば立派な文学になる。音楽にすれば立派な協奏曲になる。素晴らしい映画になるかもしれない。 自分のそばに座っている人は深い信仰体験を持っているかもしれない。それでも、ほとんど気がつかない。そう考えることもないでしょう。 キリストはどうでしょうか。彼は立派な人間だったでしょう(二千年この方噂されているぐらいですから)。けれども、私たちとはあまり変わらない姿で現れて、キラキラと輝くような生き方をしなかった。そして、今は様々なしるしの中に生きておられる。そのしるしはどこにでもある。ミサは毎週、毎日行われる。みことばは何回も聞いたがある。ありふれたものです。馴れてしまうと当たり前で、つまらないことにもなるのだが、実はその中にすばらしい宝が隠されている。もっとも身近で当たり前のものの中にすばらしい神秘があります。信仰の目さえあれば。 司祭とミサに馴れ馴れしくなるのは、ある意味ではしかたがないでしょう。キリストに対してでさえ、ユダヤ人はそうなったというから、ところが、それは不信仰の世界だよと、今日の福音書を注意を促しています。不信仰の世界、面白くないよ、と。自転車操業の方は面白いですか、と問いかける福音書。
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