【洗礼者ヨハネの誕生】6月24日
(ルカ1:57-66,80)
今日は、洗礼者ヨハネというのはどのような人なのか?またわたしたちにとっての意義とは何か?ということを一緒に考えていきたいと思います。
洗礼者ヨハネについて特に感じるのは、彼の自主的な生き方です。困難にあっても屈しない生き方。詳しいことは分かりませんが、彼は長年厳しい修行を自己に課し、神に向かい、やがて自分が真実であると確信するメッセージをもって、前例によっかかることのない洗礼運動を展開しました。イエスが後に、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(マタ11・13)と述べるように、彼の告げたものはそれまでのユダヤ教全体を代表するほどのポテンシャルを持っていたと思われます。ヨハネはまた、イエスご自身に対しても最も影響を与えた存在ではないかと思われます。四福音書はおしなべて、福音の始めをイエスの洗礼に置いています。ヨハネとの接触を通してイエスはご自分の福音とそれを宣べ伝える使命とに目覚められたと考えられます。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタ11・11)。イエスの高いヨハネ評価は、最後まで変わらなかったようです。数多くの偉大な聖人が、キリストに触発されてその生き方を大きく実らせることができました。しかし、逆にキリストに影響を及ぼした聖人は洗礼者ヨハネだけでしょう。
神の前での人間の謙虚さ
「わたしは水であなたたちに洗礼を授けた」(マコ1・8)。ヨハネは人々に自己の内なる罪と悪を神の前にすなおに認めて、そのしるしとして水の洗礼を受けるように促しました。彼は、人間が自分の力によって自分を救うことはできないことを痛感していたことでしょう。彼は、従来の宗教の権威をも含めて、この世のどのような権威に盲従することもなく、ただただ神の前で何が真実であり、何が虚偽であるかを見つめ続けたのでしょう。そして彼が自分にできることとして到達した結論が、(聖霊によらない)「水による洗礼」だったのでしょう。「わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履き物をお脱がせする価値もない」(使13・25)。この土下座するような謙遜。自己の無力さを知っているからこそ、ヨハネは救いの力を最後まで求め続けます。牢獄にとらわれてからも、あの一時は自分の弟子であったはずのイエスに、「あなたが来るべき方ですか」と問いかける心の開きを保っていたのです。
自主性のある信仰を
教会は聖人を立てることによって、信仰者が彼らの生き方を模範とするようにと勧めます。洗礼者ヨハネの独立不羈(どくりつふき)の精神と神の前での謙虚さは、今日の信者にとって独特の促しを与えてくれるように思います。信者、特にカトリック信者には、キリストの恵み、そして教会の指導に身を任せるあまり、自分の判断、自分の決断、自分の使命を求め見極める努力を行わない傾向が見られないでしょうか。言い換えれば、セカンドハンドではない、オリジナルな自分の信じ方、生き方が希薄になっていないでしょうか。誠実で骨太(ほねぶと)な生き方を自分で誠実に求め続けていくとき、はじめて現代の弱り切った人間社会において、キリストの先駆者として奉仕することができるのではないでしょうか。
イエス様はこのヨハネについて、「女より産まれた者の中で、ヨハネ以上に偉大なものは現れなかった」と言い(マタ11:11)、「燃えて輝くともし火」(ヨハ5:23)と呼びました。そして神の子イエスは、人間ヨハネから洗礼を受けることさえ望み、洗礼を授かっています。これほどまでの洗者ヨハネの偉大さはどこにあるのでしょう。
それは徹底した謙そんさにあります。それほどまでイエス様にも大切にされた洗礼者ヨハネは、「自分はただの人間。イエス様の履物をお脱がせする価値もない(使徒13:25)。イエス様こそメシアで神の子。イエス様は栄えるが自分は衰えていく(ヨハ3:30)」。そう言ったのでした。ここに洗礼者ヨハネの偉大さがあります。
◇指揮者バーンシュタインは、一番難しいパートはと問われて、「第2バイオリン」と答えました。第1バイオリンのようにけっして目立って音を奏でることはない。しかし技量は同じ程度のものが必要とされている。それでもただ第1バイオリンを引き立たせていく第2バイオリン。これこそ一番難しいパートと言ったのでした。
私たちは誰もが第2バイオリニストです。第1バイオリンが神様です。私たちの働きはすべて、神様である第1バイオリンを引き立たせることです。そして私たちが第2ヴァイオリンのパートをしっかり演じ切るとき、神様こそが第1バイオリンとして私たちの業を照らし出して、私たちの業を完成してくださるでしょう。
そして神様のために働いて、神様の業を輝かせながら、第2バイオリンとして生き抜いていく。第2バイオリンとしてのキリスト者の生き方、教会に奉仕する生き方は、もしかして、いたずらな骨折り、うつろにむなしいものと思えるかもしれません。しかしその生涯の終わりに、確実にこのような神様の声を聞くでしょう。「あなたは私の僕、あなたによって私の輝きが現れた」(イザ49:3f)。これこそがキリスト者の理想とする生き方、死に方です。洗者ヨハネの生涯はまさしくこれでした。
イエス様の生涯も、人間の目、キリストを信じないものから見れば、「神様に仕えながらも、最期に人間に裏切られ、何の実りもなかった」。そのようなものであったかもしれません。しかしこのキリストをその後、神の独り子・救い主として、国々の光として、2000年間、教会はたえずたたえてきたのです。ここに神の業があります。
大方の人は普通なら、洗礼者ヨハネにはなりたくないと思うのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは、自分を見てとは言っていません。いつも、イエスを指し示す存在です。
洗礼者ヨハネの使命は、洗礼を受けている私たちにも、特に司祭、修道者に与えられています。その使命を生きる時には、様々な苦しみを体験します。それでも私たちは、洗礼者ヨハネのように、生き方、言動によって、イエスを指し示さなければならないのです。自分のしたいように生きる、いわゆる『自己実現』ではないのです。『私』ではなく『イエス』です。
私たち一人ひとりが、イエスを指し示す 本物の洗礼者ヨハネの姿に近付くように祈って、このミサを捧げていきます。
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