Saturday, June 16, 2012

4 per annum B


年間第4主日B
【マコ1:21-28 】


「イエス様は律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになった」とあります。
この権威に驚くとはいったいどういうことなのでしょうか。現代の私たちにそういう経験がはたしてあるのでしょうか。私たちはイエス様の教えに驚いたことがあるでしょうか。

考えて見ますと、私たちの時代は、いままで権威あるものとされてきた人が、それを失っている時代です。尊敬され信頼されている権威は少なくなりました。親、教師、政治家、ある意味で教会も、権威を失ってしまっています。

現代人も、真に権威あるものに出会いたいのだ、それを願い求めているのだ、しかし求めてもなかな か得られない、だからこそ権威への驚きというものが本当にあることさえ忘れてしまいやすいということになるのかもしれません。

さて、イエス様の時代はどうだったでしょうか。たとえば、十戒があります。これは昔も今大変な権威をもっています。
 神様からモーセが受けた十戒というものがあり、今も、キリスト教徒にとっても大切なものです。当時ユダヤの社会では、十戒の教えをさらに細かく規定していた、613もの掟がありました。法の専門家である律法学者たちは、十戒を細かく注釈し、議論しました。
 たとえば安息日には働いてはいけない。ところで歩くことも労働である。しかし人間まったく歩かないわけにはいかない。では一日のどのくらいの距離を歩いてよいか。そういうことがとても大切になっていました。
 そんな時代の中、イエス様はそうした細かなことにとらわれることなく、思い切った教えをしていきました。たとえばこのような箇所を覚えていると思います。
 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。……あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(マタ5:21-22,38-41)」。
 ここには立法の本当の意味が捉えられていると思われます。この法律があるのは、実はこういうことを神様は言いたかったからだと、神様のみ旨を徹底的に明かにし、深め、解釈しなおす。それも法の権威だけではなく、「わたしは言っておく」と述べて、イエス様はしっかりと神様のみ旨を根幹から理解している。その意味というのはこういうことなのだと、さまざまな解釈の違いにとらわれることなく、はっきり宣言しているわけです。これ以上の知恵、これ以上の確かさがありえないといえるぐらいで、はっきりしている。
 つまり「殺すな。そう十戒で定められているね。でも私は言う。その教えはただ殺すという行為のことを言っているのではない。人をばかだと言ってその人格や価値を軽んじたとき、それはその人を殺すこと同じなのだ。それがいけないと神はいっているのだ」。
 そういう教え。ある意味で立法学者たちが教えていたことよりも、もっときつい教えで、一般の人々には、とてもついていけない教えです。だからこそびっくりします。「とてもできない。でも確かにそれが神様の本当に伝えたいことなのかもしれない」と。
 そしてそのような権威ある教えができるというのも、イエス様が深く父なる神と一つとなっていることを感じさせるのです。

ところで今日の福音書では、人間のほうは鈍いのに、悪霊のほうが、すぐにイエス様の正体をメシアだとはっきり見分けていることも興味を引く部分です。

私たちの今日の世界では、悪霊、汚れた霊というような存在をあまりまともに問題にしないかもしれません。もしそれがただ病気の元凶のように見られるならば、今日はもうそのような時代ではないと思われるかもしれません。しかし、今日の世界に広がる不安というようなものは、新しい形での汚れた霊のなせる業のように考えられます。しかも不安とは拠るべきまことの権威がないところに起こるのではないでしょうか。主イエスが、新しい、まことの権威者として登場されていることの意義は大きいのです。 

 さて、悪霊も恐れ、逃げ出してしまうほどの神の権威を持った、最高のみ言葉、真理そのものを、私たちはこうして毎日曜日に聞きます。
 私たちには、いろんな恐れがあります。将来への不安、犯罪にあうこと、事故にあうこと、自分をおびやかす人。しかしそんなことより何より、神の言葉を聞いて、その権威を認めて生きることは、私たちに最高の安心、最高の知恵を与えるのではないでしょうか。

信頼できる権威を持った人が少なくなった時代、その反面、ますます権威あるものに出会いたいという気持ちが高まる時代、我々の時代こそキリストに信頼をおくべき時代ではないでしょうか。今一番賢い生き方がキリストが教えた生き方ではないでしょうか。

「神との親しさ」。――これこそが「権威」の真の意味です。イエスを見た人びとは、その「権威ある姿勢」に圧倒されました。神の想いを、よどみなく見事に生きていたイエス。その姿は、ほんものでした。うそいつわりのないほんもの。人びとはイエスの誠実さを敏感に感じ取ったのでしょう。

ほんものというものは、毎日の生活のなかで次第に整えられていくものです。たとえ、聖書の言葉を全部暗記していても、その言葉を心に深く受けとめて生活のなかに活かしていなければ、ほんものの生き方にはなりません。ファリサイ派の人たちや律法学者の人たちは聖書の言葉を暗記していましたが、自分の生活のなかで活かしてはいませんでした。ですから、彼らの生き方は、
なにかうそっぽいものだったのかもしれません。にせものは、必ず、ばれます。ぼろがでます。

しかし、ほんものは、いつでもそのままで、まっすぐで、うそがないので、ぼろがでることもありません。ほんものの生き方というのは、神のあったかい想いを自分の生活のなかで生きていることです。神と親しくなって、いつもコミュニケーションを深めていることです。神の想いを、身をもって生きていること。神ならば、どう考えるのかな、と常に心のなかで思いつづけていることが大切なのです。イエスは、それがよくできたのです。神の想いに気づいて、自分から積極的に、ていねいに実行に移していたのです。

パウロが私たちに勧めていることも、ポイントは独身生活か、結婚生活か、にあるのではなく、ひたすら主に仕えること、どうすれば主に喜ばれるかと、いつも、主のことに心を遣うかどうかにあります。

第一朗読に書かれていることも、やはり、神の想いに気づいて、その想いを人びとに伝えるということがテーマになっています。神の想いを相手に伝える役割を果たすのが預言者です。
預言者というものは、自分勝手に語るわけではありません。むしろ、神のあったかい想いだけを語りつづけるのです。神の親心は、ときには厳しい指導を相手におよぼす場合もありますが、
実は、常にあったかい気持ちが動機になっているのです。

神のあったかい想いに気づき、常に感謝し、喜んで生きることができますように。
http://www.seseragi.gr.jp/gospel/gospel.html
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預言は、個人のため、あるいは共同体のための神様からのメッセージです。旧約時代から聖書の中にはたくさんの預言者が登場しています。預言者と言えば、何か他人ごとのように思えるのですが、実は洗礼を受けた人は皆、預言職を頂いています。

しかし、実際、誰かが語った言葉が神様からのものか否か、どうやって識別すれば良いのでしょうか。私は、誰かからの言葉が心に残って離れないようならば、神様からのメッセージとして受け取って良いのではないかと思っています。

以前、次のようなことがありました。ある司祭が、ミサの説教の中で、「時間を有効に使いましょう」と語ったのです。その時の私が、時を無為に過ごすような自堕落な生活を送っていたせいでしょうか。その言葉は私の心に強く響き、いつまでも残っていました。しかし、神様からの言葉とは考えたくありませんでした。なぜなら、その時の私は、その司祭とあまり良好な関係を築いてはいなかったからです。私は、「この人から神様の言葉が出てくるはずはない」と思っていました。しかし、抵抗すれば抵抗するほど苦しくなりました。最終的に観念して、神様からの御言葉として受け入れ、御言葉を礼拝した時、心が穏やかになりました。

ところで、今日の福音の中で、イエス様は会堂に入って教え始めておられます。この「教え始める」という単語の時制は未完了形です。ですから、イエス様は今も教え続けておられることになります。それは、聖書を通して、また私たちの周囲の人を通してです。イエス様は、身近な人を通して語られるのかもしれません。けれども、私たちの心が悪霊に支配されていれば、御言葉は私たちの心に入ってくることはできません。そんな時、まずイエス様に悪霊を追い出してもらわなければなりません。悪霊、それは傲慢の霊です。イエス様と相いれない霊です。イエス様が悪霊を追い出されれば、私たちの心は聖霊で満たされ、神の支配、神の国が私たちの間に実現していきます。

今日、イエス様が身近な人を通して語られます。しかし、私たちの先入観や偏見が邪魔をするかもしれません。悪霊がそれを利用して、御言葉が私たちの心の中に入ってこないように仕向けるかもしれません。そのようなことに配慮しながら、信仰生活を送りましょう。今日、悪霊を追い出し、御言葉を語られるイエス様に、私たちの心の目を向け、耳を傾けましょう。



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