Saturday, June 16, 2012

27 per annum B


年間第27主日 B 
マルコ10・2-16

イエスの時代の「離縁」の問題と現代の「離婚」の問題は同じではありません。当時の社会で妻の側からの離婚の申し出や協議離婚などありえず、「離縁」といえば、それは一方的に「夫が妻を離縁すること」だったのです.

ところで、イエスの時代、律法学者の間にさまざまな解釈はありましたが、一番有力な解釈はたとえば、有名な例でい言うと「夫の食べ物を過って焦がしてしまう」というのが離縁するための十分な理由でした。つまり、妻のどんな小さな落ち度でも、夫が気に入らないとなれば、離縁する正当な理由になるのです。一般にこのヒレル派の解釈が通用していました。だから、きょうの箇所でイエスの対話の相手も「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)と言っています。つまり、「離縁状さえ書けば、妻を離縁してよい」これが当時の一般的な考えでした。律法学者は皆、男性でした。何百年かの間に、この律法は男性に都合のいいように解釈されていったのです。

イエスは当時の社会の中で、夫に追い出され、路頭に迷う多くの女性たちを見ていたのでしょう。断固として離縁に反対します。神の心は、夫が妻を離縁することを許すことではない、とイエスは主張します。そして、モーセの時代よりもさかのぼり、人間の創造の物語について語ります。「神は人を男と女とにお造りになった」(6節)は創世記1・27の引用です。神にかたどって創造された男女が神の前に対等であることを語る箇所です。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(7-8節)は創世記2・24の引用です。そして結論として、イエスはこう言います。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(9節)。
 妻とは何か? それは神が与えてくださったかけがえのないパートナーではないか。妻を自分の都合がよければ家に置いておき、都合が悪くなれば追い出せるようなものと考えるのはおかしいではないか・・・ということでしょう。イエスは律法の規定や結婚という制度を守ろうとしているのではなく、その中に生き、苦しんでいる一人ひとりの人間(ここでは弱い立場にいた当時の女性たち)を守ろうとしているのではないでしょうか。このように見るとイエスの言葉は「新しい律法」ではなく、まさに「福音」(よい知らせ)なのです。http://tokyo.catholic.jp/cgi-bin/MT/


結婚の問題と、子どもをキリストのもとに連れていくことについてのイエスのことばです。ファリサイ派の人々も、イエスの弟子たちも、そのことが 「許されているか」どうかを気にしていますが、イエスは外面的な規則ではなく、神の望まれることが何なのかを問題にしています。

【解説】 「あばら骨」は心臓をおおっています。心臓に一番近いものです。また心臓は心のあるところと考えられていました。それで、最初の女性が男性のあばら骨から造られたということは、男性の心の思いを満たすものとして、すなわち心の相手として造られたということです。「性」という字が、心(?/りっしんべん)を合わせて生きると書くことにも通じます。

まず、主なる神が、この絵の中心に大きく描かれている。しかも、まさしくキリストのように表現されていることに注目したい。それが意図的であるならば、これはキリストによる人間の再創造を描いた絵となる。こう見ると、画面に霞んだ印象を与えている色彩がなかなか興味深く見えてくる。全体の基調となっている茶色(土の色)、そして背景の青と緑である。神は人を土から造り、息吹を与え、生きる者とした(創世記2・7)。そしてキリストの死と復活は人間の第二の創造となり、聖霊を与え、永遠の命へと導くものとなった。一つの画面の中に、二つの創造を重ね合わせて考えることができるのである。(男女としての人の創造    聖カストルの聖書挿絵    ドイツ バンベルク国立図書館 1067年頃)。

もうどうにも取り替えることのでき得ない出会いというものがあります。この父、この母、この祖父母から生まれたという事実。これだけはいくら不満を持っても、どうにもできない人間関係です。いくら別の家のお父さん、お母さんを望んでも、どうにもならないことです。反発しようが、無視しようが、仲良くしようが、家を出ようが、そして結婚して別の家庭を持とうが、どうにもならずいつまでも親子関係を引きずります。これはどうにもならない決定論、運命的に思えることです。しかし実のところは運命ではなく、神様のご計画なのですが。結婚もそんなところがあります。


<きょうのミサについて>
 わたしたちは自分が置かれている状況が理想的なものではないことをよく知っています。自分自身の心の状態、他の人々との交わり、自然界に対する働きかけ、どれをとっても矛盾に満ちています。これでいいはずはないと痛感します。けれども、思うようにはいかないのが現実です。
 きょうの朗読に示されている楽園の理想像は、人類の過去の姿がそうであったというのではなく、矛盾だらけの現実の世界の正反対の姿として描かれているのではないでしょうか。神が望まれる人間の理想像、人類が到達すべき目標がここにある、という意味です。そして、わたしたちは、兄弟となってくださったキリストとともに、そこに到達できると信じているのです。http://www.oriens.or.jp/

男女が一生涯をともにすることの難しさは、昔もいまも変わるものではないでしょう。「二人は一体となる」、つまり二人の男女は愛を誓うとき、永遠にふれています。ある限られた年月の交わりを誓うわけではありません。結婚の近いは永遠を志向します(永遠に向かっています)。有限な存在でありながら、そして弱さとエゴイズムを抱えながら、永遠の愛を誓う男女の姿に、創世記が教える永遠の神のかたどりを見るべきです。弱い人間の中に、永遠への目覚めを与えているのです。
永遠への目覚め、永遠への歩みの道は、いろいろあると思います。修道院に入って神の世界に専念するのも一つの道です。男女の愛の誓いも永遠の世界に向かう道です。
人間社会の営みにはいろいろなものがあります。仕事、趣味、学問など。しかし、これらの営みは、永遠を自覚しながら行われているでしょうか。そのなかで、永遠にはっきりふれることのできるものは男女の愛の営みといえるでしょう。クリスチャンの夫婦はこれを証しする偉大な使命を頂いていると思います。
自分勝手な欲望のままに生きる人間のために、十字架のきわみにいたるまでご自分を与えられたイエスは、愛の理想を私たちに示されたのです。男女がその誓いどおりに生きようとするならば、かならず、十字架につけられるまで愛されたイエスの愛にふれることになるのです。永遠への道としての夫婦の歩みを再評価するとともに、さまざまな困難にめげず、その交わりを大切にする恵みを祈りたいと思います。(森)





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