Saturday, June 16, 2012
25 per annum B
年間25主日B
【マルコ9:30-37
いちばん偉い者】
「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」」 これを聞いているのは、弟子たちです。しかも、教会の中心的な役割を担う12人です。彼らは人の先に立つ者にならなければなりません。人々を導くリーダーとして人々の模範となり、本当に偉い人にならなければなりません。偉くなりたいという意欲と希望がなければ、人は怠け者になってしまいます。「どうでもいいよ。」という言い方は、本当に謙虚な人の言い方のように聞こえます。しかし、それはいい加減な言い方でもあります。学生たちを見る、優秀になりたいという意欲がない人は、あまり努力もしません。努力しない人が実力ある人、偉い人、世の中に影響を及ぼすような人になることは無理でしょう。キリストの弟子は常に、人の先に立って良い影響を及ぼす人にならなければなりません。ですから、イエス様は弟子たちに「偉くなってはいけない、偉くなりたいと思うな」と言いませんでした。偉くなりたいと思うその気持ちを無視されなかったのです。私たちは一番偉くなりたいと思って闘争する必要があります。人々の上に君臨するためではなく、人々に仕えられるためではなく、みなに仕えるために闘争するのです。
自ら自分を低くしてしんがりとなり、みなに仕えることはやさしくありません。特に気に入らない人に仕えることは本当に難しいです。それはイエス様を学びたいという切なる願いとともに霊的に闘争すること、何よりも聖霊の助けがなければできないことです。偉くなることはやさしくないのです。しかし、常に偉くなりたいと思って祈りながら聖霊の助けを受けてイエス様を学んで行く時に、まことにキリストの弟子らしい弟子として成長し、偉大な人生を生きることができます。高ぶる者は滅びに向かって行きます。人を押し退けて、人を踏み台にして偉くなるという道もあるが、それはうそだよ、と。みなのしんがりとなり、みなに仕えておられたイエス様にまことの平安と喜び、まことの自由がありました。イエス様の力を「よこどり」して偉くなろうとしていた弟子たちのような考えや生き方では心に平安も喜びもありません。「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。
イエス様は、人に仕えることの本質を、ひとりの幼子を通して視聴覚教育をなさいました。
http://www.ubf.or.jp/modules/xf3Message/article-708.html
幼子のようになる、とは?
では、「子供を受け入れる」、「幼な子のようになる」というのはどういうことなのでしょうか。
幼な子というのは、欠点がないかといえば、そんなことはないわけです。いやむしろ欠点がたくさんある。もちろん、純真であるとか、かわいらしいとか、よい面がたくさんあるのですが、一方では幼な子は、たいへんわがままです。赤ちゃんの時など、母親が病気であろうが、疲れていようが、ミルクがほしければ夜中でもなんでも大声で泣きます。少し大きくなれば、けんかもするし、おもちゃなんか独り占めもします。
もちろんイエスさまは、幼な子のそういう面を見習え、とおっしゃったのではないでしょう。使徒パウロは、1コリント4:14で、「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」と教えています。
子供のわがままな面を見習えといっているのではない。では「子供のようになる」というのはどういうことでしょうか。それはマタイ福音書の言うように、「自分を低くして」ということになるでしょう(集会祈願参照)。
子供が低いものであるということを知っているということです。子供は本能的にと言いますか、自然に自分が低いということを知っています。そして特に親に対して、自分が低いことを知っています。言い換えれば、親がいなくては、生きてはいけないことを知っています。赤ちゃんがなぜ泣くのか。それは母親を呼んで泣くのです。そうしなければ生きられないからです。迷子の幼な子はなぜ泣くのでしょうか。それは、親を捜し求めて泣くのです。親が自分にとって最も大切なもの、かけがえのないものであることを知っているからです。そのように幼な子は、自分ひとりでは生きられないことを自然に知っています。親がかけがえのないものであることを知っています。うそをついて親にばれても、またすぐにゆるします。低いものであることを知っているのです。
神さまの幼子になってすがる
ところで、わたしたちにとって、父なる神様は、まさに天の親です。おとなから見たら、幼稚園児がお互いに「誰が偉いか」と言って比べているのを見たらこっけいであるように、天の父なる神様から見たら、わたしたちがお互いに「誰が偉いか」などと言っているのはまことにこっけいなことであるということになるでしょう。
むしろ、幼な子が泣いて親にすがり、迷子になったら親を捜し求めて泣き続けるように、また親に叱られたら「ごめんなさい」と言ってうなだれるように、わたしたちは神さまに対してそうあるべきなのです。人間だけを見ている、つまり横だけを見ている世界から、天にいます神を見上げる、つまり縦の世界に目を向けることです。
nibanmati
本当に偉い人はみなに仕える人です。自分より偉い人に、自分の気に入る人に仕えるだけではなく、子どものように小さいもの、弱い者、病んでいる者を大切にして仕える人なのです。
今の教会の現場を見渡すと、偉そうにふるまう人は結構いますが、学ぶ姿勢は――残念ながらーーあまりみません。神父でも、司教でも、枢機卿でも学ぶ姿勢がなければ、本当の奉仕者になれないとは決まっています。
本当の意味で偉くなるために、まず子供を受け入れなさい。子供にしつけをうける必要がある。学ぶ姿勢がある。偉くなるためには奉仕をすることを学ばなければならない。子供のようにすなおにまず教育を受けなければいけない。今の私たちの教会に大変必要なおことばではありませんか。
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