年間第28主日 B年
マルコ10.17-30
弟子たちの中で、そんなに金持ちはなかったはずなのですが、弟子たちはびっくりしてしまいました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。弟子たちならずとも、こう言われて驚かない者はいないでしょう。
とにかく弟子たちはこのときから、お互い金持ちになることだけは避けるようとしたのでしょうか。しかし世の中には、金持ちになってしまう方々がいるものです。大変な苦労をして金を作る人のいれば、親から受け継いで、宝くじがあって、金持ちになる人もいます。
そういう方々にとっては、きょうの福音のことばは厳しくて、耳痛いかもしれません。何しろ神の国に入れるかどうかというという死活問題、永遠の運命がかかっているのですから。
この不思議なことばの意味を解く鍵の1つとして、あのマタイ福音書25章の神の国に入る者の“リスト”を頭に入れておく必要があります。つまり、最も小さな者に何かをしてあげなかったささいな怠りが、神の国の入り口を阻むのだというのです。
その怠りとは、飢え渇く人に飲食物を与えなかったこと、病気の時の見舞い、刑務所訪問をしなかったことなどです。金を持ち過ぎたことについては何も触れられてはいないのです。
このことからしますと、お金を持つことは構わないが、勝負どころは、そのお金でどれだけ小さき者の世話をしたかというところにあるようです。
また、あの有名な「金持ちとラザロ」(ルカ16・19―31)の話でも、ある金持ちが、玄関先のすぐ近くにいた貧しいラザロに関心を寄せなかったことが問題とされています。「陰府の国に行った金持ちは言い渡されてしまいます。「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって」(同16・26)、この淵は越えられないのだと。
越えられない淵、通れない針の穴この2つはおそらく同じものでしょう。場所的に言えば、すぐ近くにいたラザロに対して、金持ちは小さな無関心を重ね、ついに越えられない淵をつくり上げてしまいました。
すると、ここで言われている「金とは一体何を指しているのでしょうか。それは実際の現金のみならず、人と人の間に淵をつくってしまう恐れのあるすべてのものということになりましょう。
http://www.cwjpn.com/kiji/konnakomichimo/komichiold/komichi3735.htm
お寺や神社に行きますと、よく、寄付をした方の名前が貼り出されているのに気づきます。人よりも沢山したらしい方々は、大きな字で、ご本尊に近い所に貼り出されていて、少しした方々とは違う特別扱いだったりします。日本には、「地獄の沙汰も金次第」というイヤな言葉もありますが、ああいうのを見ますと、結局、裕福な人の方が天国に近いのか、貧乏人は天国から遠いのか、という印象を受けます。この世の宗教を見ていると、そんな考えを持っているのかなあ、と思わざるを得ないことがあるのです。
ですから、今日の御言葉の23節で、イエス様が、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」とおっしゃった時、「弟子たちは、イエスのことばに驚いた。」(24節)とありますが、やはり弟子達も、この世の考え方、つまり、お金があるということは、沢山の寄付が出来るし、そういうお金があるということ自体が、神様から祝福されているしるしではないか、…というような、この世の考え方をしていたのだなあ、と思います。だから、イエス様の言葉に「驚いた」のでしょう。
この箇所の直前には、いわゆる「金持ちの青年」の記録があります。せっかくイエス様の教えを求めに来て、そしてその答えを頂いたのに、しかしそれが自分には厳しすぎるように思えたために、22節、「彼は、このことばに気を落として、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」ということになってしまったのです。金持ちであるがゆえに、イエス様を選びきれなかったのです。もちろんだからといって、私達が皆無一文になる必要があるのではありません。私達に必要なのは、お金にとらわれる心から解放されることなのです。お金への執着心は、私達が神様と共に歩むことを邪魔するからです。大切なのは、お金を沢山とか、全部とかいうことではなくて、信頼をどこにおいているのか、ということでしょう。幼子のように全幅の信頼感をもって、後のことの心配はイエス様に委ねて、ただイエス様について行けばそれでよいのだということでしょう。
さて、驚いた弟子達に、イエス様は重ねて語ります。
24節、「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
言い換えますと、「誤解するな。お金というものは、あなた達が神の国に入ることを助けるどころか、時にはむしろ邪魔になるのだ。あなた達の心を束縛し、それをささげるべき時に捨てきれない、という葛藤が生じるのだ。それほど人間の心は、お金にとらわれやすいのだ、というのです。
これは、私達の、そして弟子達の常識をひっくり返す言葉でした。
26節、「弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。『それでは、だれが救われることができるのだろうか。』」
一番入れそうな金持ちが入れないのであれば、それでは一体誰が、天の御国に入ることができるのだろうか…。金も力も無い俺達は、一体どうなってしまうんだろうか、と思ったのでしょう。
25節の、「らくだが針の穴を」というのは、通れるはずがありません。絶対に不可能です。では、金を出せば、天の御国へのこの小さな入り口は広がるのでしょうか。イエス様は、広がらない、と言われたのです。(この世の宗教は、それが広がるのだと教えて、人を惑わし、財を集めるのではないでしょうか。)
じゃあ、金を出しても広がらないのなら、一体誰がそこを通ることができるのでしょうか。・・・ここで、イエス様がおっしゃるのは、金持ちだけのことではありません。弟子達全員、私達全員に、「あなた達は、この針の穴を通れるか。」と問うておられるのです。
ここで、イエス様は何をおっしゃりたいのでしょうか。
それは、「人にはできないこと」だということを、徹底的に悟らせたいのです。
天の御国に入るということは、人間の力では出来ないことです。それを、「人の力でできる」と考えるのが、この世の宗教の大半でしょう。お金を出せば救われるとか、良いことをすれば報いがあるとか、えらいお坊さんにお経をあげてもらえば御利益があるとか。
しかし、そういうことが私達を天の御国に入れてくれるのではありません。人間は何をやっても、天国への針の穴を通ったわけではない。自分を救うことが出来ませんし、ましてや他人を救うことなど出来ません。出来るように思うのは、気休めに過ぎないのです。場合によってはごまかしにもなります。
「それは人にはできないこと」と、イエス様は徹底的に確かめさせようとしておられます。じゃあ、駄目なのか。人は誰も天の御国には入れないと、諦めなくてはならないのか。いや、そうではないのです。「人にはできない」ことが、「神にはできる」のです。
27節、「イエスは、彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。』」
人間にはできなくても、「神にはできる」のだということを悟り、そこに望みを置き、しっかりと信じなさい、と言うのです。救いがある所は、人間の側ではなく神様の側なのです。神様の一方的な愛・恵み・選び・救いの御業によってのみ、私達の救いは実現するのです。
27節で、イエス様は、この神様に全てがかかっているのだということを悟れ、と言っておられるのでしょう。そして、この神様が、今あなた達を愛し、救おうとしておられることを知れ、と言いたいのでしょう。そのようにして、この神様を天の父として、安心して、委ねて、信じて行けばそれで良いのだ、それが信仰というものなのだ、ということでしょう。
私達は今日、人には出来ないが、神には出来る、という所に私達の信頼を置いて歩む決心を固めましょう。そして、この世の素晴らしいもの・・・家、兄弟、姉妹、母、子、畑、…全てを御支配なさっておられ、それを私達に与えて下さる神様、そしてそれだけではない、永遠のいのちを与えて下さる神様をしっかりと信じて歩む信仰を確かめましょう。そのようにして、神様の方を向いて生きて行く、人生の方向を確かめたいと思います。
http://members.jcom.home.ne.jp/tamach/message/monthly/monthly9802.html
No comments:
Post a Comment