Sunday, March 24, 2013

29 per annum C


年間29主日C
【やもめと裁判官の譬え】
ルカ18:1ー8


「失望しないで祈るように」と、今日の福音書でイエスは希望について語っています。人生は、希望によって支えられています。


希望の学びやとしての祈り  
(教皇ベネディクト16世 回勅 『希望による救い』、2007年、カトリック中央協議会訳)

32 希望を学ぶための第一の根本的な場は祈りです。だれもわたしに耳を貸さないときにも、神はわたしに耳を傾けてくださいます。だれと話すこともできず、だれに呼びかけることもできないときにも、わたしはいつも神に語りかけることができます。人間が希望できることを超えた必要や望みに関して、だれもわたしを助けてくれないときも、神はわたしを助けてくださいます。わたしが徹底的な孤独のうちに追いやられても:::、もし祈るならば、わたしは完全に独りではありません。故グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿(一九二八-二〇〇二年)は、十三年間投獄され、そのうち九年間は独房で過ごしました。ヴァン.トゥアン枢機卿は『希望の祈り』という、小さいながら貴重な本を残してくださいました。獄中での十三年間、まったく絶望的に思われる状況の中で、神に耳を傾け、神と語ることができることが、ヴァン・トゥアン枢機卿の希望の力を強めました。この希望の力によって、ヴァン.トゥアン枢機卿は、釈放後、世界中の人々に対して希望の証人となることができました。この偉大な希望は、孤独の夜の中でも消えることがないからです。

33 聖アウグスチヌスは、ヨハネの手紙一についての説教の中で、祈りと希望の密接な関係をみごとな形で明らかにしています。聖アウグスチヌスは、祈りとは望みの実践だといいます。人間は偉大な存在である神ご白身のために創造されました。それは、神に満たされるためです。しかし、人間の心はあまりに狭く、人間が目指している偉大なものを受け入れることができません。ですから、心を広げなければなりません。「神は(ご自分のたまものを)遅らせることによって、一わたしたちの一望みを強めます。神は望みによって魂を広げ、魂を広げることによって一神を受け入れる一力を与えます」。アウグスチヌスは聖パウロを例に挙げます。
聖パウロは来るべきものに全身を向けるといっているからです(フィリピ3.13参照)。次いでアウグスチヌスはたいへん美しいたとえを用いて、人問の心が広げられ、整えられる、この過程について述べます。「神があなたを蜜[みつ](蜜は神の優しさといつくしみの象徴です)で満たそうと望んでいると考えてください。しかし、もしあなたが酢で満たされていたら、どこに蜜を入れることができるでしょうか」。あなたの心という器をまず大きくし、次に清めなければなりません。すなわち、酢とその味がなくなるようにしなければなりません。これは辛い労苦を必要とします。けれども、このようにして初めて、わたしたちは自分たちが目指すものにふさわしいものとなることができるのです{26}。アウグスチヌスは直接には、神を受け入れる能力についてのみ述べています。とはいえ、このことは明らかです。すなわち、わたしたちは、酢とその味をなくす努力を通じて、神に対して開かれた者となるだけでなく、他の人に対しても開かれた者となります。実際わたしたちは、神の子となることによって初めて、共通の父をもつことができます。祈るとは、歴史を離れ、私的な空間に引きこもり、自分の幸せを求めることではありません。祈りの正しい方法は、内的な清めを行うことです。内的な清めを行うことによって、わたしたちは神を受け入れることができ、そこから、人々をも受け入れることができるようになります。わたしたちは祈りの中で、何を本当に神に求めることができるか、すなわち、何が神にふさわしいことかを学ばなければなりません。わたしたちは、他人に敵対しながら祈ることができないことを学ばなければなりません。わたしたちは、今このときに欲しい、表面的な快適さを祈り求めることができないことを学ばなければなりません。このような誤った小さな望みは、わたしたちを神から遠ざけるからです。わたしたちは自分の望みと希望を清めなければなりません。わたしたちは、自分白身を偽るような隠れた嘘から自由にならなければなりません。神はこのような嘘を見通されます。また、神の前に出れば、わたしたちもこの嘘を認めざるをえません。詩編作者は祈ります。「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください」(詩編19.13)。自分の罪を認めることができなかったり、自分が無実であると錯覚していたとしても、それで自分を正当化することはできませんし、それが自分を救うことはありません。なぜなら、良心が麻痺したり、自分をありのままに認めることができないことは、わたしの責任だからです。神が存在しなければ、わたしはこれらの嘘に逃れ場を求めなければなりません。わたしをゆるすことができる者がだれもいないからです。だれも真の基準となってくれないからです。しかし、神との出会いは、わたしの良心を呼び覚まします。こうして良心は自分を正当化しようとしなくなります。また、良心は、自分や、自分の意見を左右する同時代の人間の反映ではなくなります。良心は善であるかた白身に耳を傾けることのできる力となるのです。

34 このような清めの力を深めるために、祈りはまず個人的なものとならなければなりません。わたしの内面と、神との、それも生きた神との出会いとならなければなりません。同時に、教会と聖人の優れた祈り、また典礼の祈りがこの祈りをつねに導き、照らさなければなりません。こうした祈りの中で、主は正しく祈ることを教え続けてくださるからです。グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿は、黙想の書の中でいいます。その人生の中で、枢機卿は長い間祈ることができませんでした。そして枢機卿は、教会の祈りのことばを唱え続けました。すなわち、主の祈り、聖母マリアヘの祈り、典礼の祈りです(27)。祈りはつねにこうして公的な祈りと個人的な祈りを組み合わせて行わなければなりません。このようにしてわたしたちは神に語りかけることができます。また、このようにして神はわたしたちに語りかけることができます。こうしてわたしたちは清めを行います。清めを通してわたしたちの心は神に開かれたものとなり、人々に奉仕するよう整えられます。こうしてわたしたちは偉大な希望を受け入れることができるようになり、そこから、他の人のために希望に奉仕する者となります。キリスト教的な意味での希望は必ず、他の人のための希望です。それは生き生きとした希望です。わたしたちはこの希望によって、すべてが「誤った終わり」(カント)に向かうことがないよう戦うからです。それは生き生きとした希望です。なぜなら、わたしたちは世をいつまでも神に開かれたものとするからです。このようにして初めて、希望は真の意味で人間らしいものとなることができるのです。

(26) 聖アウグスティヌス『ヨハネの手紙一講解』(S. Augustinus, In Ioannis epistulam ad Parthos tractatus 4, 6: PL 35, 2008s) 参照。
(27) グェン・ヴァン・トゥアン『希望のあかし』(Nguyen Van Thuan, Testimono della speranza, Citta’ Nuova 2000, 156s)。


年間 第32土曜日??
??「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」
ルカ18・1-8
? 私たちの現実の中で、神の言葉は必ず成就するのだと信じて、生きていくために、どうしても必要なことは祈りである。祈りとは、私たちが神に求めていくものだと考えがちである。もちろんその祈りも大事であるが、祈りの根本は、願いや求めではなく、神の言葉に従って生きていこうとする者の、直面する困憊(こんぱい)や、不安の中から生まれる叫びだと想う。これでよいのですか、こんなことをしていてだいじょうぶですかという叫びだと思う。パウロも次のように証言している。「十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」(コリントI.2.2ー3)。イエスの十字架だけで生きようとしたとき、彼もまた非常に不安を感じたのである。そのように神に信頼をおけばおくほど、私たちは不安を感じ、その中から叫びが出てくる。私たちが信仰生活をしていくとき、不安を感じてこないのは、神の言葉をまともに聞いていないからである。イエスの祈りはどうであったろうか。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」(ヘブル・5・7)とあるが、それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」-すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ・27・46)に見られる。このときだけ、ただ祈ったというのでなく叫んだと書かれてある。神に祈っているのか、人に聞いてもらっているのか、神様感謝いたしますという最後の言葉がなければ、祈りかなにかわからないあいさつのような祈りをする人がいます。祈りは、祈る言葉とか、祈る時が問題ではなく、私たちが神に対してどのような生き方をしているかが問われるのである。神への深い信頼と真実の生き方からだけ叫びの祈りは生まれてくる。(榎本)

年間 第27木曜日
ルカ11・5-13

? このたとえ話は、祈りの福音書とも言われ、祈りについてもっとも多く語っているルカだけのものです。祈りについて大切な二点が述べられています。第一は、「根気よく」、第二に、「心の触れ合いのもとに」、「親しさのもとに」、祈るということです。それによって祈りは必ず聞き入れられます。ごく親しい友人同士でなければ、真夜中行ってパンを貸してくれと言ったりはしないでしょう。
神に向ける祈りの条件は、ただ長い時間をかけて願うということではなく、なによりも日頃から深い心の触れ合いのある友人同士なので、迷惑をかけても承知の上で、大胆にしつこいほど頼んでもいいということです。イエスの祈りはどうだったでしょうか。オリーブの山で、「父よ、み旨なら、この杯を私から取り去って下さい。しかし、私の思いではなく、み心が行われますように」といのりました。イエスの祈りは聞き入れられました。しかし、その場ですぐに苦しみが取り除かれたのではなく、その苦しみを通して、イエスが本当に望んでおられたことが実現したのです。
私たちが人間の小さな頭で考えて望んだことよりも、もっとすばらしい方法で、私たちの望みが実現すると保証されています。(ネメシュ)
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難しい現実に立ち向かおうとする時、私たちは、キリストの視点に立つことが大切です。どんなに時間がかかっても、無駄に思えてもキリストの生き方に従う力を、願い求める人々に聖霊を約束してくださった神から頂くよう祈りたい。??
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「求めるものには」、「探すものには」、「門をたたく者には」ということばを、条件と受け取ってはいないでしょうか。父である神は、無条件にわたしたちを大切にして下っています。与えられないのは、見つからないのは、開かれないのはヒョッとしたら与えられているのに気付かず、目の前にあるのに見ようとせず、開いているのに別のところをたたいているのかもしれません。

主よ、わたしの思いではなく、あなたの思いを悟らせてください。sese
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ホミリア(世界宣教の日)和泉教会 19/10/2025

兄弟姉妹の皆さん、
今日は「世界宣教の日」です。全世界の教会が、祈りと関心、そして具体的な支援をもって、福音をすべての人々に告げ知らせるという使命を新たに心に刻む日です。

第一朗読の出エジプト記では、アマレクとの戦いの場面が描かれました。モーセが手を上げて祈るとイスラエルが優勢になり、手を下ろすと劣勢になる。そこでアロンとフルが両側から支えて、モーセの手を上げ続けさせました。ここには、神の民が勝利するために「祈り」と「支え合い」が不可欠だという深い真理が示されています。宣教も同じです。前線で福音を告げ知らせる宣教師だけでなく、祈りによって、また具体的な援助によって彼らを支える人々がいてこそ、教会は共に神の働きにあずかることができます。

第二朗読、2テモテへの手紙では、パウロが「聖書にとどまりなさい」と呼びかけます。神の言葉は「教え、誤りを正し、義に導く」力を持っています。そして彼は若い弟子に「みことばを宣べ伝えなさい」と勧めます。これはまさに今日、世界宣教の日に響く御言葉です。宣教の原動力は私たちの工夫や力ではなく、神の言葉そのものです。私たちがその言葉に養われ、心に燃えるものがあるとき、それが外にあふれていくのです。

福音書では、やもめが裁判官にしつこく訴え続け、ついには願いを聞き入れられるというイエスのたとえが語られました。これは「絶えず祈りなさい」という教えです。宣教もまた、祈りの中で神にしがみつくような粘り強さが求められます。宣教は人間の事業ではなく、神ご自身の業だからです。私たちが諦めずに祈るとき、主は必ず働かれます。

兄弟姉妹の皆さん、
宣教は、遠い国に行く人だけのものではありません。モーセの両手を支えたアロンとフルのように、祈りと小さな献げものによって、私たちは宣教に深く関わることができます。そして身近な家庭や職場で、聖書の言葉に根ざして生きること自体が、力強い宣教の証しとなります。

この世界宣教の日にあたり、私たちがもう一度、「福音をすべての人に」という教会の普遍的な使命を自分のものとして受け止めましょう。祈りをもって宣教師を支え、日々の生活の中で神の言葉を証しし、そして心からのささやかな献げ物によって、世界中の兄弟姉妹とつながりましょう。

最後に、今日の御言葉を一つにまとめるならこうです。
「祈りによって支え合い、みことばに根ざし、粘り強く主に信頼して、福音を世界に告げ知らせなさい。」

One way of viewing all that, however, is that God has a high opinion of us, higher than we have of ourselves. HE believes we can do things that WE don't believe we can. (And in truth, a life without significant challenges would be a boring life.) So even as we feel the immense gap between what we can do and what we think needs to be done, we can also recognize that we're in training for something we can't really imagine. The kind of perfect peace, illumination, love that God originally intended for us.
C.S. Lewis called this the "weight of glory," a great phrase that reminds us that we are going to be weighed down by challenges so that we can rise up – a typical paradox of Christianity.Lewis describes this as "a load so heavy that only humility can carry it, and the backs of the proud will be broken."
What we're faced with today is the re-conversion of our whole society, something like how the early Christians converted the Roman Empire. We know that Christians practiced conspicuous charity, caring for the elderly, the sick, the poor, the marginalized, those in prison, babies no one wanted. Many came to Christianity because of those corporal works of mercy and love. You are continuing that tradition.

こちらを日本語に訳しました。なるべく原文のリズムやニュアンスを保ちつつ、自然な日本語になるようにしています。


とはいえ、別の見方をすれば、神は私たちをとても高く評価しておられる、私たち自身が自分を思う以上に高く評価しておられる、ということです。神は、私たち自身ができないと思っていることを、私たちができると信じてくださっているのです。(実際、重大な挑戦のない人生など、退屈な人生でしょう。)だから、自分ができることと、やらねばならないと感じることとの間に大きな隔たりを感じながらも、同時に、私たちは自分では想像もできないような何かに備えて訓練されているのだと認識することができます。神がもともと私たちのために意図された、完全な平和、光明、愛のようなもののために。

C.S.ルイスはこれを「栄光の重み」と呼びました。すばらしい表現であり、それは、私たちが挑戦によって重く負わされることで、むしろ高く引き上げられるという、キリスト教特有の逆説を思い起こさせます。ルイスはこれを「謙遜だけが担うことのできるほどの重荷であり、傲慢な者の背を折るほどのものだ」と述べています。

今日、私たちが直面しているのは、社会全体の再回心という課題です。それは、初期のキリスト者たちがローマ帝国を回心へと導いたことに似ています。キリスト者たちは顕著な慈善を実践しました。高齢者、病人、貧しい人、疎外された人、囚人、望まれなかった赤ん坊を世話しました。そのような肉体的な慈善と愛のわざを通して、多くの人々がキリスト教に惹かれていったのです。そして、あなたがたはその伝統を今も引き継いでいるのです。

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