年間28主日 C
ルカ17:11-19
重い皮膚病を患っている十人の人をいやす
復活節 第3月
ヨハネ6・22-29
つまりどんなに大きな奇跡を経験していても、それがイエス・キリストが「神から遣わされた者」であることを読み取るしるしにはなるとは限らないのです。見ることと、見抜くことは違う、あるいは見ることと見分けることは違うということです。見てはいても見抜くことができない。あるいは見分けることができない。イエス・キリストは別のところでイザヤの言葉を引いて「あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(マタイ13:14、イザヤ6:5)とも言われました。
これは今日の私たちにもあてはまることではないでしょうか。私たちも、時々不思議な出来事に遭遇いたします。その時に、同じ経験をしていても、ある人はそれを単なる偶然と見ますし、ある人はそこに何らかの神様の働きを見ます。いい出来事があった時に、ある人はそれを単にラッキーと喜ぶだけですが、ある人はそこに神様の恵みを覚えて、感謝をします。逆に悪いことが起こった時にも、そ
れをただ不運と見るのか、あるいはそこに神様の何かしらの警告を見るのか。「神も仏もあるものか」と思うか、あるいは「どうして神様はこのようなことをなさるのか」と深く考えるか。そこに違いが出てくるのではないでしょうか。http://www.km-church.or.jp/index.html
年間 第32水曜日・パウロ会 96/11/13????? ルカ17・ 11-19 ?
「健康さえあれば恐いものなし」と思っている人々はたくさんいますが、しかし体の健康よりも心の健康の方が大切であることを改めて学ぶ必要があると思います。らい病を患っていた人々は病気のときにグループとして行動し、助け合っていたが、元気になったとたん、ばらばらになりました。自分たちの心の病気に目を止めていなかったからでしょう。(ステファニ)イエス様はこの人々のいのちを助けて上げたけれども、決して恩きせはしません。完全に彼らの自由にまかせます。困った時に、助けを求めますが、よくなりますと、(のどもとを過ぎれば熱さわすれる)恩を忘れて平気な顔をします。信仰生活の場合もそうですが、困っているとき神の助けを求めますが、一応問題が解決しますとイエスの言うことを聞かなくなります。恩着せがましい神様に従った方がいいなのでしょうか?自由にしてくださる神様に従うことにどのような意味があるのでしょうか?
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わたしが患っている重い皮膚病は何か。わたしを他者から隔ててしまう心の傷、エゴイズム、偏見、プライド・・・。その重さにわたしは気付いているだろうか。声を張り上げて、「イエスさま、憐れんでください」と叫ぶことができるだろうか。実際に私たちは既に、イエスの血と水によって清くされた。その事実を見ようとしているだろうか。
主よ、敏感な心をお与えください。日々あなたに癒して頂いていることに気付き、感謝のうちに生きていけますように。
聖書では救われるということは、ただ自分の問題が解決されることではなく、その自分の問題を解決してくださったかたが誰であるかを知って、そのかたを信じるようになること、そのかたと交わるようになることだというのです。
自分が本当に救われるためには、ただ自分が幸福になることではなく、自分を幸せにしてくれるかたと交わること、自分以外の人に目を向けることなのではないか。自分だけに向けられていた目を、他の人にも向けるということです。
ナアマンは預言者エリシャのところに彼のほうから出かけていって、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。これからはただイスラエルの神、ヤハウェだけにひれ伏します」と言って、預言者エリシャに感謝をするのであります。
この記事は、われわれが本当に救われるためには、あまりきれいでもないヨルダン川に七度自分の身を清める、そういうへりくだるという行為をしないとわれわれは救われないのだということをよく示している記事であります。彼は将軍ですから、英雄的なかっこうのいいことなら、喜んですることができるのです。
しかし神を信じるというこは、そういうことではなく、神の前に身を低くすることであります。神の前にひれ伏して、砕けた魂を捧げることなのであります。そういう信仰をわれわれがもてないならば、われわれの病は一時的にはいやされても、われわれの体の根源にあるわれわれの罪は清められることはない、救われることはないのであります。
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年間第6主日B
マルコ1・40-45
「重い皮膚病」は聖書の中で以前は「らい病」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に新約聖書・新共同訳で「重い皮膚病」と訳されることになりました。差別的なニュアンスのある「らい病」という言葉を避けるためであり、また、聖書の中のこの病気が現代医学の「ハンセン病」と同じだとは言い切れないからです。しかし、「重い皮膚病」と言ってしまうとあまりに漠然としていて、古代から続くハンセン病の患者たちの大きな苦しみを感じることができなくなってしまうかもしれません。
最近のハンセン病の国家賠償請求訴訟の報道で、元患者さんたちがマスコミの前に堂々とお出になるようになりました。比較的後遺症の軽い方々がテレビに登場されたのですが、それでも、顔の表情が変わってしまわれたり、手の指が失われていたり、関節が曲がったままになっていらしたり、歩けなくなる方もいる。症状が進むと、失明もするのです。そうするとここを「重い皮膚病」と訳すのは、やはりこれもまた十分ではない。だいたい現代では、「重い皮膚病」と言えば、ハンセン病のことを連想する人はまずいないでしょう。むしろほとんどの人は、「アトピー性皮膚炎」を連想することでしょう。
しかしいずれにしても、十分な訳語が見つからないこともまた事実でありまして、それがまたこの問題の歴史を表しているようなものなのです。
さて「らい病」と判定された者は一般社会から隔離された所に住み、普通の人と交わることはもちろん、近づくことさえ許されていなかった。人が近くに来ると、「汚れた者、汚れた者」と叫んで、その存在を知らせなければならなかった。ただ神だけがらい病を清めることができるとされ、らい病人の清めはメシヤがもたらす終末的な祝福の一つとされたいた。
洗礼者ヨハネが弟子を遣わして、「『来るべきかた』はあなたですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と訊ねた時、イエスはこう答えておられる。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」また、イエスは十二弟子を宣教に派遣するにあたって、こう言っておられる。「 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」(マタイ一〇・七~八)。これらの箇所で「らい病人の清め」が他の病気の癒しとは別の種類の業として扱われていることが注目される。それは「清める」という動詞が示唆しているように、単なる身体の病気の治癒ではなく、「汚れた者」として神の民の交わりから断たれていた者が「清い者」として再び神の民の交わりに迎え入れられることを意味している。「らい病人を清める」ことは、「死人を生き返らせる」ことと並んで、終末時の神の業として特別の意義を持っているので、マルコは一人のらい病人の癒しを他の多くの癒しの業の中に埋没させることなく、詳しく伝えるのである。
やはり、ここでらい病は罪を背負っている人間の状態を描くシンボルだと思われます。神も隣人も愛せない人間がらい病患者のようなものだ、そのような恐ろしい難病にかかっているようだ、というわけです。
さて、イエスがガリラヤのある町におられた時、「ひとりのらい病人がイエスのもとに来て、ひざまずいて願って言った」。らい病人は人に近づくことも許されていなかった。彼がその律法の枠の中に止まっていたならば、救われることはなかったであろう。彼が癒されたいという切なる願いと、イエスに対する信頼とによって、律法という隔ての垣根をあえて踏み超えて、イエスのもとに来てひれ伏した時、救いが始まったのである。イエスも律法を超えてらい病人を受け入れておられる。イエスのもとにひざまずくらい病人、そこはすでに律法を超えた場である。
「あなたはわたしを清めることもできるかたです」と彼は言っている。らい病人を清めることが神の終末的な業であることを考えると、本人は自覚していたかどうかはわからないが、この告白はイエスを終末的メシヤと告白する重大な意味を持つものになる。とにかく彼は人間の力が絶する所でただイエスの中に働く神の力だけに頼り、「それがあなたの意志であれば」と言って、自分の死生をイエスの意志に委ねて、その足元にひれ伏したのであった。
この一言にこの人の、すべての思いが語られているように思えるのです。なんというすばらしい信仰告白の言葉でしょうか。誰にも解決できない、治すこともできない、そして言われなき差別と偏見、そして自ら「汚れた者」と言わなくてはならない屈辱の中に生きてきた。しかしこの人は言葉を発しました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」‥‥イエスさまならいっさいを解決することがおできになりますと。
すると、イエスさまは手を差し伸べて、その人に触れました。イエスさまは病気をおいやしになるとき、いつも手を触れたわけではありません。言葉だけで命じて、病気をいやされたことも多いのです。しかしこの時は、手を差し伸べて、この人に触れました。これを見ていた人はどんなに驚いたことでしょうか。誰も触れない、いや触れてはならない病気にかかった人、その人に主イエスは手を伸ばして触れられたのです。群衆の目が、そのイエスさまの手に釘付けにされたことでしょう。
そして主は言われました。「よろしい。清くなれ。」そしてその人のらい病はいやされてしまいました。
これがキリストの奇跡です。イエスさまの奇跡は、愛の奇跡です。ただ人を驚かすだけの奇跡ではありません。そんなものは奇跡ではないのです。誰も触れることのなかったところに手を伸ばして触れられ、いやして下さる方です。これが私たちの主です。この方が、私たちのためにも十字架にかかってくださったのです。この方が、私たちの生涯の主です。私たちと共に歩まれる方です。感謝ですね。
常識の世界に住んでいる人間が、信仰の青空を見上げると、そこに奇跡という雲がかかっていて、理解を妨げているように見えます。信仰のある人にとっては、奇跡は当り前かもしれません。しかし又、信仰を求めていながらまだ得られない人にとって、奇跡は実にやっかいなもので、天国の門前にいるお鬼のようなものです。奇跡が信仰を生むのか、信仰が奇跡を生むのか。どちらが先か分からない問題の例として「たまごが先か、にわとりが先か」というのがあります。しかし、信仰は人間の産物ではなくて、神の賜物だとすると、奇跡が分からないと言って思い悩むのではなく、信仰を与えて下さいと願い求めることが大切です。そしてその信仰は、復活のキリストに出会うという経験によるのです。生けるキリストに出会って倒される。そして彼に起こされる。すると倒される前の自分と、起こされてからの自分とでは本質的に全く異なっている自分を発見するのです。復活のキリストとの出会いという最大の奇跡を経験すると、他のもろもろの奇跡は、いかにもイエスにふさわしいものに見えてくるから不思議です。
このらい病人は神の力を体験した喜びのあまり、自分の身に起こった事を語らないではおれなかったのであろう。彼がこの事を言い広めたので、ユダヤ教当局からイエスはメシヤを自称して民衆を扇動する者ではないかと疑われるようになり、町に入り会堂で公に宣教することができなくなり、町の外の寂しい所で教えるようになった。これまでは「諸会堂に入り、福音を宣べ伝え」ておられたのに、これ以後は会堂での宣教はごく僅かになり、おもに海辺や家の中、山辺や旅路で語られることになる。それでも、イエスが行かれる所にはいつも律法学者たちがいて、イエスの言動を監視し、批判し、論争するようになる。
福音書のテーマの一つは、イエスに対する人間の無理解があります。親しい少数の弟子たちですら、聖霊降臨の経験を得るまで、十字架のイエスを理解していません。まして一般の民衆たちは、奇跡を行ない、病気を治してくれるイエスを崇め敬いますが、世の罪を負って十字架に向かうイエスには無関心です。イエスは病気の治療を使命の一つとして引き受けながらも、神を愛して十字架の道を歩むことを教えるという、真の救済に至る福音には程遠いことを感じて、口止めしたのではないでしょうか?
主よ、
自分の利益だけを求めようとする
心の病を癒してください。
あなたの愛をもっと深く知り、
あなたのように愛する恵みを
お与えください。
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病を癒された十人のうち、感謝のためにイエスのもとに戻ってきた者は、たった一人だったのです。その一人に対してイエスはあなたの信仰があなたを救った、と宣言されます。今日の物語のテーマはここにあります。病が癒されたことに救いをみるのではなく、感謝のために戻ってきたということに救いをみています。今日ここで、感謝の心と救いの関係を確かめてみたいと思います。
まず、十人のらい病に苦しんでいる人々のことを考えてみましょう。彼らは、自分の悲しい現実を、本当に苦しんでいたと思います。治るみこみのない病気。当時はそう考えられていました。体は徐々に徐々にむしばまれていきます。人々の助けと支えを必要としているにもかかわらず、村の共同生活から追放されます。村に入るときには鈴をつけて自分の存在を知らせなければなりません。人々の白い目、冷たい視線をおびながら、孤独の中に、病気を耐えていかなければならなかった人々。どうしようもないやみの中にとざされ、すべてをあきらめなければならなかった人々。そうした人々の心に、イエスのうわさはどのように伝わったかわかりません。おそらく、おぼれる者がわらをもつかむような思いで、イエスとの出会いを首を長くして待っていたのではなかと思います。
彼らはイエスが自分たちの近くの村においでになったと知った時、この機会を逃がすまいと、遠くから、声を限りにイエスに向かって叫びました。その叫びは、自分のどうしようもない状態に、力強い助けを求める呼びかけであると同時に、みんなから捨てられてしまった人々が必死に、あたたかな合いの手を求める叫びでもあったのです。
自分で自分を支えきれない弱さと悲しさ、そして他人の助けと支えを求めざるをえないという状態、それは形こそちがうでしょうが、私たちすべての人間に共通なことです。人間存在そのものが、他人の愛と力を求めているのです。聖書の中に登場する病んだ人々は、ときとして私たちそのものです。実際、私たちは弱く、病んでいるのです。私たちは自分の力では生きていけないものです。
考えてみてください。私たちは生まれたその瞬間から、私たちをあたたかく受けとってくれる両親を必要としています。食べるものをはじめとして、生きていくためのすべてを与えられなければ、存在を続けることさえできないのです。それは成人したあとも同じことです。他者の力を借りず、自分一人で生きていける、生きていると思っている人は傲慢であり、大変な錯覚の中にいるのです。(商売をする人は、お得意さんを必要としています。会社がなければ仕事できない)。
衣食住だけではありません。精神的な支えにおいても、私たちは、他人のあたたかな心を必要としています(差別されている人に聞いてください)。現代の心理学者たちは、人間の魂は、愛という栄養分を求めていると言い切っています。食べ物だけでは心は育たないということです。あたたかな好意にみちた愛につつまれるのでなければ、人間の心は成長しないのです。つまり、私たち人間が生きていくことができるのは、私たちの上に神のあたたかな愛の力がそそがれているからです。しかもその愛と力は、無償で与えられるのです。私たちは、愛と力を要求できる権利も資格も価値もありません。すべては恵みです。恵みの中で、私たちの人生があるのです。これからの人生も、恵みの中にあるのです。この事実に目覚めること、そこに感謝が生まれます。感謝が生まれれば、より深く、神の愛とつながることになります。そのつながりが私たちに安定を与えます。
いやされたことに気が付いた感謝のためにもどってきた男に向かって、イエスはいわれます。
「あなたの信仰があなたを救った」と。
感謝のためにもどってきた男は、イエスの愛と力に、より深く、より確かにつながれたのです。彼の心に、より深くイエスが入ってこられたのです。それが彼の救いとなったのです。後の九人は、病がいやされても、このあとも自分勝手、自分中心な孤独な生活を続けたのではないかと思います。
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