年間18主日 C
【ルカ12:13-21「愚かな金持ち」の譬え】
叶えられた祈り
(ニューヨーク大学リハビリセンター「Rusk Institute」の 建物に刻まれている作者不詳の詩)
I asked God for strength, that I might achieve, I was made weak, that I might learn humbly to obey.
自ら成し遂げるために 強さを与えてほしいと、神に求めたのに
私は弱さを与えられた 神に従う謙虚を学ぶようにと
I asked for health, that I might do greater things, I was given infirmity, that I might do better things.
もっと偉大なことができるように 健康を求めたのに
私は病気を与えられた もっと善いことができるようにと
I asked for riches, that I might be happy, I was given poverty, that I might be wise.
幸せになれるように 富を求めたのに
私は貧困を与えられた 賢明になれるようにと
I asked for power, that I might have the praise of men, I was given weakness, that I might feel the need of God.
人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
私は弱さを与えられた 神の手助けを望むようにと
I asked for all things, that I might enjoy life, I was given life, that I might enjoy all things.
人生を楽しめるように あらゆるものを求めたのに
私は命を与えられた あらゆることを喜べるようにと
I got nothing I asked for. but everything I had hoped for.
求めたものはひとつとして与えられなかったが
私の願いはすべて聞き届けられた
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
わがままばかりを望んだにもかかわらず
言葉にできなかった祈りはすべて叶えられた
I am among men most richly blessed.
私はあらゆる人の中で
もっとも豊かに恵みを受けたのだ
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昨日の新聞で読んだことだが、名古屋家庭裁判所で、去年受け付けられた遺産相続にまつわる訴訟は650件でした。一日に二件です。
遺産相続の問題で、兄弟が争いをくりひろげるというのは、イエスの時代でも、今の私たちの時代でも、そう変わりはないようです。なぜなら、富や財産への執着は、いつの時代にも変わりなく、人間本性からくるものだからです。たしかに富や財産は、環たちたち人間にとっては大変魅力あるものです。「のどから手がでる」ほど、人が求めるものです。人生は財産の有無によって、右にも左にも大きくゆれます。財産がないということは、私たちに生きることへの不安を与えます。あす、どうやって食べていけばよいのか、困ってしまいます。みじめな思いに耐えながら毎日を生きていくことになります。
ところが、富に恵まれれば、どうでしょう。心は落ち着きます。安らぐことができます。余裕もでてきます。富の力で自分の望みもかなえられます。人生のいろいろな可能性もひらかれてきます。富のあるところには人もよってきますから、寂しい思いをすることもありません。富の力で社会的地位も上がります。「地獄の沙汰も金次第」とあるように、金は、人生を生きていくうえでの、現実的な力です。だれもみな、金の魅惑にひかれます。「黄金は鉄のような男の心をとかす」ということわざのとおりです。
旧約聖書の世界は、貧困と富とが形作る社会の現実を、鋭くありのままに観察しています。
「富は多くの友人をつくるが、貧しい人は友人に見捨てられる」(箴言19・5)
「金持ちが足を滑らすと友達が支えるが、身分の低い人が倒れると、友達ですら彼を見捨てる」金持ちが滑ると助ける人は多く、ばかなことを話しても、人はもっともなことだという。しかし、身分の低い人が滑ると、人々は彼を責め、たとえ賢いことを話しても、なんの注意もはらわない」(シラ書13・21-22)。
金持ちがおだてられて、丁寧にもてなされる。これは、今の時代でも同じです。富に恵まれれば、どんな愚か者も賢者にみえ、どんなに汚れた娼婦も貴婦人になる、というようなことを、シェークスピアがどこかで皮肉交じりに書いていました。人は富によって人生の表面をきれいに飾り、自分の醜さや愚かさの覆いをかけることができます。
しかし、人間の本質そのものを変えることはできません。人間の弱さ、もろさ、はかなさ、有限性は貧富の差なく、すべての人につきまとうものです。それを変える力は、人間にはありません。富も才能にもその力はないのです。
人間の有限性、病、老い、死は例外なくすべての人の人生を襲ってきます。特に死は、すべての人に公平です。重い病気を患うことなく、老いの苦しみも知らないまま、人生を終える人はいるでしょう。しかし、死を避けることのできる人はいません。どんな偉大な政治家であれ、どんな金持ちであれ、死は、例外をゆるしません。たとえこれから、科学のすばらしい発展があっても、人間の寿命がどんなに延びても、人間が死を避ける力を獲得することは不可能です。死は絶対です。死を迎える時、財産のすべてはこの世界に残ることになります。裸で神の御前に立つのです。「私は安心できるようになった。これからこの財産で安心に生きられる、というその日でも、その安心がいつまで続くものか知らず、それを他人に残して死ななければならない」(シラ書11・19)
神の御前に富も財産ももっていくことはできません。神の御前には、人間は生まれた時と同じように裸です。
「母の胎内からでてきた時のまま、裸にかえって、彼は去る」(コヘレト5・14)
生まれた時は裸でも、その裸をおおい、守り、かばってくれる人がいました。しかし、死の時、神の御前で、だれひとり、守り、かばってくれる人はいません。この世界で得た富も名声も、神の御前でははなんの力にもなりません。そんなものは、神の御前ではちりあくたのようなもの。キリストは、財産を蓄え、現実の生活を楽しむことだけにきゅうきゅうとした人のことを、「愚か者」と呼んでいます。
私たちの人生の旅路の果てに、父なる神が待っておいでになる。人生は神との出会いのための準備であるという自覚(感覚)をもって生きていく人こそ、真の賢者といえるのです。
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