王であるキリストC
【ルカ23:35-43十字架につけられる】
今日は王であるキリストの祝日です。今の世界の中で王様、女王様、天皇陛下のような方々がいますが、私達の毎日の生活に影響を感じることは少ないです。東京にいらっしゃる天皇陛下とその奥様皇后美智子様はやさしいご夫婦というイメージがありますす。美智子様はカトリックの聖心大学の教育を受けておられますので、すこし親近感があります。イギリスのエリザベス女王は九十歳を超えましたが今でも国民の為に力を尽くしています。チャールズ皇太子にはダイアナの問題があったときに一番つらかったといわれています。でも今ニュースで、エリザベス女王の孫(まご)、ウィリアム王子の奥様ケイト妃(ひ)はとても人気ですね。明るくてきれいなファッションで、家族のためのいい模範を表しています。昔、王様のイメージは厳しく、絶対的な権力を持っていましたので、怖かったのですが、ケイト妃はとても可愛らしい、愛情深いイメージを表しています。
王様は、大変厳しい井マージから、もっと優しいイメージに変わったのは、今日の王であるキリストと関係があります。この祝日は始まったのは、1925年からです。
その時に、ヨーロッパで二つの新しい勢力がありました。ソ連の共産主義とドイツのナショナリズムです。この二つの考え方の共通のポイントは、人々は自由な生活ではなく、偉い人々の考えの下に生活するということです。これに反対することは犯罪になります。この大変な雰囲気の中で、教皇様ピオ11世は王であるキリストの祝日を定めました。
その目的は、信者たちの一番大切な導きの王様はイエス様であるということを忘れないためです。最近、自由を奪いたいまた新しい政治的な勢力が現れています。テロです。シリアから生まれて、テロリストのグループが暴力を使い、人々に自分の考えを押し付けています。最近フランスで沢山の人が亡くなったり、シリアとその他イスラム諸国からたくさんの難民が溢れています。ですから、現在に生きている私達も、王であるキリストの祝日に希望と平和を祈ります。
わたしたちは、誰を取り上げても、完璧な立派な生き方をしていると、人前で自慢できる人はいないのではないでしょうか。限りなく“アバウト”に生きています。それだけに相手の“アバウトな生き方”にも、理解を示すことができます。事実はそうなんですが、ときどき「変な虫」が動き出すのです。
「利己主義」という虫です。相手をこき下ろし、自分を、なにがなんでも正当化していく「強烈な虫」です。 このような現実を抱えているわたしたちであっても、イエスさまからの救いへの招きに応えるのに、遅すぎるということはないのです。命があるということは、その実、応答する機会をいただき続けている事の証明でもあるからです。
ある時を見逃してしまったとしても、次のチャンスを期待し、回ってきたときに応答すればいいのです。 ルカが伝えようとしているイエスさま像(メシア)は、このことではないでしょうか。つまり、死を目の前にしたぎりぎりの瞬間でも、回心するのであれば、イエスさまはその人を「思い出してくださる」のです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。
問題はわたしたちの方です。神が忍耐強く、あわれみ深い方である一方で、わたしたちがゆるしを求めるのに「倦(あぐ)む」ことです。神は倦むことなくわたしたちをゆるして下さいますが、わたしたちはゆるしを求めることに「飽きてしまう」のです。「あわれみ深いかた」ということがどのような内容を示されるのか、じっくりと知る必要があります。 神とわたしたちの縦の軸と横の軸の真ん中にイエスさまがいて、その視線とあわれみの心のまなざしは、360度に展開されます。
王であるイエスさまの権威をもって、豊かさ、愛(いと)しみを遺憾なく発揮してくださいます。その視線の範囲の中で、わたしたちは救いへの機会をもらい続けているのです。真の王は、威張るのではなく、まさに、じっと「待ってくださる」方なのです。
“王であるキリスト”の祝日は、キリストが王であること、そして私たちがキリストの教えて下さったその“王職”に与ることをもう一度思い出す祝日です。そしてもうひとつは収穫に対しての感謝、また、「1年間ありがとうございました」という心を表すという意味を持っています。
イエス様はどのような王様だったのでしょうか。それについて簡単に要約してみます。 まず、“一致”の王様です。一致の意味は?“ひとつになる”こと、国は王の下に一つになるでしょう。 どのようにひとつであることを一致と言いますか? キリスト教が“一致”と言う時には、その中に必ず“十字架”があります。イエス様が一致の為に見せてくださった十字架があります。あらゆる団体や共同体を見てみましょう。家族の崩壊、家庭の崩壊がどの国においても見られます。夫婦が別(わか)れ、子供たちがばらばらになって、帰るところさえ探すような時代になっています。兄弟が兄弟らしくなく、色々な分裂のかたちがすぐ目に入ります。それは何故でしょうか。国がばらばらになり、社会がばらばらになり、家庭がばらばらになる。それはどういうことでしょうか。イエス様が見せて下さった一致の意味が分からないからそうなるのです。その一致を求めるには、必ず十字架を覚悟しなければならないのです。父親が父親らしく、自分に与えられる十字架を背負うべきです。母親も同じです。子供も同じです。しかしお互いにその重荷を、その十字架を拒もうとするから、いつも分裂が生じるわけです。イエス様が最後の印として見せて下さった、その十字架の意味を皆様は一回ぐらい聞いたことがあると思います。 私たちは、洗礼を受ける時に、“キリストの王職に与る”という言葉を聞いたと思います。自分はその十字架をどのくらい、喜びながら、希望を持ちながら負っているのか振り返ってみましょう。もし、皆様がご家庭の中で、色々な騒ぎやざわつく心があったら、まず自分の十字架を振り返ってみて下さい。いつも相手のことばかりを攻めようとする心があったら、結局それは自分の十字架を完全に軽んじている証拠です。 皆様よく考えてみましょう。この共同体、この教会は色々な国籍、色々な違いを持っている人々がひとつの共同体を作っています。その中で、一番きれいに一致の道を歩める方法は、各自、自分に与えられている十字架、その意味をまず分かって、そして感謝しながらその十字架を背負う心、それが一番必要であることをもう一回考えてみましょう。
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