年間23主日 C
【ルカ14:25-33 自分の持ち物を一切捨て】
年間第31水
ルカ14・25-33
聖書でいっている、自分を捨てる、ということは、仏教的な意味での、自分を捨てる、自分
を無にする、無我の境に立つ、そういう悟りを得るということとは違います。それでしたら
、まだ自分中心的な生き方となるのです。
「自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ」ということ、ただ自分を捨
てればいいというのではなく、イエスに従う、神に従うということが大事なのです。
自分を何もかも中心にすえて生きるのではなく、神を中心に据えて生きる、それは具体的
にはイエスに従って生きるということなのです。ですから、それは無我の境の悟りを開くと
いうようなことではなく、神に従う、常に神のみこころは何かということ、それに耳を傾け
ながら、神に従順になろうとして生きるということなのです。
自分が自分みずからの決断で負う十字架というものも、果たしてそれがその人にとって「自分の十字架」といえるかどうかです。それは自分で選んだ十字架であって、結局は自分が好んだ十字架であって、主イエスが求めたように、「わたしの思いではなく、あなたのみこころに従って」ということにはならないのではないかと思います。
この二つのたとえ話と、その結論、「それと同じように」というつなぎの言葉がどのようにつながれるのか不思議であります。自分の十字架を担い切れなかったら、担わなくてもいいというのではないのです。
自分の十字架を担いきれそうもなかったら、それが現実に担い切れるまで力をためなさいというのです。じっくりと待ちなさい、また他の誰かの助けも借りなさい、そうして自分を捨てなさい、とイエスは勧めているのです。自分の十字架を負うということは、やみくもに負うということではない、その十字架を自分が負えるのかどうか、自分ひとりで負いきれるものかどうか、まず座ってじっくり考えて、ある意味では計算をして、決断しなさいということです。
この十字架を負うということが、殉教者気取りの英雄主義的な十字架でないことは、場合によっては、敵に対して降参してしまいなさい、とイエスが勧めていることでよくわかります。これは今の問題でいえば、たとえば、老人介護の問題でしたら、家族だけで担いきれないならば、公的なサービスを進んで利用しなさいというようなことでしょうか。誰かにの助けを求めることは決して恥じではないのだということです。
大事なことは、イエスに従うというとです。イエスの「前」に行く必要はひとつもないのです。われわれはしばしば神よりも完璧主義者になるのです。神よりも、イエスよりも先きんずる必要はないのです。主イエスに従っていけばいいということなのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
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長田弘(おさだ・ひろし)という詩人がこんな詩を書いております。「はじまりというのは、
何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際は
ちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何か
をやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです」という言葉で始まる詩
であります。
何かを始めるということは、常に何かをやめるということだ、何かをやめることが何かの
始まりだというのであります。そしてその詩人はこういうのです。「わたしの場合、子ども
のときから、はじめたことよりも、やめたことのほうが、人生というものの節目、区切り目
として、濃い影のように、心の中にのこっています」と歌うのです。
そしてそのあと、その詩人がいっていることは、やめるということよりは、やめさせられ
たということ、断念せざるをえなくて、やめて、やめさせられて、何かが始まったというの
です。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
3週間前は、キリストを信じたら家庭がばらばらと言う話でした。2週間前は、救われる者は少ない、狭い戸口から入れ。先週は謙そんになりなさい。そして今週は「家族や自分の命を憎み、十字架を背負いなさい」です。こんな暗い話はもうたくさん。もっと良い話を聞きたい。楽しい話をしたいと、心の中で叫びます。折角お休みの時間を割いてミサに来てもらっているのに、十字架のイエス様を見て「自分の持ち物を一切捨てなければ」など書かれているパンフレットを見て、そんなミサに与って、あぁ今日ミサ来て良かったねなんて、思うんでしょうか。もし私が求道中だったら、そんな教会からは逃げ出してしまうんではないかと思います。
でもそんなことを思っていたら、かえって今日の聖書の箇所をそのとおりと思ってしまいました。「自分の嫌なことをすすんでしなければ、イエス様の弟子にはなれない。好きな聖書の箇所ばかり説教しているようでは、司祭でない」と言う今日のメッセージの真実さです。
人間には自分の思い通りに行かないことのほうが多いのです。やりたいことだけやればいい。そんなことは絶対ありえない。弟子たちの誤解していたのはまさにその点です。イエス様に従っていれば、偉くなれるだろう。尊敬されるだろう。そんな期待をもっていた弟子たちでした。だからこそ十字架を受け入れられなかった。そんなことあってはいけないとイエス様に忠告したのです。そして十字架につけられたイエス様を見て、すっかり失望し、逃げてしまったのでした。私たちの思っていた神は、こんな姿であるはずがないと、自分たちで勝手にイエス様を定義していたのです。
しかし自分の思い以上に神様の思いがある。死すべき人間の考えは浅はかで思いは不確か。神様の計画は探り出せないもの。そう第1朗読にはっきり書かれています(知恵9:13f)。「自分の思いや願いはすべて捨て去り、打ち捨てよ」。それが自分の十字架を背負うことの一つの意味かもしれません。
そう考えつつ十字架のイエス様の顔を見ていたら「そうだ、イエス様もつらかったんだ」と改めて思い起こしました。ゲツセマネで弟子たちにそばにいて共につらい夜を過ごしてほしいと願ったイエス様がいました。死ぬほど、血の汗を流すほど苦しんだイエス様がいました。できるならこの杯を取り除いてくださいと叫んだイエス様がいました。弟子たちの裏切り、十字架の痛み・屈辱。神に従えば楽ばかりでないことは、イエス自身の生涯が見事に語っているのです。
しかしなぜ、いやな十字架をイエス様は担いでいったのでしょう。第2朗読の年老いたパウロがイエス様の囚人として監禁されたように、イエス様も神様の囚人になっていたのです。ふつう囚人は裁判にかけられ、仕方なく囚人になるのです。しかしイエス様やパウロは違います。自ら進んで、イエス様は神様の、パウロはイエス様の囚人になったのです。ではなんで自ら好き好んで囚人なんかになったのでしょう。それは神様が、イエス様が大好きだったからです。だからこそ自分の意思や思いを捨てても、神様のみ旨、イエス様のみ旨を、果たそうとしたのです。
とても凡人にはまねできないと考えてしまいがちな私たちです。でも待ってください。私たちは好きな異性のためなら、自ら進んで囚人になろうとするではないですか。自分を与え尽くそうと思うではないですか。自分の持ち物すべてを捨てようとするではないですか。家族の反対を押し切っても、財産のある自分の家を捨てても、何も持たずに飛び込もうとするではないですか。好きだからこそ自分を捨てて、囚人になるのです。好きになったこと。これもある意味で十字架です。喜びと苦しみが一つになった、重くもあり軽くもある十字架です。イエス様が担いだ十字架も、そのような十字架だったのです。
異性への愛と言っても移ろいやすいものです。しかしそんな人間の愛に対してでさえ、それほどのことができる私たち。それなら絶対で変わることのない神様に、同じことが、それ以上のことが、どうしてできないのでしょう。本当に神様が好きだったら、異性にするように、それ以上に、自分の持ち物を捨てるでしょう。激しい愛を本当に神様に、イエス様に持っているのか。捨てる気などないとき、残念ながら、イエス様のことをそれほどは愛していないことが逆に分かります。
「その程度の愛なら、私に従うのはやめときなさい。途中で裏切って逃げ出して、振り返って後悔するだけだから」。こうイエス様に従おうとついてきた大勢の群集に語ったのが、今日の箇所と言うことになります。
もちろんこの世で生きているキリスト者です。家庭を持っていれば、家庭のための持ち物は必要です。でも本当に神様・イエス様を愛し、教会に毎週来ているのかどうかくらいは、自分に問うても良いのではないでしょうか。ただの義務からですか。習慣からですか。それならばあまり意味はないのです。大切なのは神様への感謝と愛です。
ではなぜ神様を愛し、感謝するのでしょう。実は私たちより先に、私たち以上に、はるかに神様がこの私を、とても大切に思い焦がれ、選び取ってくださっていたからです。そしてこの私をなんとしても救おうと、私のためすでに十字架にかかってくださったからです。それほどまで神様はこの私に愛を示してくださっていた。なのに私は、その愛を感じない。感じ取ることができず、毎日の生活の中でうまくいかないことばかり上げつらい、不平ばかり言っている。すべて知ってくださっている神様がいながら、誰も分かってくれないとぼやいている。あるいは神様のことをわざと思い出さないようにしている。
私を愛し、救い、守ってくださった神様。私の罪を負ってくださったイエス様。その神様への感謝と愛のためにこそ、教会に集っている。その原点をもう一度しっかり確認しましょう。そして神様への狂わしいほどの感謝と愛という十字架を背負いながら、この世を生きていきましょう。
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