Sunday, March 24, 2013
4 easter C
復活節4主日C 浜寺教会 2007-05-09
【ヨハ10:27-30私は私の羊に永遠の命を与える】
イエスは今もわたしたちとともにいて、わたしたちを決して見捨てることはない。これが福音の約束です。厳しい現実や死に直面したときにこそ、この約束はわたしたちに大きな力を与えてくれるのではないでしょうか?
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野の百合会 2010年
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自分が親になってみてわかったけど、本当の愛って言うのは1なんだよ。
それ以外はすべて愛情の不足。
「愛されていない」と言っても良いだろう。
親が子供を愛していると、子供は親に反抗できる。子供は親が自分を無条件に受け入れることを知っているから、「パパ嫌い」とか平気で言えるわけ。
親は絶対に自分を捨てないという確信があれば、悪い子になれるし、反抗できる。だから親離れできる。
親が子供を充分に愛していなければ、子供は親に反抗できない。
子供は親から見捨てられると生きていけないので、親が見捨てるぞと脅せば、親の顔色を窺うようになる。
だから、親の言いつけを守る手間のかからない子になる。
この脅しが成り立つためには、親子の絆が弱い必要がある。
自分が絶対に愛されているという確信があれば、見捨てるぞと言う脅しは脅しにならないのだ。
愛情が薄いが故に、子供をコントロールできて、子供は聞き分けの良いいい子になり、親は楽して子育てができる。
親にとってはいいことづくめに見えるかもしれないが、親が楽をしたツケを子供が一生かけて払い続けることになる。
親子関係がすべての人間関係の基礎だから、親の顔色をうかがって育った子供は、常に周りに気を遣う八方美人になる。
その結果、常に損な役回りを引き受けながら、ストレスをためていく。
他人の意向を優先させて生きていると、他人の要求はわかっても、自分が何をしたいのかがわからなくなる。
他人の顔色を窺いながら育った子供たちは、成人した後も周りの顔色を敏感に察知し、摩擦回避に努める。
だから、職場や学校では潤滑油的な存在となり、周りのみんなから愛される(「嫌われない」といった方が正確)。
八方美人は、職場の同僚程度の遠目の人間関係は得意中の得意。
でも、恋人との関係や、結婚生活ではとても苦労をすることになる。
追記
親が子供を愛さないなんてちっとも珍しいことではない。
子供をちっとも愛していない親はとても多い。
愛していない親に限って、子供に恩を売る。
自分がいかに子供を愛していたかを切々と語るような親は、子供を愛していない。
そして、愛されていない子供ほど、親からの愛を疑おうとしない。
疑うと、厳しい現実に直視しないといけないから。
http://katuo.blog.so-net.ne.jp/2005-04-28
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「明日を見つめて りりしく進もう」 「明日を見つめてもう一歩進もう」 「ひとりで旅立ってみよう思い出を連れて明日を見つめて進もう」
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羊飼いと羊が声によって結び合わされているのです。羊飼いの声を信頼する羊。羊は目は近視眼(きんしがん、近くは見え遠くの物ははっきり見えない)であり、5-6m先しか見えない。その反面音には大変敏感なのだそうです。羊飼いも自分のヒツジたちには一匹一匹名前を付けて呼びながら羊をまとめてゆくのだそうです。
復活したイエスは、目に見えないが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださる。このイエスとわたしたちの絆(きずな)は決して絶たれることがない。
今日のヨハネの福音の言葉も内容もよく分かります。しかしたくさんの疑問が浮かぶ箇所でもあります。「私の羊」と言う箇所をこの自分である「私」に置き換え、じっくり読んでみると、分らないところばかりです。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。
--しかしイエス様の羊であるこの私は、イエス様の声を本当に聞き分け、正しいものとみなしていたろうか。
イエス様の声、聖書に書かれてあることに、聞いて聞かない振りをすることがたびたびあったし、別の声に従うことだってあった。
「彼らはわたしに従う。……彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。
--私は時に、神から離れ、滅びの淵まで行きかけたこともあった。神様を信じられなくなることだって何度もあった。
「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大」。
--この私が、神様がイエス様に与えて下さったものなのだろうか。こんな私が、すべてのものより偉大だなんて、本当にイエス様は思っているのか?仮にそんなに思ってくださるのなら、どうして私にはこんなに不満が絶えないのか。
それらの疑問に加え、イエス様のこれらの言葉があまりに断定的であることも、分らないことです。どうしてこうも断定的に言えるのか。「私の羊は私の声を聞き分けるだろう」でもない。「私の羊が私の声を聞き分けてくれたらなぁ」でもない。はっきり「私の羊は私の声を聞き分ける」と記しているわけです。
たくさんの疑問。確かにこの箇所だけを取り出すと分らないことばかりです。ただこれらの言葉はユダヤ人に、「あなたがメシアならはっきりそういってくれ」と問われ、それに対し、イエス様がはっきり答えたのが、この箇所だと知る必要があります。つまりこの箇所はイエス様の信仰告白なのです。
私たちは、復活の頃になると、洗礼の更新をします。「悪霊を退けますか」。「退けます」。内心、本当はそんなことできないなぁと思いながらも、口ではそう言っているわけです。私たちはこうやって、口で言うことと内面の決意、行いの間で、ギャップを持ち続けるということがあります。 ゆるしの秘跡でもそうでしょう。ある罪をもう二度としないと堅く決心いたします。そう言いながら、その数
時間後、同じ罪を繰り返している。こんなことをしているうちに、ゆるしの秘跡からも遠ざかっていく。そんなことが起こるわけです。
あるいは結婚するとき、こんな言葉を聞いた人があるかもしれません。「私があなたを必ず幸せにする」。そう言われて、とても幸せな気持ちになり、この言葉に賭けて結婚する。しかし残念ながら、人間の言葉ははかなく、そのとおりにいかず、多くの家庭が危機に陥ます。
人間の言葉は、これほどもろく、はかないものです。そこで人間の言葉のはかなさに慣れてしまった私たちは、疑う癖を持っています。しかし語るのが神様であれば、「初めに言葉があった」というように、そのすべてを創り支配しておられる神様の言葉であるなら、事情は変わります。これは確実な保証です。神様の言葉は絶対に「そうなる」もの。絶対的な力です。
今日読んだ聖書の箇所は神の子イエス様が、私に対してしてくれた信仰告白なのです。
その内容はこうです。神の子イエス様にとり、この「私」という人間は「イエス様の羊」、イエス様に選ばれ、養われている羊。そして「父なる神様が下さったもの」として、とてもイエス様が大切にしている。そればかりか「すべてのものより偉大」と、本当にそう思って、神の子イエス様が信仰告白してくださっている。このことを真剣に心に受け止める必要があります。
この世には、たくさんの人間がいます。イエス様の言葉がまだ届かないところ、イエス様の言うことは間違いと教えられて育った人。
永遠の命やイエス様の救いなど聞いたこともない人たち。そんな中で、この私はイエス様が特別に選んでくださった人間なのだということ。だからこそ教会に来て、聖書の言葉を耳にすることができるという幸運に恵まれたこの私。そのまれな確率で選ばれた「私」が、イエス様の言葉に逆らえるわけがない。滅びるわけがない。
イエス様はこの私に断言します。「私は永遠の命を与える」。イエス様が責任を取って、永遠の命に必ず導いてくださる。これほどまで力ある、確信ある声を聞いたことがあったでしょうか。この自信に満ちた神の子による保証に、私たちは賭けて良い。
「私の言葉しか永遠の命に導くものはない」。イエス様のその言葉に真剣に耳を傾けて良い。一時的に聖書の声が聞こえなくなるときがあるかもしれない。聞いても心に入らないまま素通りする。そんな時が長くあるかもしれない。さまざまな人間的なことの雑音、思い煩いによって神様の言葉を聞けなくなるときがあるかもしれない。
しかし結局はこの言葉に戻るしかない。何度も聞いた同じ言葉が、あるとき急に心に入ってくる。そう言う時が必ずある。moseos
「わたしは、わたしの羊に永遠の命を与える。」私たちは、今ここに生きています。自分から望んで生まれてきた者はいないでしょう。
それは、今この時代に、この私がここに生きる事を神がお望みになったからです。私は、神の永遠のご計画のうちに生きています。羊飼いは羊の名を知り、それぞれの個性を把握し、その羊にとっての最良の道を理解しています。
さらに神は私たち一人ひとりの想い、わずらい、強さも弱さも、通るべき道も全てご存知です。み手の中で平安のうちに憩い、たとえ暗闇の中にあっても、主への光を見失わないように希望と勇気を与えてくださいます。神の大きな愛に包まれている私は、主の呼びかけを聴きたいと願います。
しかし多くの物質に囲まれ、豊富な情報が、多様な価値観が渦を巻いています。目先の利益に流されそうです。本当に大切なもの、本当に守るべきもの、伝えていかなければならないものを見分けたいものです。毎日の出来事の中に込められた温かい神の配慮、それは必ずしも私にとって都合の良いことばかりではないでしょう。むしろ悲しみや苦しみ、多くの困難を伴うものかもしれません。神のご計画は計り知れません。喜びのときも悲しみのときも、神の愛を信じましょう。羊飼いの声を聞き分け、永遠の命をいただきたいと思います。
主よ、あなたの声を聞き分けられる良い耳をください。出来事にこめられた深い配慮に気づき、あなたと喜びを共にすることができますよう御導きください。sese07
私たちは人生の中で羊飼いの声を聴いた体験を持っています。だからこそ、私たちはここにまで導かれてきているのだと思います。それは直接イエスさまの声を聴くという体験かもしれませんし、聖書を通して聴くということかもしれませんし、間接的に神父や宣教師や先輩の信仰者を通してイエスさまの声が届けられるということかもしれません。いずれにせよ、私たちは羊飼いの声によって導かれてきたのですし、これからも導かれてゆくのです。神父となるためにも召命感というものが問われてゆきますが、それは主の召し出しの声をどこに聞くかということなのです。
イエス様の言葉はこの世を作られた神様の言葉と同一だからです。裏切った弟子たちが、またイエスの群れに戻り、イエス様の言葉を伝えていった。そのように、わたしたちもこの絶対的な言葉に戻り、賭けていきたいと思います。神の子が確約した言葉だからこそ、私たちはこの言葉に戻るしかないのです。
私たちに向こう側から「おおい、きみ」と呼びかけてくださるお方がいる。耳を澄ませば、そのお方の声が聞えてきます。私たちは本日、、ミサ聖祭に与ります。「すべて重荷を負うて苦労しているものはわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。私たちに呼びかけてくださるこの羊飼いの声に信頼し、このお方にすべてを委ねて、今日もご一緒にこの恵みの食卓に与りましょう。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/123.htm
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