Sunday, March 24, 2013

27 per annum C

年間27主日 C

【ルカ17:5-10 取るに足りない僕】


年間27主日 C
2010-10-03 15:07:36 | Weblog
年間27主日 C
【ルカ17:5-10 取るに足りない僕】


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正直言って、今日の話を聞いて、途惑いを感じますす。
畑を耕し羊を買う僕がいます。やっと仕事が終わり疲れて帰って来ます。その僕に主人は言います。「さあ、今度は夕食を作れ」。僕は主人のために、疲れた体で、やっと食事を作り終えました。それに対して主人の返す言葉はこうです。「お前は当たり前のことをしただけだ。取るに足りない僕だと言え」。
この譬え話で僕とは人間です。主人とは神様です。これはおかしな話ではないですか。人間はこのように神様にひたすら仕えろというのです。聞きなれているから当たり前と聞き流すのでなく、どうして神様はこんなひどいことを言うのか。この譬えには神様の愛の一かけらも感じられないと、視点を変えなければなりません。それがあって初めて、聖書を深く読み、理解し、行動することが可能になるのです。

キリスト教は一人ひとりを大切にしてくださる神様の愛を教える宗教だったのではないですか。そしてイエス様はこの私の愛のゆえに、私を救おうと、十字架にかかったはずです。それなのにどうしてこんな話が出てきたのでしょう。
私は確かに神様からかけがえのない人間として選ばれたものです。ある意味で主人公です。しかしそのことは、すべて自分の思う通りになることではないことも、はっきりと知らなければなりません。神様はけっして人間の都合どおりには動かない。神様が人間に仕えるのではありません。人間が神様に仕えるのです。
それなのに私たちはとかく神様を自分の僕にしてしまいがちです。困ったとき、神様に何とかしてもらおうと願います。うまくいかないと腹をたて、「神などいない。神がいるならどうして」と言ってしまいがちです。つまり自分が大切で主人公と言う気持ちは大切ですが、しかし間違うと神様を自分に仕える僕にしてしまう傾向があるのです。
面白い一例をとりあげてみましょう。たとえば「てるてる坊主」という歌があります。皆さんも一度ぐらい聞いたことがあるでしょう、何気なく歌われる歌ですが、けっこうこわい歌詞です。

てるてる坊主てる坊主、明日天気にしておくれ     
いつかの夢の空のよに、晴れたら金の鈴あげよう
私の願いを聞いたなら 甘いお酒をたんと飲ましょう
それでも曇って泣いたなら そなたの首をちょんと切るぞ

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てるてる坊主を正立させた状態で軒先などに飾ると、明日の天気が晴れになるという。

一部の地域などでは逆に倒立させた状態(いわゆる逆さ吊)で飾ると、明日の天気が雨になるとされている。

いわゆる人類の原始的な歴史より行われてきた、呪術信仰に基調がある。具体的事例をあげるとするならば、縄文時代の土偶(どぐう)の原理と同じである。つまり、ある主体を犠牲にすることで、別の主体を改善するという等価交換の原則に基づいた風習であるといえる。

てるてる坊主の起源は中国にある。長雨などで河川の氾濫が起こったり作物に甚大な被害が発生したりする場合に、古来中国の人々は、幼い児童を集団で痛めつけ無理やり涙を流させた。そして最終的に彼らを軒下などに吊るし上げて殺害した。このとき「生贄」になった児童の涙や、暴力によって欝血した体より流れ出たおびただしい量の血液、もしくは殺害の方法が絞殺であるがゆえに生じる流れ出る唾液や糞尿が、「雨」の代わりであるとして、晴天への希望を託したのが、てるてる坊主の起源である。ちなみにこの行動を行えど晴天にならない際には、複数の児童を「てるてる坊主」にしたという記述もある。

後にこの風習は日本にも伝えられ、同様のことが行われた。しかし、中国にしろ日本にしろ、てるてる坊主の内容は「人の代わりに人形を吊るす」といったものに移行していった。しかしながら、人形は何も流さないため、壊滅的な雨量がもたらされる場合はやはり人間の子供を「てるてる坊主」にすることがあった。

日本では、江戸時代中期ごろに既に飾られていたようで、『嬉遊笑覧』という本には、晴天になった後は、瞳を書き入れて、川に流すと記されている。これは、かつての風習により生じた死体の処理方法が、雨の後の水かさが増した川に投げ入れたという合理的な行動に起因するものとされる。
[編集] 童謡

作詞浅原鏡村(浅原六朗)、作曲中山晋平による同名の童謡は有名である。1921年(大正10年)に発表され、教科書にも掲載されていた。3番の歌詞は、「晴れにならなければ首をちょん切る」といった内容が記されている。これは大量の児童を生贄にささげ、それでも雨が止まらない場合、児童の死体の首を切り落として、流れ出た児童の血液を雨の代わりとしたという行動に基づいたものであるとされる。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A6%E3%82%8B%E5%9D%8A%E4%B8%BB

3番の歌詞は、「晴れにならなければ首をちょん切る」といった残酷な内容であるため、現在放送する際はカットすることが多い[要出典](「おばけなんてないさ」の影響である)。

「てるてる坊主」
浅原鏡村(あさはら・きょうそん)作詞・中山晋平(なかやま・しんぺい)作曲



てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに(注)
晴れたら金の鈴(すず)あげよ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願(ねがい)を 聞いたなら(注)
あまいお酒を たんと飲ましょ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇(くも)って 泣いたなら(注)
そなたの首を チョンと切るぞ

<object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/reLSYByhJ7c?fs=1&hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param></object>------

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要するに、私の願いを叶えたら、金の鈴をあげ、大切にお祭りするけれど、そうでなければ、打ち首だというわけです。
人間の気まぐれ。自分の都合によって、神様を評価し、価値を決める。神様を自分の奴隷にする傾向。こうした日本的な考え方に対し、そうではないと神様は語ります。
だから「困って神様に何とかしてもらいたいと叫ぶ。しかし自分の願いがかなわない」。そんな時、ただ腹をたて「神はどうして何もしてくれないのだ。神などいない。自分は見捨てられた」。そう言って、せっかくもらった信仰を捨て、神様から離れることのないようにしましょう。
そのために、神の計らいを辛抱して待ち続ける忍耐を、神様への絶対的な信頼を持ちましょう。十字架にかかったイエス様と共に留まりましょう。すぐに「神の子なら十字架から降りてみよ」と奇跡を要求することのないようにしましょう。
「この世の人間的な幸福」。そのようなものは、イエス様もマリアも、他のすべての聖人も、必ずしも与えられてはいないのです。悲惨な死、別れ、この世の不幸といつも一緒でした。そんな中で、いつも神様のみ旨は何なのか、思いめぐらしながら歩んでいました。こうして苦しみをも神様のみ旨として受け止めながら、聖人たちも歩んだのでした。神様から愛された人間だから、この世で楽に過ごせる。そんな約束は、最初からなかったのです。イエス様もマリアもどんなにこの世の苦しみと立ち向かいつつ歩んだことでしょうか。
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 (1) からし種は1~2ミリの小さな種で、本当に小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切でしょう。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。

   (2) 「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。 福音書の中で「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在についての考え方」の問題ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうかという生き方」の問題だったのです。

   (3) 信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、という世界です。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、だから自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と言えるのでしょう。
 わたしたちは自分の力でなんとかしなければならない、という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力や努力が足りないからだ」、と考えるような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。

  (4) 1-10節で、別々の伝承がつなぎ合わされているのだとすると、そもそも、なぜ使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言ったのかは分からないことになります。しかし、わたしたちも同じような言葉を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。
 3-4節の「ゆるし」のテーマとつなげて考えることも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦(ゆる)してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、ゆるしてやりなさい」。こう言われても、実際には非常にむずかしいと感じることがあるでしょう。そして、この「ゆるせない」ことを「信仰が足りない」ことだと感じることもあるのではないでしょうか。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのではないでしょうか。
 さらに「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです」という言葉も、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、まさに「しなければならないことをしただけ」ということになります。

  (5) 「人が人をゆるす」ということはどんなときに可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。
 (a) 自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけです)。
 (b) 相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解できるとき。その人が過去にどんな傷を受けてきたかとか、その中でどんなふうに人格がゆがんで、ああいう行動に走ったのかというようなことが理解できると思えたとき。
 (c) ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。
 (d) 罪びとである自分自身が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。他にもあるかもしれません。現実には「ゆるす」ことは難しいに決まっています。でも、「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうが、たぶん何倍も役に立つに違いありません。

黙想のヒント

弟子たちはイエスから「悔い改めようとする兄弟を何度でも赦しなさい」と言われたとき、自分たちの弱さを感じて「私たちの信仰を増して下さい」と願います。

信仰とは何でしょう。信仰は、無償で神から頂いた賜物です。そうであればそれが足りないものだと言えるでしょうか。イエスは、弟子たちの願いに、たとえで答えます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」

信仰によって人は、自分が人間として生まれ、神の愛のゆえに造られたことを知るようになります。そして、自分のほうから、その愛に応えるために、愛を持って、神に従おうとします。さらに、そうすることによって、取るに足りない僕としての自分を知ることになるでしょう。

僕は、主人に要求することなく、むしろ、主人から任された仕事、与えられた役割を果たして、忠実に生きるほかはないと知るのです。
「高慢な者の心は正しくありえない、しかし、神に従う人は信仰によって生きる」と教えられているからです。
(ハバクク2・2-4)

パウロもテモテに書きます。「神の賜物を再び燃え立たせるように進めます」私たちが、人間社会の価値観だけにとらわれるようになると、プライドや名誉、権力を求め、目に見えることだけを優先させて、目に見えないものを後回しに考えます。

しかし、神に従う人は、神のことばを聞き、それに力を見つけ、自分の弱さを誇るようになります。そしてその人は、神に愛され、
照らされ、その光と喜びを持って、神の言葉を広め、証人として歩むことができるのです。

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