年間25主日 C
【ルカ16:1-13 「不正な管理人」のたとえ】
年間25主日 C
【ルカ16:1-13 「不正な管理人」のたとえ】
年間第31金
ルカ16・1-8
要するに友達を作っておけば、いざというときに役に立つよ、ということぐらいでいいと思います。
ただここで主イエスが言わんとしていることは、案外はっきりしております。それは富の奴隷になってはいけないが、富を敬遠してはいけない、富に対して賢くふるまわなてはならないということを、光の子、弟子達に語っているということであります。それでも主イエスがここで、「不正な富をもちいてでも、友達をつくれ」といわれた時、それはお金をばらまいて、友達をつくれと、ただいわれたのではなく、その人の借金をゆるすことにそのお金を用いて友達をつくれといわれていることは大事なことだと思います。主イエスがいつも人を裁いてはいけない、いつも人のあやまちを許しなさい、そうしたら天の父もあなたのあやまちをゆるしてくださると繰り返しいわれているのがこういうところにもあらわれているのではないかと思います。友達をつくるということは、その根底にはその友達のあやまちを許す、罪を赦すということによってしか、友達をつくることはできないということであります。それも大変難しいことだけどそうしなさいということであります。不正な富をもちいてでも、そのようにして友達をつくりなさいというのであります。天国への賢い入り方は、他人の負担を軽くすることである。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
年間第31土
ルカ16・9-15
握っている物を手放さなければ、他の物をとることは出来ません。人生は手放すことの連続ではないでしょうか。私達が従いたいと願っているイエスは、名声・富…あらゆるものを手放され、最後は十字架上で命を手放されました。それは、神と罪人である私たちへの愛を選び取られたからでした。手放すことには痛みが伴うものですが、今、私達には、その痛みに共に耐え、支えてくださるイエスがいます。
イエスよ、この世の富よりあなたに従おうとする私達の歩みを助け、強めて下さい。sese05
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『クリスマス・キャロル』 (原題:A Christmas Carol) は、英国の文豪ディケンズの中編小説。1843年12月17日(12月19日ともされる。参照)に出版。「クリスマス・ブックス」の第1作。
『クリスマス・キャロル』 (A Christmas Carol):1999年、アメリカ映画、監督:デビッド・ヒュー・ジョーンズ
『クリスマス・キャロル』 (Christmas Carol The Movie):2001年、アニメ映画、監督:ジミー・T・ムラカミ
『Disney'sクリスマス・キャロル』 (A Christmas Carol):2009年、3DCGアニメ映画、監督:ロバート・ゼメキス
作品の主人公は、エベネーザ・スクルージScroogeという初老の商人で、冷酷無慈悲、エゴイスト、守銭奴(しゅせんど)で、人間の心の暖かみや愛情などとは、まったく無縁の日々を送っている人物である。ロンドンの下町近くに事務所を構え、薄給(はっきゅう)で書記のボブ・クラチットを雇用し、血も涙もない、強欲で、金儲け一筋の商売を続け、隣人からも、取引相手の商人たちからも蛇蝎(ダカツ・へびとさそり)のごとく嫌われている。
明日はクリスマスという夜、事務所を閉めたあと自宅に戻ったスクルージは、かつての共同経営者で、七年前に亡くなったマーレイ老人の亡霊の訪問を受ける。マーレイの亡霊は、金銭欲や物欲に取り付かれた人間がいかに悲惨な運命となるか、自分自身を例としてスクルージにさとし、スクルージが悲惨な結末を回避し、新しい人生へと生き方を変えるため、三人の精霊がこれから彼の前に出現すると伝える。
スクルージを訪ねる三人の精霊は、「過去のクリスマスの霊」、「現在のクリスマスの霊」、そして「未来のクリスマスの霊」である。
過去の精霊は、スクルージが忘れきっていた少年時代に彼を引き戻し、孤独のなかで、しかし夢を持っていた時代を目の当たりに見せる、また青年時代のスクルージの姿も見せ、金銭欲と物欲の塊となる以前のまだ素朴な心を持っていた、過去の姿を示す。
三人の精霊
次に出現するのは現在のクリスマスの精霊である。現在の精霊は、スクルージをロンドンの様々な場所に導き、貧しいなか、しかし明るい家庭を築いて、ささやかな愛で結ばれたクラチットの家族の情景を示す。クラチットの末子ティムが、脚が悪く病がちで、長くは生きられないことを示す。
現在の精霊と共に世界中を飛び回って見聞を広めたスクルージは、疲れ切って眠る。そして再度目覚めると、そこには真っ黒な布に身を包み、一本の手だけを前に差し出した、不気味な第三の精霊・未来のクリスマスの精霊がスクルージを待っている。
スクルージは、評判の非常に悪い男が死んだという話を聞くが、未来のクリスマスには自分の姿がない。評判の悪い男のシーツに包まれた無惨な死体や、その男の衣服まではぎとる日雇い女。また、盗品(とうひん)専門に買い取りを行う古物商の老人や、その家で、盗んできた品物を売りに老人と交渉する三人の男女の浅ましい様などを見る。ここでスクルージは、その死んだ男が誰なのかを確認することはできなかった。
また、クラチットの末子ティム少年が、両親の希望も空しく世を去ったことを知る。そして草むし荒れ果てた墓場で、見捨てられた墓石の表に記されていたみずからの名をスクルージは読む。
スクルージは激しい衝撃に襲われる。しかし、夜明けと共に、彼が経験した悪夢のような未来が、まだ変えることができる可能性があることを知る。
クリスマスキャロルという有名な映画があります。ケチで人間嫌いで孤独な老人。自分の過去と現在と寂しい孤独な未来の夢を見ます。このまま誰からも嫌われたまま一人寂しく死んで良いのか。そして回心します。一人溜め込んできた財産を投げ捨てて、プレゼントをして廻ります。そうして誰からも愛されるようになり、本当にサンタクロースのように慕われ、幸せな満足感のまま帰天します。この老人は確かに、人生の最後の土壇場で、自分の持っている財産をもっともよく使う方法を見つけ出したのでした。天国泥棒と批判するのは簡単です。しかしこの人は、本当にたくさんの人に感謝され、そして自分自身も、幸せな満足感のまま人生を終えることができた。そして愛に目覚めたこの人は、確かに天国に迎え入れられたと、確信できるのではないでしょうか。
この人のように、神のあわれみに信頼するからこそ、恐れずに今、回心し、実際に償いの業を行う勇気をもつこと。神様の愛に気づき、愛に生きることに目覚めること。それを神様は呼びかけておられるのです。
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.病者の塗油
1.聖書的由来と発展
(1)聖書的由来
病者の塗油の秘跡は、マルコ福音書6章13節の「油を塗って多くの病人を癒した」という言葉や、ヤコブ書5章の「オリーブの油を塗り、祈ってもらいなさい」という言葉に由来しています。ヤコブ書からは、癒しのために共同体が共に祈り合うことの大切さが分かります。
(2)発展
このような形での病者に対する塗油の習慣は、死ぬ間際の人に食事を与えるというローマの文化から影響を受けた臨終の聖体拝領の儀式と結びつき、しだいに死ぬ間際の病人に対して司祭から1回だけ行われる塗油の儀式へと発展していきました。そのため、第二バチカン公会議以前には「終油の秘跡」とも呼ばれていました。
(3)現代における実践
現代では、病のために危険な状態にある人、医師から重態だと判断された人だけでなく、危険な手術を受ける前の人、老衰のために死が近づいていると思われる人も司祭から病者の塗油を受けることができます。回数も、1回だけには限定されておらず、必要があれば何回でも受けることができます。
2.恵み
病者の塗油によって、次のような恵みが与えられます。
(1)聖霊による救霊のための恵み…その人の魂の救いのために、聖霊から与えられる恵みです。
(2)悪霊の誘惑や死の恐怖への抵抗力…病の床にある人は、自分が神様から愛されていないのでは ないかとか、神様が存在しないのではないかという疑問に襲われたり、死への恐怖にさいなま れたりすることがあります。病者の塗油は、そのような誘惑や恐怖と戦う力を与えてくれます 。
(3)病苦と戦う力…病気は多くの場合に苦しみを伴いますが、その苦しみと戦う力が病者の塗油に よって与えられます。
(4)救霊のために必要であれば、肉体の回復…もしその人の魂の救いのために肉体の回復が必要で あれば、肉体が病から回復する恵みが与えられます。どんな場合でも必ず肉体の回復の恵みが 与えられるわけではありません。
(5)罪のゆるし…ゆるしの秘跡を同時に受けることができない場合には、塗油によってその人の犯 したすべての罪がゆるされます。
3.病苦の意味
病の床にある人を苦しめる最も大きな疑問の一つは、「なぜわたしがこんな目に合わなければならないのか」ということでしょう。この疑問は、自分の人生の意味への疑いや、神様の愛への疑いを生む深刻な疑問です。この疑問に対して、わたしたちはどう答えることができるのでしょうか。
この問いに対するキリスト者の答えは、コロサイ書1章24節のパウロの言葉「キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって充たす」に凝縮されています。この言葉を参照しながら、第2バチカン公会議の教会憲章は、病で苦しんでいる人たちに対して「すすんで自分をキリストの受難と死に合わせ、神の民の善に寄与する」(11)ように勧めています。教皇ヨハネ・パウロ2世も使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス』の中で、人間は病苦などによって苦しむとき、神秘的な形でイエスの十字架上での苦しみに結ばれると述べています。
イエスの苦しみはそれ自体として十分なものでしたが、その苦しみをイエスだけに苦しませておくのはよくありませんね。病苦を通してイエスと苦しみを共にするときに、わたしたちはイエスの受難により深く結ばれるのでしょう。イエスの受難に深く結ばれることによって、わたしたちはイエスの救いの業に協力することができ、さらにはイエスの復活にも固く結びつけられるのだと思います。
病者の塗油は、病で苦しむ人たちに、彼らが今十字架上のイエスと共にその苦しみを苦しんでいるのだということを思い起こさせ、病苦は決して無意味なものではないと彼らに告げる秘跡だと言えるかもしれません。
《参考文献》
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。
・『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年。
・『カトリック儀式書 ゆるしの秘跡』、カトリック中央協議会、1978年。
・『カトリック儀式書 病者の塗油』、カトリック中央協議会、1980年。
・『使徒的書簡 サルヴィフィチ・ドローリス』、サンパウロ、1988年。
http://www.rokko-catholic.jp/Training/tuesdayclass/tuesdayclass-rejime-11-18.htm
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