年間20主日 C
【ルカ12:49-53分裂をもたらす】
「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。すでにイエスの誕生の場面で、天使たちはこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)。イエスのもたらすものは本来、平和であるはずです。この平和は人と人とが深く尊重し合って生きるような、神から来る平和だと言うことができるでしょう。これに対して、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という時の「平和」は争いが避けられ、表面的に平穏が保たれているだけの状態だということになるでしょう。イエスの到来とそのメッセージは、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものでした。それは、イエスによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこでは表面的な平穏さを保つだけではすまないのです。
戦後68年目の夏。私たちは「何か」を、なかったことにしたがっているようだ――いったい、何を? そして、なぜ? 戦後日本が大切に紡いできた「平和と繁栄」の物語の読み直しに挑んでいる、社会思想史家の白井聡さんに聞いた。『中国や韓国にいつまで謝り続けなきゃならないのか』という不満に対して、最近の調査によりますと、韓国人の98%と中国人の78%が、日本はまだ十分誤っていないと考えています。
また、「昨今の領土問題では、『我が国の主権に対する侵害』という観念が日本社会に異常な興奮を呼び起こしています。中国や韓国に対する挑発的なポーズは、対米従属状態にあることによって生じている『主権の欲求不満』状態を埋め合わせるための代償行為です。それがひいては在特会(在日特権を許さない市民の会)に代表される、排外主義として表れています。『朝鮮人を殺せ』と叫ぶ極端な人たちには違いないけれども、戦後日本社会の本音をある方向に煮詰めた結果としてあります。彼らの姿に私たちは衝撃を受けます。しかしそれは、いわば私が自分が排泄(はいせつ)した物の臭いに驚き、『俺は何を食ったんだ?』と首をひねっているのと同じです」(朝日新聞デジタル:(2013参院選)「敗けた」ということ 「永続敗戦」を提起している、白井聡さん - ニュース 2013/7/8)
これはとても平和な状態と言いにくいでしょう。
イエスのエルサレムに向かう旅の段落の中で、ずっと語られているのは「神の国」についての教えです。この神の国には、「今すでに始まっている」という面と、「世の終わりに現れ、完成する」という面があります。終末における完成ということの中には、神に反するすべてのものが滅ぼされる「裁き」の面があります。先週の箇所(ルカ12章32-48節)もその裁きについての警告の言葉でしたが、きょうの箇所にも、非常に厳しい警告の内容を持つイエスの言葉が集められていると考えたらよいようです。
平和は、神の国の到来と深い関係があって、人間の力で作れるものではない。家族でさえ、自力で平和になるようなものではない。神を無視して、本当の平和は来ない。実際にこの言葉が語られて以来、数え切れないキリスト者が、自分のいる家庭を犠牲にしてきたのです。
たとえばフランシスコが、イエスに従って歩み始めようとしたとき、商人の父と激しく対立しなければなりませんでした。貴族のクララもやはり親に何も言わないまま、逃げるように家を出て、フランシスコたちのもとに行き、髪を切ったのでした。クララのこのような出家については、クララほどの聖人が、このような形で家を出たのは嘆かわしいことだなどと、評論する人がいるくらいです。聖人でさえも、こんな悲しい親不孝をしなければ、いけなかったのです。
しかしフランシスコもクララも本当に大切なものをつかんだのでした。神様のすべての人間を救いたいという深い愛であり、永遠の命であり。その時にもう、他のものはどうでもよくなってしまったのでした。
修道者の存在自体が神の国を指し示すのです。確かに人間としてみればおよそ不可能なことです。親、家族などの自然のつながりを捨て、特定の人を愛する執着から離れ、むしろその愛を広げ、独身で神に仕え切る。そうして教会の中で、新しく父母を見出し、兄弟姉妹として共に生き、子どもたちを愛していく。こうして本当にすべての人間の救いのために人間となったイエス様にならいながら、自分を捨てて働く。それが修道者の生き方で、その人たちの存在自体が、やがて来るべき神の国のあり方を指し示すのです。
自分自身はまだ十分そのような存在になり切れていません。迷いはたえず共にあり、苦しみもあります。しかしそんな自分の十字架を思うとき、まったく同じように壁にぶつかりながらも、乗り越えてきた多くの信仰の証し人や、兄弟姉妹のことを思います。
なぜこの道に留まっているのか。結局は、自分の神体験を、イエス様のことを伝えたいからです。その喜びのほうが、勝っているから。こんなちっぽけな私でも、それでもキリスト者として生きようとする、修道者として仕えようとする人間が一人でもいるなら、その存在が人々に、神様・イエスの存在を指し示すに違いないと確信するから。そのために苦しみを乗り越えていきます。その果てに、イエスを伝えられることの喜びが生まれます。何もない寂しさも、すべて捨ててきた喜び、そこから得られる実りと表裏一体であることも実感します。
このことはしかし修道者のことだけではもちろんありません。キリスト者は世からみれば躓きであり、気が狂ったとさえ思われることもあって。しかし信念として、証しとなる生き方を、選ばなければならない時があるのです。その結果、大切な家庭を、仕事を、時に命さえも犠牲にすることもありえます。もっと大切なもの、永遠の命を知っているから。
だからいつも問うのです。第1朗読のエレミヤも、故郷の人から恨まれた人です。その中でたくさん神様に問うた人です。「どうして、こんなに弱い私を選んだのですか」。「こんな私に何ができるのですか」。「どうしたらこの苦しみを乗り越えることができるのですか」。「信仰のない私をどうか強めてください」。そうぶつぶつつぶやきながらも、長い、しかし永遠と比べればはるかに短い人生の道
のりを、イエスを見つめ、イエスと共に全力で走りぬいていく。それがキリスト者すべての生き方です。
「世間離れ」(晴佐久神父)
子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会う必要があると心理学者たちは言います。自立できない人は「マザコン」、「ファザコン」と言われます。今日の福音書を見ますと、イエス様はちゃんと親離れができていたと言えます。この観点から解釈できると思います。
子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。
人間にとって家族ほど大事な人間関係はないと言われますが、それを正しく位置づけるために、いったんそれを相対化しなければなりません。家族より大切なもの、つまり神様の観点から位置づける必要があります。国も同じことでしょう。
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