Sunday, March 24, 2013

19 per annum C

年間19主日 C

【ルカ12:32-48 目を覚ましている僕】



主婦の中には、ご主人がどんな時間に帰って来ても、ちゃんと起きて待っている方もいらっしゃるでしょうし、さっさと先に寝てしまう方もあるでしょう。人はだれでも自分のことを、人から認めてもらいたいと思っています。ですからだれも認めてくれなければ、さっさと寝てしまった方がいいですし、もし認めてもらえるなら、起きて待っていてもいいでしょう。人から認められないと、がっかりしてしまい、その行動に価値がないように感じてしまいます。つまり私たちの行動の大部分は、人の評価を気にして成り立っていると言えます。

しかしよく考えてみると, 人の評価はいいかげんなものです。気分によって変わったりします。私たちはむしろ、神の評価をこそ気にすべきだと、今日の福音書は教えています。それは変わるこののない、絶対的な評価なのですから。ですからこのたとえ話の中の主人は、人間の主人ではなく、神を表しています。
しかし、神の評価を恐れて生きるという意味ではありません。口うるさい主人(社長、先生)がいれば、良いところを見せようとしてよく働く人は、また主人(社長、先生)がいなくなれば、ここぞとばかり羽を広げて怠けるでしょう。神がうるさい、何でもお見通しの主人だから、怠けずに働こうとするのでもありまっせん。主人の顔色をうかがうことは、一種の取り引きでしょう。よく思われたい、という下心があって、一生懸命働くからです。これは奴隷根性です。もちろん私たちは、ある意味では、神の奴隷です。だからこそ奴隷根性をもってはいけないのだと思います。
 言ってしまえば、人は本来的に怠け者です。ですから怖い主人がみていれば働き、いなければ怠けるでしょう。しかし、本当は、主人のいるいないに関係なく、自分で自分をコントロールできることが成熟した人間です(自営業、勉強の好きな学者)。主人を恐れて働くのではなく、何の下心もなく、好きで、ただでも、ボランティアできたらすばらしいことです。それは私のセルフコントロールから生まれた、自由で自発的な贈り物だからです。何の報いも期待しない、無償のささげものです。これは信仰の世界です。

ペトロが質問しました。「このたとえ話は私たちのためですか、それとも皆のためですか」。つまりペトロは、自分たちと他の人々とを別のものとして比較しました。

文化は人との比較ですが、信仰は神との比較です。人と比較すると、私たちはついあの人は、この人は、と考えてしまいます。しかし人の問題ではなく、私は私なのです。それは人を無視したり、勝手気ままにふるまうこととは違います。人には寛大に、自分には厳しくなるのは大前提。
私は私としていただいた使命(責任)を果たすことに集中すべきで、それに全力を投入しろということでしょう。人のことをあれこれ批判して、時間とエネルギーを無駄にするな、ということでしょう。もちろん人の良い点を見て、あるいは「人のふりを見てわがふり直せ」、自分も負けまいと思うことは大切なことでしょう。人からたくさんのことを学べるのですから。しかし学べるから、人が大切なので
はなく、人が大切だから、多く学べるのです。
 イエス様は「天に宝を積め」と言われます。天とはいったいどこでしょう(ガガーリン)。天とは、永遠の価値観の通用するところでしょう。人の評価が 即 神の評価ではないように、この世の価値が、即天の価値というわけではありません。この世の価値が、そのまま永遠の世界に通用するものでもないようです。
 盗人も近寄らず、虫が食い荒らすこともないのが天の価値です。この世の価値は往々にして、あまりにも空しい価値です。ですからこの世の価値を、天の価値に両替しなければなりません。この世の紙幣(お金)を、あの世の紙幣に交換しなければなりません。この世の円やドルを、永遠の円やドルに換金しなくてはなりません。その換金のためには、天のレート(相場)があるようです。
 この世で認められ、人から大いに評価されたものは、天の国ではどうも安くなってしまうようです。逆にこの世であまり認められず、あまり評価されなかったものが天の金額では高価なものになるようです。この世で報われてしまうと、天の宝としては、どうも安っぽくなってしまうようです。
 もちろんこの世で報われることもあるでしょう。その報いを、ことさら断る必要はいささかもありません。報われるのでしたら、喜んで報いを受け取っていいのです。天の宝が減るからと計算して、受けとりたくないと考える必要もありません。報いてくださるのは神であって、私が報いを計算してはいけないからです。報いを決めるのは私ではなく、神なのです。神が自由に決めることなのです。神が報いをくださったら、喜んで受ければいいのです。報いをくださらなかったら、それを喜んで受ければいいのです。私がいつも目覚めていて、主人の帰りを待ちながら、主人の望みを果たそうと務めるのは、報いがあるなしに関係なく、私が神にささげる、私のほんの少しの、心ばかりのつたないささげものなのですから。



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