Sunday, March 24, 2013
16 per annum C
年間16主日 C
【ルカ10:38-42マルタとマリア】
(2013年)
お客様、僕のもとを通り過ぎないでください(第一朗読主題句 創世記18・3より)
三天使をもてなすアブラハム
モザイク
ローマ サンタ・マリア・マッジョーレ教会 5世紀
きょうの第一朗読で読まれる創世記18章1節から10節にある、3人の旅人を迎えるアブラハムのもてなしの場面である。大変有名な箇所で、絵画やイコンにおいてしばしば描かれる出来事である。これは、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のモザイク。キリスト教公認後に教皇リベリウス(在位 353‐366年)によって創建された、初めてマリアに献堂された聖堂であり、5世紀に教皇シクストゥス3世(在位 432‐440年)によって再建された。シクストゥス3世の時代はエフェソ公会議(431年)で、マリアが神の母 (テオトコス) と宣言されることにより、マリア崇敬が東方でも西方でも高まった時代であり、その影響を示しているものとされる。
この3人の旅人は、神ご自身と二者の天使として解釈されることも、三者の天使と解釈されることもある。上の三者を見ると、中央の天使が光の輪に包まれているので神ご自身を意味するとも見える。ただ、下の三者は、同等の存在のようにも見える。この絵のモチーフがやがてイコンの三位一体の絵のモチーフになり、ここで語られている三者がすべて神ご自身であり、その3つの位格、父・子・聖霊を意味すると考えられるようになる。その最も洗練された作品は、有名なロシアの15世紀のアンドレイ・ルブリョフのイコンである(参考図)。
そこまで展開していくと、アブラハムが3人の旅人をもてなすために、妻のサラにパン菓子をつくるよう命じたことが、さらに意味をもってくる。すなわち、教会の感謝の祭儀(ミサ)における聖体を暗示するものとなるのである。三位一体の神の恵みのたまものである聖体の秘跡の意味を表すイコンにまで深まるのである。
それに対して、この初期のモザイクは、なお、創世記の物語を忠実であろうとしている。上の部分では、「アブラハムはすぐに天幕に入り口から走り出て迎え」(創世記18・2)のところ、下の左側は、アブラハムがサラにパン菓子を作るよう命じている部分、そして下の右側は、アブラハム自身が「彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした」(同18・8)の部分にあたる。ひとつの画面の中に、アブラハムのさまざまな動きを活写している。そして、目立つのは、アブラハムが神ご自身と天使、もしくは三者の天使に対して、ひたすら行動的に奉仕をしているところである。彼はやがて、その三者のうちのひとりが言う「来年の今ごろ……あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」(同18・10)との予告を信じていくことになる。
このようなアブラハムの信仰者としての奉仕の姿が、きょうの聖書朗読全体の中ではテーマと考えられている。福音朗読(ルカ10・38‐42)に登場するマルタとマリアは、アブラハムの中にともにいる。このアブラハムの箇所を読むことによって、マルタとマリアのエピソードをとおして語られる、信仰による奉仕についての教えが、より鮮明に浮かび上がってくる。
アブラハムが3人の旅人に向かって「お客様……僕のもとを通り過ぎないでください」(創世記18・3)という言葉は、きょうの第一朗読の主題句とされている。この言葉は、ルカ福音書24章29節の言葉を思い起こさせる。エマオに向かう弟子たちのところに現れた復活したイエスに対し、まだイエスとわかっていなかった弟子たちが「一緒にお泊まりください」という場面である。自分たちのもとに訪れてくださる「神」の存在を感じ、とどまるよう願うところに信仰の行為が生まれている。そして、アブラハムにとっても、エマオに向かう弟子たちにとっても、「神」がとどまってくださるところには食事がある。このような関連も併せて考えていくと、ミサの意味深さがあらためて感じられてくる。
http://www.oriens.or.jp/st/st130721.html
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ところが、イエス様は、マリアに味方して、マルタには注意します。どうしてでしょうか。ここから、奉仕するやり方を学ばなければなりません。人をもてなすとき、人に親切にするとき、特に気を付けなければならないことがあります。ただ自分が好むやり方で、人に親切にしていることがないかどうか、ということです。
たとえば、アフリカの人たちが食べるものがないと聞いた人は、「お米ひとにぎり運動」をして、たくさんの米をアフリカに送りました。アフリカの人たちは、喜んだかというと、そうではないのです。お米を食べないアフリカの人たちにとって、米よりも、トウモロコシの方がよかったのです。エチオピアの人々が、着るものがなくて、寒さに震(ふる)えていると聞いたある人たちは、「毛布一枚運動」をして、たくさんの毛布を送りました。ところが、現場で配達するための自動車の手配(てはい)や、ガソリンの準備を考えなかったのです。それで、どうなったかというと、エチオピアの港にたくさんの毛布が届きましたが、配達できないし、そのままにしておけば、虫がついて臭くなってしまうので、たくさんの大きな倉庫をつくって保管しなければならなくなったのです。大変、お金がかかったそうです。
マザー、テレサの話で、貧しいある国に、たくさんのチョコレートが送られてきました。けれども、その国の人たちは、それまで、チョコレートを見たことも、食べたことも、なかったです。石けんだと思って、チョコレートで、手や顔を洗ったり、洗濯をしていました。
親切にするとき、自分がこれでよい、と思ってしても、実は、本当の親切にならないこともあります。親切や奉仕が、かえって余計なことで、相手にとって、迷惑なことさえあります。これを、「ありがためいわく」といいます。
マルタは、イエス様にとっては、ありがためいわくなことをしていたのです。なぜなら、イエス様が望んでおられたのは、ごちそうではなかったでしょう。食べるものは何でもよかったかもしれない。静かに自分の話を聞いてもらいたかったかもしれない。イエス様の望みを理解したマリアは、イエス様が望むように、静かに「足もとに座って」(弟子となる、という意味)、イエス様の「話に聞き入っていた」のです。これが本当の親切だったのです。
自分勝手なやり方で、相手の気持ちを理解しようともしないでする親切は、かえって、ありがためいわくで、親切でないこともあるのです。もちろん、マルタもマリアも、イエス様を愛していました。しかし、マルタは、イエス様が望んでおられたことを、理解しようとしないで、自分の親切を押し付けたのです。マリアは、イエス様の心を理解して、親切にしたのです。
人を理解するために、もっとも大事なことがあります。それは、イエス様の「足もとに座って」イエス様の「話に聞き入る」ことです。
私たちの毎日の生活は、仕事、勉強、家庭、お付き合い、親戚、大変忙しいことでしょう。マルタのように、「多くのことに思い悩み、心を乱している」毎日なのかもしれません。マルタのように、せわしく、活動的に生きることも悪くないでしょう。けれども、それだけでは、いつの間にか、自分勝手な生き方になってしまいがちです。毎日、十分間だけでも、静かに、イエス様の話に聞き入る時間をもつ
ことが大切でしょう。「必要なことはただ一つだけ。」イエス様の望みを知ることです。それが、人を理解し、隣人愛を実行する第一歩なのです。
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(2007年)
イエス様がマルタとマリアの家に来ました。二人はイエス様を迎えますが、マルタは、もてなしの料理を作らなければと思ったのでしょう。すぐ台所に入り、準備を始めます。一方マリアは、イエス様を出迎えたあと、そのまま足もとに座って、イエス様の話を聞くことに夢中になり、台所にマルタが入ったことさえ気がつきません。
マルタはまじめでよく気が利く人だってのでしょう。しかし忙しさのあまり、もっとも大事なことを忘れてしまいました。お客様、イエス様を快くさせることをです。マルタはこともあろうに、大事な客人・イエス様に訴えてしまったのです。マルタは、次のように言ったのです。
「私はイエス様、あなたをもてなすために、こんなに忙しく働いています。なのにマリアはあなたと話をすることに夢中で、私を手伝おうとしません。あなたは不公平な方です。なんとも思わないのですか。マリアとばかり話しこんでいないで、マリアに私を手伝うよう言ってください」。
マルタはこう言って、大切なお客様を不公平で鈍感な人と咎めてしまいました。せっかちで、まじめで、働いてさえいれば安心できる日本人は、すぐこう判断します。「もてなしのために忙しいマルタと、のんびりイエスのもとにいて動かないマリア」。そう言う問題ではないのです。忙しさのあまり、マリアを怠け者、イエス様を不公平な人と決め付けてしまうほどになってしまう心の危うさを言った話なのです。
どうしてマリアを怠け者ということができたでしょう。どうしてイエス様を不公平ということができたでしょう。もしこの話を聞いて、マリアやイエス様に対して、同じように思ったなら、そしてマルタはかわいそうと思ったならば、あなたはすでに、その病気に毒された人なのかもしれません。
ある宣教師が、貧しい国に来て、一所懸命、病院や学校を建てることに専念します。それは見事に成功します。ところが日曜日は別の教派の教会に、たくさんの人が出かけ、その宣教師の教会には、ほとんど人が集まりません。こんなにやっているのにどうして?宣教師が尋ねたところ人々は答えました。「私たちは、神さまの話を聞きたかったんです」。神の国のために働いているつもりが、その神を伝えるということを忘れてしまった笑えない話です。
このような危険は、今日の修道者にとっても同じ誘惑です。学校とか施設とか、そう言うところで休む間もなく働くとき、神様のことを伝えることが、二の次になる危険です。また内面的にも仕事のために、落ち着いて祈る暇も取れないという状態にもしばしば陥ります。何のために今この仕事をしているのかという、その肝心な点を忘れてしまう危険です。
人間にとって、やらなければいけないこと、目標があることは、もちろんうれしいことです。
しかし忙しすぎるのも、心を乱すのです。「あれもしなければ、これもしなければ」。「あれもうまくいかない、これもうまくいかない」。「何一つはかどっていない」。どんどん心がかき乱され、焦りばかりつのります。不満いっぱいになり、あたり飛ばすようになります。「どうして自分ばかりこんな目に遭わなければならないのか」。「どうしてあの人は、楽をしているのか」。「どうして誰も自分のつらさを分かってくれないのか」。忙しいと言う字が、心を亡ぼすと書くとおり、忙しさのために、どんどん狭い心、余裕のない心になり、一番大切なことさえ忘れてしまうことがあるのです。マルタが大事なお客様イエス様を、批判してしまったように。
だから子どもをよく育てようとやっきになって、あれもこれもと子どもに要求して、しかし子どもは親の言うとおりにできずに、いっそう親がイライラして焦っている時。こんな言葉が多く出ることに気づくでしょう。「早くしなさい」「なにやってるの」「あなた駄目ね」「勝手にしろ」「もう知らない」。しかしこれらの言葉は、子どもの心を壊し、劣等感を植え付け、親子のつながりも破壊しているのです。
マリアと共にたたずむイエス様だったらこう言うでしょう。 完全になりなさい?いやそのままでいいんじゃない。 急ぎなさい?いや、ゆっくりしてていいんじゃない。 もっと努力しなさい?いやそこまででいいんじゃない。 他の人を喜ばせなさい?でももっと自分自身を大事にしてもいいんじゃない。 もっと強くありなさい?そう、イエス様があなたの重荷を負うために来てくださったのです。
しなければいけないこととしたいことを、しっかり分けましょう。多くのことに気を配って思い煩い、そのために肝心なことを忘れていないか。ただ一つの必要なこと、しなければいけないことは、愛を指し示すことです。
一所懸命仕事に専念し、家のことをすっかりおろそかにしてきたとき。だからこそチェックして下さい。何のための仕事か。家族の生活のためというのが、ただの言い訳で終わってないか。ある熟年の方は語りました。「企業戦士だった私と妻の関係は冷え切っています。定年を控え、何のための仕事、家族だったのか悔やむばかりです」。実際熟年離婚はこうして増えています。
本当に今やっていることが、愛のためになっているのか。自分の心が、マルタのように一番大切なことを忘れてしまっていないか。神さまがこんな愛のない私に忍耐強く接してくださっている、私のこの苦しみを十分知っていて下さり、また私を愛して下さっている。その神さまのもとに心と体の気負いを置いて、一呼吸してみませんか。
moseos
ところで、この話が、このような形で、福音書に記されて今日まで残ったのは、マルタとマリアという二人の姉妹を比較して、マルタを非難し、マリアを賞賛するためというのではないのであります。
今日の物語を通して、今私たちに向けられている問いは、私たちがどれだけ教会にしかないことに集中しているかという問いなのであります。教会の中には様々な出来事があっていいし、あるべきであります。様々な働きがあっていいし、あるべきなのであります。バザーもいいでしょう。あって悪いなんていうことは全然ありません。とりわけ大切なことは、教会の中にしかないもの、教会の中にしか在り得ないものに集中するということであります。教会でしか得ることのできないもの、世界中、何処を探しても見出すことができないもののためにこそ教会があるのです。一言でいえば、本当に必要なことは、神の御言葉へと集中していくと言うことであります。イエスが必要なことは唯一つだけであると言われて、足元に座り込んで、接待もしないで、イエスの話に聞き入っていたマリアの態度を見て、「マリアは良いほうを選んだ」といわれているとおりであります。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/129.htm
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