Sunday, March 24, 2013

6 easter C


復活節6主日C

【ヨハ14:23-29】

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」。




本日の福音書はお別れの挨拶のように響きます。イエスは彼の死と復活、そして天への昇天の前に最後の祝福を弟子たちに与えているように見えます。

実は本日の福音はイエスの弟子たちへの「さよなら」でも「また会いましょう」でもないのです。注意深くイエスさまが語るのを聞きましょう。「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」。「わたしはあなたがたところへ戻ってくる」という宣言は正確に聖霊を送るということへの言及です。イエスは弟子たちと私たちのところに聖霊として来ることを約束しているのです。ですからイエスは去って行くのではなく、ただ別の新しい仕方で臨在することを約束してくださっているのです。本日の福音書の日課によると、イエスが聖霊を送ると弟子たちは信じることができるようになるのです(29節)。聖霊の力づけを得た信仰を通して、キリストは洗礼を受けたすべての神の民のただ中に臨在しておられるのです。


--------


少し昔、JR関西空港線が開通して間もない頃、私のクリスチャンの知人が関西空港線に乗られた時の事です。
どうした事か、あの関西空港大橋の真ん中の高い所で、突然、列車が急停車して止まってしまったそうです。
まだ開通間もない頃ですから、乗客もあの高い所に慣れなくて、恐る恐る乗っていた頃ですから、乗客は全員総立ち、車内は騒然となってしまったそうです。
でも、その時、その友人は思ったそうです。
「今、落ちても天国だ」で、友人は「席を立つ事もなく、落ち着いて列車の動くのを待つ事が出来ました」と証しされました。
もしかしたらここで死ぬかも知れないという、その咄嗟(とっさ)の時に、「今落ちても天国だ」と思える。
それはやはり、受け止めて下さる方がそばに居られる。
そのまま天国に連れていって下さる方が、そばにおられる。
その確かな方を知っているという事が、そのような非常事態にも、平安を保つ事の出来る唯一の方法なのだ、と改めて思ったのです。

しかしながら、これは私自身も経験した事であり、結構皆さんの中にも覚えのある方もおられるかも知れないのですが、
今、現に主イエス様を信じているのに、どうも平安がない、確信がない、力がないという事を感じる時があります。
イエス様は今日の所で、
 14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
とおっしゃった筈なのに、その平安を得られない、或いは見失ってしまう、それは一体どういう事なのだろうか?
そこで今日は、「主にある平安」という事を考えて見たいと思います。

という事で、まず最初に一つのキーワードなのですが、今、私は「平安をが得られない」というふうに申し上げましたが、これ、実はちょっとおかしい言い方なのです。
つまりね、イエス様はなんとおっしゃたのか?
それは、「私はあなた方に平安を残します。与えます」なのです。
つまり平安は得るものではなくて、与えられるものなのです。
ところが、私達は、そんな風に平安を見失った時、あたかも自分に何かの問題があり、それが原因で平安が消えてしまったかのように考えてしまう。
そしてそれを自分の力で取り戻そうとして苦しんでしまう、という事はないでしょうか。
確かに、例えば、失敗してしまったとか、罪を犯してしまったとかいう事があれば、それは確かに問題ではあるかも知れないし、それによって主が遠く感じられてしまうという事はあります。
しかし、よく考えて見ましょう。
失敗をしようが、罪を犯してしまおうが、すべて赦されているのが福音なのです。
だから、平安を見失ってしまった原因は、確かに自分自身であるかも知れませんが、それは失敗や罪ではない筈なのです。
だから、それが原因でいわば因果応報のように、平安が取り去られるとか、失ってしまうとか考えてしまうと、それはちょっと方向が違うのです。
そうではなくて、罪や失敗の中にあっても、どんな問題のなかにあっても、どんな時にも平安を失わない事こそ、主イエスを信仰する事の結果であり、恵みであろうかと思います。

つまりね、平安とは一体どのようにして来るのでしょうか?
それは、先ほどの私の知人のお証しによれば「ここで死んでも天国に連れていって頂ける」「その方が共におられる」この確信から平安は来ました。
するとそれは、そのように、主イエスのお言葉に信頼し確信する者に、主が平安を与えて下さるのだ、という事になりますね。
では、主イエスのお言葉の、何に信頼し、何を確信するのかと言えば、それは、主の愛と赦しなのです。

先ほどの23節をもう一度読みましょう。
ヨハネ14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
つまり、主を愛し、主の言葉を守る人と共に、主は住んで下さるのだ、という事が書いてあります。
そして、主はその人に平安を与えて下さる、という事なのです。
つまり、主を愛し、主の言葉を守るなら平安を与えられるのです。
ですがここで、主の言葉を守る、という時に、あくまでもそれは戒律を守るとか、守らねばならないといった律法ではないのです。

つまりね、福音書を読みますと、イエス様は多くの戒めを語られました。
で、それは本当の所、どうでもいい事ではなくて、やはり守る必要があるから、聞く必要があるから言われたのです。
じゃあどうして必要なのか?
それは、私達は救われたとはいえ、赦された罪人に過ぎない、不完全な者なのです。
だから、そのような私達が、正しく信仰生活を送り、神様のみ心の中を歩ませて頂こうとする時に、やはり正しい導き、指針に聞き従う事は必要なのです。
そして又、私達自身も、信じた時に与えられる聖霊によって、聖く歩みたい、正しく歩みたい、という願いを起こされます。
だから、救われた人なら誰でも、主の戒めを守ろうと願うのです。
「私の羊は私の声を聞き分ける」と言われている通りに、
主に従おうとするのです。

ところが、ここに問題がある。
それは誰も完全には出来ない、という事。
これはね、私にも大いに覚えがありますが、何かをやろう、させて頂こうと願うのですが、何をやっても中途半端で、よく出来た事など一回もないです。
例えば、人を愛そう、愛したいと願っても、人間である以上、愛し尽くす事は難しいです。
どこかで、これ以上は無理だ、という限界に突き当たってしまう。
或いは、人を赦したい、赦そうと考えます。
しかし、これも、心の底から赦す事は至難の業である事は皆さんご存じでしょう。
正直な所、皆さん、聖書の通読一つにしてもいかがですか?
なかなか出来ないのではないですか?
しかし、それらの事は、御霊の助けを得ながら、あくまでも主イエスの愛と赦しの中で、ある程度までは進みます。
しかし、信仰とは進めば進むほど、限りなく自分の足りなさが見えてくるものなのですね。
だからそこで、主イエスの愛と赦しに戻ればいいのです。
そして、もう一度歩み始めればいいのです。

が、どこかで、その主イエスから目を離してしまって、足りない自分、出来ない自分に目を留めさせられてしまうと、(これは受け身です)願いを起こし頑張ったけど出来なかった、自分はダメなんだ、と自分の弱さを嘆くようになる。
そして、人間というものは失敗すると、なんらかのペナルテイみたいなものを想像してしまうものですから、そこの所で不安になり、やがて平安を見失なわせられる(これも受け身です)のではないでしょうか?
平安を見失ったという、本当の理由はそこにあるのだ、と私は考えています。

では、どうすればいいのか?どう考えればいいのか?
これはね、ただイエス様の愛に信頼する事。それだけです。
つまり、イエス様の愛、イエス様の十字架の赦しは完全で、どこまでも深くて、どこまでも大きくて、私達のどんな罪も背きも足りなさも、すべて覆い尽くして下さるのです。
でも、その愛の大きさ豊かさから目を離して、自分自身の出来なさ足りなさに目を留めてしまえば、それはあまりにも情けないものでしかないのです。
だから、たちまち押しつぶされてしまうのです。
だから、絶対に十字架の愛と赦しから目を離さない事。
疑わない事。それしかないのです。

だから、もう一度でも何度でも確認しましょう。
主が私達を愛して下さるという時に、それはどんな時でもなのです。
だからそれは、私が良く出来たからとか、戒めを守るからでもないのです。
例え私がどんなに出来なくても、戒めを守れなくても、それでも、その私を限りない愛を持って愛して下さるのだ、という事。
そして、どんな時にも共にいて下さるという事。
私達の平安は、実にそこにしかないのです。
そこで、改めて、主の言葉を守るとは一体どういう事なのか?
それはね、先ほども言いましたが、規則戒律を守らなければならない、と言っているのではない。
なぜなら、繰り返しますが私達は守れない者、出来ない者だから。
絶えず主に背き、絶えず裏切り、道を離れそうになる、そして主を遠く感じ、平安がないと嘆く、そんな者だからです。
しかし考えて見ましょう。
主イエスは、そんな私達である事は百も承知で、その上であえて私の言葉を守りなさい、とおっしゃった、つまりそれは、そんな私も、すでに赦しと救いの中にあるという、その約束をを信じなさい、という事なのです。

だから、私達は時には、主を遠く感じてしまう事もあります。
失敗や犯した罪を悔いて沈み込む事もあります。
しかし、そんな時にも、主の言葉を心の内に守る。
すなわち、それでも主は、この私を愛し赦し、共にいて下さるのだ、という事。
どんなに主を身近に感じられなくても、絶対に主は共におられるのだ、という事。これを信じる事なのです。

--------
しかし、私達の裏切りがどれほど大きくても、主は私を裏切らない。私がどれほど不真実でも、主は常に真実な方なのだ。
それを疑わない事。
そして、そんな私をすっぽりと十字架の愛と赦しの恵みに包み込み、守って下さるのだ。
そこにわたしたちの平安があるのです。
そして、そこにしか平安はないのです。
だからそれを忘れたら、例えどんな信仰者であろうとも、たちまち不安のどん底に落とされてしまうのです。
福音とは何ですか?
それは、どこまで信仰が進もうとも、常に、「こんな私」が「そのまま」愛され赦されている、という事なのです。
「こんな私」が、「そのまま」でその主イエスの愛の中にある、という事なのです。
だから、それを信じ、そこに安らぐ事。

その為にはどうしますか?
力を抜く事。握りしめているものを委ねる事。心の扉を開く事。
色々言われますが、私はこれだと考えています。
それは、「力が入っていようが、何かを握りしめていようが、心の扉を閉ざしていようが、こんな私がなお、どこまでも限りなく愛され赦されているのだ」という事を信じる。
それこそが、主の言葉に聞き、それを守る事であり、主への信頼であり、そして主はその信仰をこよなく喜んで下さるのではないでしょうか?
なぜなら、福音とは、それほどまでに弱い者の為に用意された救いだからです。

"(In Adam) humanity took its identity as appropriated rather than simply receiving it" (J. Alison, The Joy of Being Wrong, p. 202)

No comments:

Post a Comment